第5話 薔薇香る憂鬱
十月になり、明日がフラワーアレンジメントクラスの最終日になってしまった。午前中、定休日なのに店の電話が鳴った。沖田さんからだった。秋の海を見に行こう。今から向かえに行くから。と電話の向こうで言った。突然の電話、突然の誘いに驚きと嬉しささを隠しきれず、私は浮き足だって急いで支度をした。三十分ほどして真っ赤なスポーツカーに乗って彼はやって来た。あまり見慣れないその車は、それを知らなくても高級車だということがわかる。この人はどこまでも完璧なんだ。と私は感嘆した。
「ジャガーっていうんだ。イギリスの車。正確な発音は"ジャギュア"って言うらしいよ。なんだかおかしいね」
確かにジャガーと思っていたら、ジャギュアなんてへんてこな発音になるのはおかしいと思ったけれど、私などがその事をおかしんではならないと思った。
「失礼します」
と言って私はシートが二つしか無い真っ赤なジャギュアに乗り込んだ。
十月の海は物悲しく、今日みたいに天気の良い日でも人影は無く、天気が良いことがさらに物悲しさを増していた。夏は賑やかだったと思われる海の家も古びたベニヤ板で囲まれていて、みすぼらしさだけを主張していた。私たちは波打ち際まで行って、砂の山を作ったり、トンネルを作ったり子供のように戯れた。最初は濡れないように打ち寄せる波から逃げていたのだけれど結局、私の白いコンバースは濡れてジーンズも膝まで濡れてしまった。そんな私を見て、沖田さんはまるで少年のように笑った。私はこの夢のようなキラキラした時間が永遠に続いて欲しいと思った。
ふと沈黙が私たちを襲って、沖田さんはその美しいライトブラウンの髪をかきあげ海を見ながら何かを言ったのだけど、私は彼が言ったそのことがすぐに理解できなかった。
「――結婚?」
「ああ、そうだよ。しかも、婿養子さ。真っ赤なスポーツカーも僕のお嫁さんになる人の車。四日後、北海道に引っ越す」
私は愕然とした。沖田さんが結婚だって? 沖田さんと結婚という言葉があまりにもかけ離れていて、何を言っているのか意味がわからなかったのだ。結婚とか、婿養子とかそんな現実的なことを沖田さんの口から言ってほしくなかった。私は沖田さんのことを何も知らない。知らなくても良かった。むしろ知りたくなかった。今、この波のように押し寄せた沖田さんについての情報は、完璧な美のマイナス要因でしかなかった。
気が付くと涙が頬を伝い流れ、私は泣いていた。
「なぜ、なぜそんなことをボクに言うのですか? ボクは知りたくなかった。知りたくなかったのに、沖田さん、ずるいです。ゆびに棘がささったときだって、ボクは、ボクは......」
私は海を見つめ立っている沖田さんの後ろ姿に向かって込み上げてきた思いを吐露した。沖田さんは振り返り、困惑した様子で歩み寄ってきた。言葉につまったのと、泣いているのを見られるのが嫌で私は下を向いた。
「弘二くん、泣かないで」
と言って沖田さんは私を抱き締めた。薔薇の香りがした。
「そうだね。知らないでいる方が幸せでいられることもあるよね。いつか君が言ってた......。君の言う通り、僕はずるいかもしれない。でも、知っていてもらいたかった」
彼は私の顔を覗き込んで両手を私の頬にそっと添え頬伝う涙を親指でぬぐった。
「僕は君が思っているほど......」
「やめてください! 聞きたくない!」
私は沖田さんの言葉を遮り、両耳を手で塞いだ。
もうこれ以上聞きたくなかった。私の完璧な美を壊されたくなかった。沖田さんは私の頬にあった両手を私の両耳を塞いだ手の上にかぶせ、押さえ添えたままじっと目を見た。少しだけ彼の顔が斜めになって近づいてきて彼の唇が私の唇が触れ合った。そして耳元で
「ごめん」
と言った。
頭の中が真っ白になり身体中の力が抜け、私は砂浜に崩れ落ちた。
このキスの意味は? なぜ謝る?
――私は知りたかった。傷ついてもいいから。
私と沖田さんは浜辺に座り、ただ海を眺めていた。波の寄せる音だけが一定のリズムで繰り返された。一、二時間前に作った砂の山やトンネルは満ちてきた潮にすっかり洗い流されていて跡形もなくなって、やがて海の一部になった。私たちは迫ってくる満ち潮に何度も後退した。その光景は、楽しかった時は終わってしまい、現実に後ずさりする私の今を象徴しているようだった。そして私はずっと、その知りたいことを訊きたかったけれど、訊けずにいた。
「イングリッシュローズって......」
突然、沖田さんの声と波の音が重なった。
「あっ、いや、いつかの図書館で君の好きな薔薇を訊いたけど、僕の好きな薔薇は何か言ってなかったなと思って......。イングリッシュローズって、好きになれなくてね、こんなの薔薇じゃない、薔薇の崇高な美のフォルム、薔薇の品格を落とす薔薇じゃない薔薇だ。って。でもその時の僕は何も解ってなかったんだ。イギリスのディヴィッド・オースチンのローズガーデンを見るまではね。僕は圧倒された。イングリッシュローズの美しさに圧倒されたんだ。愛なんだよね、愛。薔薇、緑、空、風、赤い煉瓦、ハーモニーを奏でる愛。君もいつかイギリスのローズガーデンに行ってみるといいよ」
沖田さんの薔薇の話で気持ちが落ち着いた。そしていつか、完璧な美を圧倒したその美を見てみたいと思った。
夕日がオレンジ色に西の空を染めて、パープルが東の空から迫ってきた。日没後、西の空に圧倒的な輝きを誇る宵の明星、ヴィーナスが私たちを見ていた。
沖田さんは家の前まで私を送ってくれた。車中でも、その知りたいことを何度も訊こうと思ったけれど、訊けなかった。それはたぶん私自身、傷ついてもいい覚悟がまだ出来ていなかったのと、沖田さんの抱えている憂鬱、苦悩を垣間見たことが雪山の亀裂のようにそれを憚ったのだ。
「明日、コースの最後の日だね。よくがんばりました。弘二くん、才能あるよ。じゃ、明日クラスで」
別れ際、そう沖田さんは言って私の頭をクシャクシャとした。
「ありがとうございました」
それが、私と沖田さんが交わしたの最後の会話だった。
なぜなら、わたしはコースの最後の日、クラスに行かなかったからだ。フラワーアレンジメントクラスはこの日で終わる。最終の日に行ってしまうと、私と沖田さんの関係がこのコースと共に終わってしまう。終わりという明白なものを突き付けられ、終わったということが私の記憶に残ることが耐えられないと思った。
私はその日から、花屋の仕事に集中した。朝の花市場の仕入れに行くのも、いつもなら市場が閉まるギリギリに行っていたけれど、朝、五時前には市場に行っている。閉店後の掃除も、売り上げの計算も母に任せていたけれど、すべてやるようになった。忙しくしていないと余計なことを考えて気が変になりそうな気がしたからだ。
沖田さんと海に行った一週間後、私の花屋に小包が届いた。送り主は沖田博貴とあった。その時はじめて沖田さんの下の名前を知った。送り状に書かれた住所を見たけれど、そこにはふれあいカルチャーセンターの住所が書かれてあった。小包の中身は、フラワーアレンジメントコース終了証書と薔薇の苗木と手紙だった。
弘二くんへ
お花屋さんの君に薔薇の苗木を送るなんて、どうかしてるよね。僕の大好きな薔薇なんだ。君に育ててもらいたい。 沖田
このときから私の憂鬱の日々が始まったのだ。私は思う。沖田さんの憂鬱の日々は私に会うもっと前から始まっていたのだろうと。そして私もそうであるように、今でも
この甘美な狂おしい薔薇香る憂鬱を。
おわり
薔薇香る憂鬱 ~アーリーディズ~ 佐賀瀬 智 @tomo-s
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