蜘蛛の帰る途

三津凛

第1話

指を折るたび、祈りは虚しくなる。

この繰り返しで、誰かが救われたかは分からない。


通学路で人が殺された。子どもたちの通る道に虚しい花束が転がっているのを私は見た。

あぁ、血の流れた後なのだろうか。湿っぽいアスファルトの染みを眺めて、通り魔の刺しただろう刃物の角度を思い浮べようとする。

誰も知らなかっただろう。殺された人も知らなかっただろう。世界がこんな風に終わることを。

救われる人はいるのだろうか。祈ることに力はあるのだろうか。

それでも私は指を折った。

憐れな魂が救われますように、血に塗れたどこかを逃げているもう一つの魂が悔い改めますように。そして、もう二度とこんな事が子どもたちの通る道で起こりませんように。



翌日朝のニュースを眺めていると、通り魔が捕まったと言っていた。


「人を殺してみたかった。誰でもよかった」


犯人の顔も名前も分からない。まだ成人じゃなかったからだ。殺された方は卒業文集まで晒される。彼だけのものだった過去も、あるはずだった未来もしゃぶり尽くされる。血に塗れた魂は、こんな風に悔いることもしない。

指を折るたびに、祈りは虚しくなる。

憐れな魂が救われますように、血に塗れたどこかを逃げているもう一つの魂が悔い改めますように。

魂は救われない、恨んで留まり続けるだろう。もう一つの魂は泣くこともないだろう。


そのままニュースを眺めていると、中東のどこかで紛争が起こっていることを伝えてきた。

子どもたちは何も知らない。正義も不正義も、善悪も、誰が敵で味方かも知ることができない。トラクターが野菜を轢いていくように、巻き込まれて殺されて行く。

誰も知らなかっただろう。殺される子どもたちも知らなかっただろう。世界がこんな風に終わることを。

救われる人はいるのだろうか。祈ることに力はあるのだろうか。

それでも、その日の夜はまだ見ぬ中東の子どもたちのために指を折った。いがみ合う全ての人々にも同じように指を折った。

1日でも早く、血の流れない日が来ますように、痛い思いに憎悪のために泣くことがもう二度と来ませんように。怯えのない明日が、世界中の人々の元に等しく来ますように。


翌日新聞を眺めていると、あの紛争が起こっていた地域にミサイルが撃ち込まれたことを知った。子どもも、大人も、いがみ合っていたはずの全ての人間が虚しく死んだ。

私は静かに新聞をたたんで、呑気に湯気を立てる紅茶を眺めた。怯えのない今日を、私は生きている。明日もまた、怯えのない日になるだろう。それを尊いものだと思うから、せめて私は祈るのにそれは何の実も、意味も持たないのだろうか。

救われる人はいるのだろうか。祈ることに力はあるのだろうか。



信じるために、私は追い出されるまで図書館に篭った。神や仏の言葉や、それに近しいと自ら言った人たちの残したものを漁り尽くした。少しだけ、信じてみようと私は決めた。

星空の彼方に、必ずや救いは住み給う。

そう思えば、通学路で殺された人も、紛争で死んで行った全ての人々も救われるように思えた。疲れてふと空を仰ぐと、たった一粒だけ輝く星を見つけた。それは救いの啓示のようだった。今日は何のために指を折ろう。


駅に着くと、疲れ切った人波に揉まれる。誰もが歯車になりきって疲れている。ホームの自動販売機の陰に、膝を抱えて蹲る人がいる。隣の顔は脂っ気がなく、色がなかった。

みんなみんな、疲れ切っている。生きることに倦んでいる。

あぁ、今夜はこの人たちのために指を折ろう。

どうか、全ての人々が生きることを愛せますように。

電車が滑り込んで来る。私は顔を上げた。

今指を折ろう、恐れず、恥ずかしがらず、今この人たちのために祈ろう……。

そうして腕を上げようとした途端に、自動販売機の陰で蹲っていた人が飛び出した。そのまま磁石に引き寄せられるように、突進してきた電車に挟まれる。

その人と、一瞬目が合った。

虚ろな目だった。諦めだけが厚い膜を張っていた。

肉が千切れて、骨が砕ける音がする。背筋が粟立つような金属の擦過音と同時に、私の後ろから何十人もの人々が叫ぶ。


「死にたいなら、1人で死ね!」


私は指を折ることもできないまま、血を曳く電車を眺め続けた。

その帰り道に、偶然にも人の殺された通学路を通りかかった。まだ花束は絶えない。彼は多分良い人だったのだ。

薄暗く陰気な柱の陰で、血を失い倒れていただろう人を夢想する。それとは対照的に真っ赤に染まって死んでいった人のことも考えた。

向かい側から、スーツを着た男が歩いてくる。何気なく見ていると、男は花束を踏みしめて、供えられた缶コーヒーを眉一つ動かさず取り上げて持った。私と目が合うと、少しだけ眉を顰めて足早にすれ違う。

革靴の跡がついた花束を振り返る。

救われる人はいるのだろうか。祈ることに力はあるのだろうか。

空を見上げる。あの一番星は、相変わらず私の頭上にあった。



何度指を折っても、心から祈りを捧げても、どれだけ誰かのために、自分ではない誰かのために祈っても届かない。世界は変わらない。

誰も、何も救われることがない。

こんなもののために、私は指を折るんじゃない。祈ってるんじゃない。

神や仏は無力だ、それに自らを近しいと吹聴して回った奴らは大嘘つきだ。

私は窓を開けて夜空を眺めた。今夜は月が青白く大きく見える。

ブルームーン、と呟いてみる。この声すらも、何の意味もなさない。

人はみんな死んで行く。殺されて世界が終わる人も、自分から幕を切る人も数え切れないほどいる。その一人一人のために、私は祈ることができない。なんて無力で虚しいのだろう。こんな所では、こんな世界では、こんな私ではなんの意味もない。

それでも、私は指を折った。今夜祈るべきものは何だろうか。

考えていると、小さな蜘蛛が足元を歩いているのが見えた。ペンギンの赤ん坊がふさふさしているように、小さな蜘蛛の癖に毛玉のように丸っこい。逃げることもせず、蜘蛛は私の足元を動き回る。

あぁ、私の祈りは蜘蛛の邪魔を受けている。それくらい、ままならない。たかが蜘蛛1匹、動かしてやることもできない。

全ては無力で、虚しい。私たちはこの微細な蜘蛛1匹さえ自分たちの手で創り上げることはできない。こんな中で、どう愛しさを持てばいいだろう。

「…ここはあなたの来る所じゃないよ。帰って」

静かに呟いて、私は手を振る。蜘蛛は分かったのか、それとも飽きたのか何処かへ消えて行った。

あんな小さな蜘蛛にすら、意志はあるのだと私は思った。

私の意志は何処にあるのだろう。

救われる人はいるのだろうか。祈ることに力はあるのだろうか。

救われる人はいない、祈ることに力はない。それを知るために、そのことを忘れないために、私は祈り続けるのかもしれない。蜘蛛の行方は分からない。微細な蜘蛛一つ、私は創ることができない。

私の祈りは誰も救ってやることができない。怖くてたまらない。死ぬことよりも、こうして生き続けることが何よりも恐ろしい。

一番星は偽物だった。今どれほどあの夜空に目を凝らしても見えてはこない。虚しくて無力だ。

あぁ、でもこの虚しさと無力さを忘れてしまったら、私は誰かを殺して悔いることをしなくなるだろうと思った。そのために、それを教えるために、神や仏は黙ったままなのだろうか。

微細な私には、何も分からない。ただ、指を折ることしかできない。

これから産まれてくるだろう人々と、今生きている人々と、既に死んで物言えなくなった人々のために祈ることしかできない。歓びと、癒しと、冥福が彼らと彼女たちの元に降りますように、とそれしか祈ることしかできない。

蜘蛛は気まぐれに私の元へ来て、帰って行っただけかもしれない。そこに何かの意志を見つけようとするのと同じように、私も本当は救われたい。

あぁ、そのために私は虚しさと無力さの中で祈り続けるのだろう。


蜘蛛の行方は分からないままだった。

ブルームーンは何年かに一度、必ずやって来る。

神と仏は無言のままでいる。

人はみんな変わらず死んでいく。殺される人も、自分から死んでいく人もいる。世界は変わらないまま、救われないままだった。

それでも、私は指を折ることを忘れなかった。この無力さと虚しさを忘れてしまったら、私は誰かを殺してしまうことに気がついたから。


憐れな魂が救われますように、血に塗れたどこかを逃げているもう一つの魂が悔い改めますように。二度とこんな事が子どもたちの通る道で起こりませんように。

1日でも早く、血の流れない日が来ますように、痛い思いに憎悪のために泣くことがもう二度と来ませんように。怯えのない明日が、世界中の人々の元に等しく来ますように。

これから産まれてくるだろう人々と、今生きている人々と、既に死んで物言えなくなった人々に、歓びと、癒しと、冥福が降り立ちますように。



そうやって、死ぬまで夜が来るたびに私は指を折り続けた。

誰かがそれで救われたかは、分からない。

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