木洩れ日
三津凛
第1話
木洩れ日だけを、あの人は置いていなくなりました。
わたしの遍歴時代は、あの人に出会って終わりました。わたしはよく、「お前は根無し草のようだな」と揶揄われておりました。たった独りで、諸国を遍歴していたからです。その度に無数の外国語を拾って集めて来ました。私は17番目に、あの人が話す言葉を覚えました。不思議な言語で、鈴を口に含んで舌で転がすような心地でした。りんりんりんりんと、言葉が鳴くのですから。
あの人はなんてことない、平凡な人でした。そこがとても気に入りました。小さな国の、小さな村にわたしは長いこと留まって暮らしました。
その間に、あの人と同じように愛されるようになりました。
わたしはあの人を愛していました。木々よりも古い暮らしと、そよ風のように流れていく時を愛していました。
ずっとずっとこのまま、あの人の隣に居たいと思っておりました。木洩れ日を見上げるように、あの人を見上げていたいと思っておりました。
わたしとあの人は、ただ同じ窓辺から昇る陽を眺めて、代わり番こに浮かぶ月と星を数えました。
そうやって、暮らし続けておりました。
わたしがいくつかの外国語を忘れかけたときに、戦争が始まりました。あの人は、わたしにこの小さな村と、小さな国を出るように言いました。わたしはもうこの国の小さな言葉以外話せなくなったから、他の国の言葉はみんな忘れてしまったから、無理だと嘘をついて出て行きませんでした。行くべき国はたくさんあったのに、地図からやがて消えるだろう小さな国の、小さな村にずっと居続けました。
あの人は黙って木洩れ日を見上げました。
そのうち村中の人々がかき集められて、どこかに送られる日がやって来ました。わたしだけが村に残されました。わたしは外国人だからと、棄てられたのです。
あの人は、そのうち帰ってくるからと笑って言いました。わたしは、いつまでも待っているからと伝えました。でもたった独りで寂しくなるな、と呟いてあの人を困らせてやりました。
あの人は少し考えた後、何も変わらない笑顔を向けて言ってくれました。
「木洩れ日を、自分の代わりに置いていくから寂しくはないよ」
それから村中の人々は、どこかへ行ってしまいました。あの人は、そのうち帰ってくるからと言いました。
木洩れ日だけを、あの人は置いていなくなりました。
そして、誰も帰っては来ませんでした。 戦争はその後、終わりを迎えたのです。
あとはただ、木洩れ日があるだけでした。わたしはただ、待ち続けました。
それでもある日急に馬鹿らしくなって、墓地になった小さな村を出て行きました。無数の外国語を忘れてはいませんでした。17番目に覚えた小さな言葉だけ、忘れてしまいました。それと一緒に、あの人も本当に死にました。あの人なんて本当に居たのか、今では分かりません。
まだわたしは、遍歴の中にいます。
わたしは根無し草に戻ったのです。
木洩れ日 三津凛 @mitsurin12
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