青春の宝石

三津凛

第1話

地球からの贈り物が、私に話をさせたがる。



「大人になるには、何がいると思う?」

小生意気で自信に満ち溢れた声が頭に響く。顔を上げると、ブレザーを着た女の子がピアノを弾いていた。いつの間に家に上がり込んだのか不思議だったが、私はその紺色に急激な懐かしさを憶えた。

「…ねぇ、澄子じゃない?あんた、どうしてここにいるのよ…まぁ、いいわ。懐かしいねぇ…」

澄子は振り返らずピアノを弾き続ける。アップライトピアノは、私が誰かのために買ってやったような気がする。その誰かが思い出せないが、すぐにどうでもよくなる。

「ねぇ、さっきのなによ?…大人になるために何が必要か、なんて…」

私は振り向かない紺色の背中に向かって話し続ける。ゆるゆると過去が解けて眼前に広がっていく。私の頭も、漆黒に染まっていくようだ。庭を眺める。手入れをされて、水を撒かれた花壇に優しく陽が当たっていた。

それを見るだけで気分が瑞々しくなっていく。

私は私の祖母が言っていたことを思い出した。あぁ、なんて懐かしいのだろう。券売機から切符が差し出されるように、過去が出てくる。

「澄子、私のお婆さんはね宝石を持つと一人前の…特に女は一人前の大人だって言ってたよ。男は女に宝石を持たせてやれるようになるのが一人前だったか……」

私は目を閉じて、水気のない祖母の掌に収まっていた宝石を思い出した。何かの神話では、星屑が地上に落っこちて宝石になったのだ。

澄子はピアノを弾くのを辞めて振り返る。奇妙な既視感があった。

「…でも、澄子は捻くれてるから笑ったでしょう。私は一つの夢だったんだけれど…澄子は自分の力で宝石を持てる人間が大人だって言ったんだもの」

澄子は何も言わない。

頭に靄がかかっていく。



私は、学校帰りにふと立ち止まった澄子に釣られて脚を止めた。澄子はガラス窓から光る宝石の群れを眺めていた。だが本当は男に宝石をねだる女を見ていた。私がそれに気がついたのは少し後で、飽かずに宝石を眺めて祖母の言い草をその時に思い出したのだ。

「大人になるには、何がいると思う?」

澄子は面白くなさそうに呟く。私は少し考えて、祖母が言っていたことをそのまま伝えた。それはなんとなく、本当の事のように思えたからだ。

澄子は聞き終わると、皮肉な笑みを浮かべて言い放った。

「自力で宝石を持てるのが、本当の大人なんだわ」

宝石店から、男の腕に引っ付いた女が、見せびらかすように宝石の乗った指輪をはめて出てきた。

「…澄子は宝石が嫌いなの?」

澄子はゆっくりと歩き出す。私も歩きながら、不思議な思いで聞く。

「好きよ、綺麗なものはみんなね。でも、そのために自分を卑しくしたくないだけ……」

私は肉の薄い澄子の顎を眺めた。澄子は鋭利で、妥協を知らないように思えた。豊満さのない、気に入った植物にしか栄養をやらない大地のようだった。

「…知ってる?地球の内部って、宝石でできてるの。上の方はグリーンで…エメラルドなのよ。奥に行くほど、圧縮されて信じられないほど美しくなるんだから」

私は見たこともない自然の宝石箱を夢想してみる。

「潜っていくと、本当に宝石箱の中にいるみたいよ、きっと…私たちは宝石の塊の上で生きてるのよ」

「素敵じゃないの。ロマンチックね」

私はろくに考えもせずに、ただ煌めきだけを思いながら言った。澄子は息を吐いて、あなたは幸せね、と笑った。

「…私はちっとも素敵だなんて思えない。所詮人間なんて、ノミのように地球の表面にたかって生き血を啜ってるだけなのよ。内部が宝石になってるのも、地球が生きてるから…循環するためのものなのよ。人のつける価値なんかより、ずっと尊いわ…でも、誰もそんなこと考えないの」

澄子は哀しそうに言い置いて、足早に夕陽に向かった。私は後を追いかけながら、孤独に揺れる背中を見つめた。

「…澄子は、何を知れば大人になると思うの?」

澄子は夕暮れの中で振り返る。あまり顔は見えなかった。

「ねぇ、生きていくために必要な2番目のものって何だと思う?」

逆に聞かれて、私は狼狽えた。

「2番目?なにそれ…」

澄子は少しずつ遠ざかるようだった。

「…宝石でも、希望でも幸福でもないのよ…。2番目に必要なのは、絶望だと私は思うわ」

「どうして?」

澄子がちょっと笑う。

「…何が幸せか、分からなくなるからよ」

私はそこで澄子に何か言ったような気がする。

「なにそれ」とか、「その通りね」とか、「変なこと考えてるのね」とか、「そんなこと間違ってるわ」……とか言ったような気がする。

あの日の澄子は、夕陽の中に溶けていくようだった。宝石への一瞥に、澄子は既に絶望を知っているのだと感じた。

私がなんと返したのかは、もう思い出すことができない。それでも……ただ一つのことだけは寂しく憶えていた。



「……澄子、あんたはもう大人になったんだよねぇ。私は置いていかれたんだなぁって思ったよ」

私は水気のない自分の掌を眺めた。澄子は振り向いたまま、動かない。どうして澄子はこんなに若いままなのだろう。だがすぐにどうでもよくなる。

「懐かしいねぇ…でもあんた、本当は宝石が欲しかったんだよ。私のをあげるから、待っててよ。私はもう何もいらないの」

立ち上がろうとすると、澄子がようやく口を開いた。

「宝石いらないわ」

私は澄子を眺める。

「…私があげたいの。今日は気分がいいからね。だって、久し振りじゃないの…卒業する前に私は結婚して学校を辞めちゃったから、もう…60年前かそれくらいでしょう」

澄子は私を動かせまいと肩に手を置く。あぁ、澄子は怒っているのだ。自分を置いて、あの宝石店で見た女のように、男から宝石を買ってもらうようになってしまった私に。

「宝石はいらないよ」

「いいの、いいの…私が…私があげたいんだから……」

そうやって、押し問答を何回か繰り返していると私はふと気がついて固まった。

「…お婆ちゃん?」

どこかで声が聞こえる。目を上げると、見慣れない紺色のブレザーを着た女の子が目の前にいた。

私たちはセーラー服をあの時着ていたはずだ。

「…あら、お嬢さん誰かしら……」

私は思わず椅子の上で後ずさる。知らない女の子が肩に手を置いている。

「私はお婆ちゃんの孫だよ」

「そうだったかしら…それより、澄子はどこに行ったの?さっきまでピアノ弾いてたじゃない……まだ怒ってるみたいだったから」

「澄子さんは怒ってないわ。…ちょっと用事があって、帰ったの」

私は部屋を見渡す。見知らぬ女の子以外誰もいなかった。帰るならそう言ってくれればいいのに、と私は哀しく思う。

「…それで、あなたは誰なの?」

「……私はお婆ちゃんの孫だよ、美鈴」

私は見慣れない女の子を眺める。そんな名前の友達はいなかった気がする。

ふと窓の外を眺めた。手入れをされて、水を撒かれた花壇が輝いている。あれはさっきと少しも変わっていない。

またピアノの音が聞こえてくる。紺色の細い背中が揺れている。

あれは誰の背中だったろう。

「お婆ちゃん、ブラームス好きだったでしょう?」

誰のことか分からないけれど、とりあえず笑っておいた。

花壇に撒かれた水が銀色に輝く。まるで宝石のようじゃない。

あぁ、そういえば昔大人になるためにはどうすればいいのか…何をしないといけないのか…とか話した人がいた気がする。

私はピアノを弾く若い背中に聞いてみた。


「…昔、ちょっと変わった、でもとっても素敵な女友達がいたようなんだけれど、知ってる?」

女の子は弾きながら振り向いた。なんとも言えない顔をしている。どこかで見たようで、一度も見たことないような気がした。


「…澄子さんでしょ、お婆ちゃん。もう亡くなったけど、お葬式にも行ったじゃない」

「そうだったかね……」

私は頭をめぐらせる。

すぐにどうでもよくなって、目を閉じた。

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青春の宝石 三津凛 @mitsurin12

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