茜色の風

空き缶

茜色の風

 幼馴染というのはたぶん、この世で三番目くらいに綺麗な呪いだ。家族と同じくらい親しい、あるいは親しかったからこそ、赤の他人より遠い存在。


 物心ついたときから一緒にいて、お互いの良いところも悪いところも知っている。確かに幼い頃は、特別な存在だっただろう。

 でも創作の中とちがって、私たちは時間の流れを生きている。時間というのは過ぎ去るものだ。風のように吹き抜けるものだ。時間が過ぎるにつれて、私たちを取り囲むものも、私たち自身も、変わってゆく。変わらないものなど、何一つない。


 むしろ私くらいの年になると、毎日でも毎分でも、変わることを夢見ている。まるで停滞することが悪いことみたいに、進むことがいつだって良いことであるかのように、今の自分を否定して、未来の自分に憧れる。

 そうなると、幼馴染はただの重石だ。過去の人間関係の象徴とも言えるそれは、変わろうとする自分にとって疎ましく、いらないものに成り下がる。


 自分を縛る幼馴染は、もはや目障りでしかない。

 だからきっと、春樹は私を遠ざけたのだ。


 私はそんな風に考えていた。



 私と春樹が出会ったのは二歳の頃、近所の公園でのことだった。母が言うにはそのときの私はとにかく不機嫌で、公園に着くや否や、一生懸命に砂山を作って遊んでいた春樹の前に仁王立ちになり、彼の作品を粉砕したらしい。我ながらひどい子どもだと思う。


 当然私はそのことを覚えていないのだけれど、そんな出会い方がその後の私たちの関係を形づくることになった。


 当時の私は気が強くて子どもにしては頭の回転が速く、春樹は反対にいつもぼーっとしてワンテンポ遅かった。私はおもちゃやお菓子を彼から取り上げるのを日課としていたが、彼は自分の手の中のものが無くなっているのにもしばらく気付かず、首をかしげる頃には私がそれを持って走り去るのが日常だった。


 しかしそんな私にも自分なりの仁義があって、子どもながらに春樹を色々なものから守ってやらなければ、と考えていた。春樹は放っておくと赤信号に気づかず横断歩道を突っ切ってしまうような子どもだったし、いじめっ子に殴られても決して大声では泣かなかった。彼は、なぜ自分が殴られなければならないのかをまずゆっくりと思考して、やがてこみあげる痛みに耐えきれずぽろぽろと涙をこぼすような男の子だった。


 私は春樹に対する自分の仕打ちを棚に上げ、あるいは棚に上げなかったからこそ、彼を害する何者からも彼を守ろうと決めていた。それが果たして春樹のためになったのかはわからないが――それは幼い子どもだったがゆえに私が辿り着いた、一つの純粋な誠意のあり方だった。


 そんな私たちは必然的に共に育った。家が近いので幼稚園も小学校も同じだったけれど、それ以上に幼馴染の絆が私たちを結んでいた。


 学校といういくらか開けた社会でも、私たちは当然のようにいつも二人でいた。お互いに友達が新しくできても、それはさして重要な問題ではなかった。家族とも友人とも違う特別な距離感で、私は春樹を必要としていたし、彼も私を必要としてくれていた。


 そして思春期に差し掛かったある秋口に、私は気づけば春樹に恋をしていた。

 胸の中心にしまっていたランプに火が灯されたような、それはどこかしっくりとくる、温かな初恋だった。


 私はその感情を割と早くから自覚していたけれど、取り立ててそれを表に出すことはしなかった。春樹と二人でいることで私は十分満たされていたし、幼い私たちにとって、それが世界のすべてだった。それ以上何を望めというのだろう?


 実際私たちは何も望まなかった。強いていうなら、そのままの停滞を望んでいた。

 でもそんな些細な願いすら、神様は叶えてはくれなかった。



 何事もなく小学校を卒業し、私たちは地元の中学に進んだ。私たちの町はそこそこの田舎で、もちろん皆同じ学校に通う。小学校は運よく徒歩で通えたのだが、中学は自転車で三十分はかかるところにあった。


 私たちは毎朝、一緒に自転車を漕いだ。私は入学祝いに買ってもらったピカピカのアルミの自転車で、春樹は年季の入った、親のお下がりを使っていた。並んで走ると自分のが惨めに見えるからいやだ、と言って私のあとを付いてくるくせに、そのころはまだ春樹は背が低い上にひょろひょろで、自転車を漕ぐのが遅かった。だからしばしば気づかないうちに私は春樹を置き去りにしてしまい、彼の機嫌を損ねたものだった。


 小学校は一クラスしかなかったので私と春樹は当然同級生だったけれど、中学ではそうはいかず、結局三年間で一度も同じクラスにならなかった。教室を繋ぐ廊下の長さが、少し大人になった私たちに社会の厳しさを突きつけているみたいだった。

 だからせっかく毎朝一緒に登校しても、昇降口で彼と別れるたびに、私の胸はちくりと痛んだ。教室に春樹の姿がないだけで、私は半身を失ったような心細さを感じた。


 初めの方こそ休み時間のたびに彼のクラスに遊びに行っていたが、すぐにやめた。冷やかされるのが嫌だったからじゃない。春樹が私の知らない顔で友達と楽しげに会話しているのが耐えられなかったからだ。春樹はいつもぼけっとしているくせに、新しい環境に馴染むのは私より早かった。男子独特のバカみたいな、けれどよそ者を強く拒む空気に食らいつくことができず、私は肩を落として自分の教室に引き返した。


 春樹とは対照的に、私が周囲になかなか溶け込めないのも孤独感に拍車をかけた。中学に上がった途端に、女子の中では見えないルールがいくつも増えて、私はそれを守れなかった。トイレにはみんなで行かなきゃいけないとか、リーダー格の子の言うことには相槌を打たなきゃいけないとか。どう考えてもくだらないけれど、重要なのはそこではなかった。

 とにかくルールが存在して、それを守れば安らかに暮らせる。そんなことにも気づかないで、自分の持っている「正しさ」にこだわった私は、きっと正しくなかったのだろう。

 少し前までは、そんなことに悩みもしなかったのに。たいていの理不尽は、口喧嘩と腕力で対処することができたのに。

 環境の違いは、私の心を黒い雲で覆ってしまった。そして気づけば私は窓の外を見て過ごす時間が多くなった。


 だから、春樹がたまに「今日は一緒に帰ろう」と言ってくれた日はとてつもなく嬉しかった。


 春樹はチビのくせにバスケ部に入り、放課後は延々しごかれていた。汗臭いジャージ姿で校門にやって来る頃にはすっかり日が傾いていて、「女の子をこんなに待たせるなんて」と私は怒ったふりをして彼に噛み付いたけれど、内心はそんな春樹の気の利かなさにほっとしていた。


 他愛もない話をしながら、夕方に吹く茜色の風を切り裂いて二人で自転車を漕ぐ時間は、私の胸の奥にこびりついたものをじんわりと溶かしてくれた。


 私にとっては春樹との絆が唯一で最後の、〈変わらない確かなモノ〉だった。



 中学二年の初夏、春樹に好きな人ができた。私ではなかった。


「女バスの先輩でさ。シュート練とかオレ下手だから。よく見てくれるんだ」


 いつものように自転車で登校する朝、春樹は私を追い抜きざまに耳元で言った。微かに漂うワックスの香りとあいまって、その台詞は私の胃をきゅっと縮めた。


「え、それで? どうすんの」

 内心の動揺を隠そうと、私はつっけんどんに言った。


「どうもしないよ。今は、まだ」

 振り返らずに春樹は答えた。


「まだってことは、そのうち何かするの」


「さあ。したくなったら、するかも」


 的を得ない返事に、どうしようもないほど苛立つ。何それ。思わせぶりなこと言っちゃって。本当にそれってその人のこと好きなの? 好きな人いるけどすぐ告らないオレマジかっけえ、とか思ってるんじゃないの。


「なんで夕希ちゃん怒ってんの?」

 速度を落とした春樹が横目で私を見ながら言った。


「怒ってない」


「怒ってるじゃん。機嫌悪い」


「怒ってないったら!」


 私の怒鳴り声に、春樹は一瞬ひるんで、なんだよ、と毒づく。そのままむすっと押し黙ってしまったけれど、ここで私を置いて先に行かないのが彼の優しさだ、と思う。

 わかっているのに。春樹のことはちゃんと理解できているはずなのに。嵐のように荒れ狂った気持ちが私を内側から激しくゆさぶっていた。


 何がシュート練だ。何が女バスの先輩だ。ワックスなんてつけちゃって。ていうかこないだまで自分のこと〈オレ〉なんて言わなかったのに。


 私たちは中学生として、健全であることを求められていた。春樹はその流れにしたがって、大人になろうとしているようだった。彼は今横にいるけれど、実際は、一人で前に進み始めようとしている。


 待って、と言いたかった。本当は。私を置いて行かないで、と素直に言えたなら。春樹が待ってくれることはなくとも、私がもっときちんとした形で前に進めたかもしれない。

 でも、そういう意味では、私はまだまだ子どもだった。


「言っておくけど、どうでもいい相手から告白されることほど面倒なことってないから。春樹がその先輩に恩を感じてるなら、何も言わないのが賢明ね」


 せせら笑うように私は言った。彼の心を理解していたからこそ、最も的確に傷つけるような言葉を選んだ。ぐしゅり、と何かが潰れるような音がした、ような気がした。


 けれど春樹は、しばらく何も言わなかった。学校に着いて、自転車置き場に停まってからやっと、見たことのないような無表情で、私をじっと見つめた。


「夕希ちゃんは、ちょっとオレに構いすぎだと思う」

 よけいなお世話だから、と彼は言って、昇降口へと向かっていった。


 残された私はぽつんと空を見上げた。


 取り返しのつかない何かをしでかしてしまった時、意外と心は平静だったりする。それはたぶん、一時的にショックを遮断して現実逃避しているからだ。


 その証拠に、というほどでもないけれど。空の蒼さに飽き飽きとしてきたとき、「よけいなお世話」と私は呟いて、それから泣いた。





 結局それから今に至るまで一年もの間、私は春樹とろくに話すことができなかった。毎朝の通学も、彼の朝練を理由に別々にすることとなったし、クラスも違うので積極的に関わろうとしなければ顔を見ることもない。


 それによって私に起こった変化は、物事を深く考えるようになったことだった。なにせ常に一人で、暇なのだ。考えるくらいしか、することがなかった。

 春樹との関係についても、もちろん嫌というほど考えた。というか、それが毎日の主な脳内議題だった。


 冷静になってみれば私が悪いのは明らかだったし、素直に謝ろうと思った。けれど春樹は何かと理由をつけて、私に会おうとはしなかった。


 聞くところによれば、ちょうど春樹と気まずくなったあたりで、私たちが幼馴染だということが広まったらしい。


 違うクラスの、友達のいない無愛想な女子。

 そんな存在が幼馴染として広まって、恐らくは何かの形で囃し立てられて、春樹は色々と嫌になってしまったのだろう、というのが客観的に考えた結論だった。


 ――まあ、自業自得だろうな。

 一年前より少しだけ大人になった私は、今日もそうして自分に言い聞かせる。私は自分のせいで、いちばん大事なものを壊してしまったのだ。

 

 けれど、と私は心の別の場所で思う。


 もしかしたら。あれはきっかけにすぎなかったのかもしれない。あのとき私がまちがえなかったとしても、春樹は前に進んでいただろう。そしていつしか停滞している私と彼の差は埋められないほどに広がって、やっぱりそのうちに、破綻する。

 春樹にとって、幼馴染はどうあってもいらない存在なのだ。



 キンコンカン、と終業のチャイムが鳴る。私はいつも通り、おしゃべりに興じるクラスメイトを尻目に、カバンを持って教室を出た。じわり、と夏の熱気が途端に襲ってきて、げんなりしながら廊下を進んだ。


 階段を降りて昇降口を出て、自転車置き場で自分の愛車を探す。あった、そういえば今日はこっちに置いたっけ。


 入学当初に買ってもらった自転車は、すっかりくすんで鈍色になっていた。それを私は愛おしく感じる。なんだって使い古して馴染んだものの方が私には向いている。新しいものが良いものだとは、限らない。


 カラララ、と自転車を押して歩いていたとき、ちょうど自転車を取りに来たらしき二人の生徒が私の前に現れた。


 え、と私は思わず固まる。仲睦まじく話をしながら歩いてくる男女の片方は、あろうことか春樹だった。髪を伸ばして、制服を着崩している彼の姿に、私の心はずきっと痛んだ。

 二人は当然のことながら、硬直している私に気づく。あ、と春樹はすぐにバツの悪そうな顔をした。


「えーと、誰?」


 春樹の横にいる女子生徒は、私たちの気まずい沈黙に耐えかねたのか、アホ丸出しの質問をした。誰、って。もうちょっと訊き方があるでしょう。


 春樹はぽりぽりと頬をかいて、答えにくそうに言った。

「3組の岡野さん。まあなんつーか、昔の知り合い? みたいな」


「もしかして、元カノ?」


「ばっ、ちげえよ。アホか」


「ふうん」


 至極どうでもよさそうに、その女は答えた。それは当然だ。どうでもよく聞こえるように春樹が話しているのだから。


 私たちは幼馴染だ。元カノなんかよりずっと古い、強い絆で結ばれた関係――だった。


 それが、昔の知り合い? 岡野さん? 滑稽にもほどがあるよ、春樹。


 私は大きく息を吸い込んだ。それから意識して満面の笑顔を浮かべる。


「片岡くん、久しぶり。それから一年前は、ごめんね?」

 じゃ、と手を振って、私は自転車にまたがり、力一杯ペダルを踏んだ。


 風を切って校門を抜ける。全力で走っていると、舗装された道路はすぐに畦道へと変わった。

 この先には、丘を登る長い坂がある。下りはともかく、上るときは自転車を降りて押さないといけない。


 でも、今日に限っては、このまま突っ込んでやろう、という考えが自然と頭の中に浮かんできた。


 坂が見えてくる。ハンドルをぎゅっと握りしめ、助走をするように力を込めて漕ぎ始めた。


 なんなんだ。春樹のやつ。女バスの先輩が好きだったんじゃないのか。なんだあのアホそうな女は。あの軽薄そうなしゃべり方も大人になる上で必要なことだったのだろうか? 弱虫で、泣き虫で、優しさだけが取り柄だった春樹が、あんな風に変わってしまうなんて。 


 私にはもう、春樹の心がわからない。春樹と幼馴染なのだと、縋るように自分に言い聞かせることも、たぶんもう無理だ。


 じゃあ、私の想いは、いったいどこにぶつければいいのだろう? 私はこれから、どこに向かって進めばいいのだろう?

 

 ついに坂に差し掛かった。猛スピードで駆けてきたはずなのに、急勾配でガクンと速度が落ちる。ああ、こんなことなら今朝タイヤに空気を入れておくんだった。


 奥歯を噛み締めて、ペダルを漕ぐ。踏みしめる。右へ、左へ、右へ、左へ。乳酸が足に溜まってきて、だんだんと太ももが重くなる。知ったことか。


 進め、進め、ただ前へ進め。


 息は荒くなり、汗が噴き出る。流れた汗は雫となって、私の後ろに散ってゆく。


 それが私は心地よかった。自分の中の古くていらないなにもかもが、汗に溶けて流れてしまえばいいと思った。


 この坂を登りきった時、私はきっと生まれ変わる。


 なぜかそんな確信が湧いてきて、私はいっそう強くペダルを踏んだ。


 自転車はそんな私に応えるように、頼もしくスピードを上げ、でもすぐに減速する。

 足が限界に近かった。はっ、はっ、と息を吐きながら交互に足を動かすたびに、自転車も同じように息継ぎしていた。


 なんで。動いて、止まらないで。


「ああああああああ」


 女子としての慎ましさなんてかなぐり捨てて、私はあらん限りの声とともに足に力を込めた。やばい、筋肉が悲鳴を上げてる。ていうかなんでこんなに頑張ってるんだろう私。バカじゃないの?


 でもここで我に返って、足を地面に着けることだけはしたくなかった。


 あとちょっと。あとちょっとで、てっぺんまで辿りつく。


 夕暮れの日差しが死にものぐるいの私を照らし出す。応援するように、あるいは嘲笑するように。でも、そこで無情にも、私を乗せた自転車は力なく止まろうとしていた。


 ダメか、と覚悟したとき、びゅう、と一陣の風が吹く。茜色の風だ。この辺りで、日が沈む頃に時折吹く突風。かつて春樹と一緒にその中を駆け抜けた風。


 風はちょうどあつらえたように背中をふわりと押してくれる。私と鈍色の車体が、ほんの少しだけ前に進む。そして私は、ついに丘の頂上に前輪を乗せた。


「や、やった……」


 言いようのない達成感に胸が満たされていく。あんなに汗をかいていたのに、風のおかげでそれすらも気持ちよかった。


 頂上からは町の景色が見える。と言ってもほとんどは田んぼと畑だけれど。私たちの学校も見える。クラスメイトたちはまだおしゃべりしてるのかな。部活に精を出している人もいるだろうな。


 春樹は、あの子とどこかで遊んでいるのだろうか。

 そう思うとやっぱりちくりと胸が痛んだけれど、それはじくじくと治らないような感じではなく、むしろ爽やかな痛みだった。


 幼馴染。それはやっぱり、私にとって大切な呪いだ。私の人生のほとんどすべてに関わってきたのだから。


 それでも、そろそろ先に進もう。過去を否定するんじゃなくて、一つの思い出としてとっておこう。また次に彼と顔を合わせたとき、今度は心から笑えるように。


 そしてまたいつか、新しい気持ちで自転車を漕ぐんだ。


 そう心に誓って、私はトン、と地面を蹴った。

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