エピローグ

エピローグ 

 大谷百合子は走らない。

 決して。

 どんなときも。

 いつもの8センチのピンヒールは、走ろうと思えば走れないことはない。

 でも、できれば走りたくはない。

 当然だ。

 そうではなくて。

 お気に入りの赤いレペットのときも、休日、ナイキのスニーカーを履いているときでさえも、彼女は決して走らない。

 ただし、その日は例外だった。

 沿線情報誌『ぐじゅぐじゅぺー』の最新号の発売日。

 その号は、近々メジャーデビューする予定の、百合子が学生時代からずっと追いかけてきた地元のインディーズバンド『タウマゼイン』の特集が組まれていた。

 百合子の住んでいる地域には、O市とK市を結ぶ私鉄、OK電鉄のメインの路線、OK線が通っている。

 そして、そのOK線の沿線情報――飲食店をはじめとした様々なお店、イベント、映画や音楽、マニアックな話題から注目のキーワード、地元で活躍している人たちへのインタビューなどなど――が詰め込まれた月間誌が『ぐじゅぐじゅぺー』だった。

 以前は沿線の各駅にて無料で配布されていたけれど、一年ほど前から有料になり、その代り内容も格段に充実した。

 ここ最近は、発売日に完売してしまうこともあるくらいの人気だった。

 土曜日、百合子はいつもより三十分早く起きて――不動産関係の会社勤務なので土日は出勤日だ――売店に走った。

 しかし、その努力もむなしく、売店に求める紙面の姿はなかった。

「あの、『ぐじゅぐじゅぺー』は……」

 売店のおばさんに、百合子は尋ねた。

「ああ、もう売切れちゃったよ」と、おばさんは無情にも答えた。

「え。今日発売日じゃ……」

「発売日は先週の土曜日だけど……」

 しまった。

 発売日を一週間間違えてしまった。

 思わず、百合子は膝に手を当てて、うなだれた。

 一生の不覚だ。

 最近は、売り切れた場合でも、新たに補充されるようになったみたいだから、次にいつ補充されるかおばさんに聞いてみたけど、さすがにそこまではわからなかった。

 あとはもう、毎日こまめに売店をチェックするしかないか。

 がっくりと肩を落として、ホームに向かおうとしたとき、声をかけられた。

「あの」

 若い男性が、百合子のそばに立っていた。

「もしよかったら、これ」

 差し出されたのは、『ぐじゅぐじゅぺー』の最新号だった。

「ふたつ買っちゃったので、ひとつ差し上げます」

 百合子は躊躇した。

 喉から手が出るくらい、ほしい。

 でも、世の中こんな都合のいい話があるだろうか。

 タダより怖いものはないっていうし。

 それに、ふたつ買ったというのもあやしい。

 でもほしい。

 そうこうしているうちに、その若い男性のもとに、小学生くらいの女の子がととととと、と近づいてきた。

「どうした小清水くん。ナンパか?」

 その小学生くらいの――どう見ても、小学校高学年にしか見えない――女の子が若い男性に向かっていった言葉に、百合子はぎょっとした。

「違うよ!」

 若い男性は即座に全力で否定した。

 否定した直後に、百合子を見て、あわてて付け加えた。

「いえ、あの、別にあなたに魅力がないというわけではなくて……」

 そんな気遣いは一切必要なかったけれど、というか、かえって迷惑だったけれど、話がややこしくなりそうなので、とりあえず百合子は黙っていることにした。

 若い男性は、その女の子に説明を始めた。

 百合子が『ぐじゅぐじゅぺー』の最新号を買いそびれたらしいこと、一部譲ってあげようとしていたことを。

「なるほど」女の子は腕を組んで、うなずいた。「小清水くん、それはキミが悪い。全面的に」

「え? なんで?」

「いきなりそんなことをいわれても、女性は警戒するだけだ」

 まあ、確かにその通りだけど、と百合子は思った。でもまあ、そこまで極端に考えなくてもいいんだけど、とも思った。

「まずはキミの身分を明かすべきだろう。そのうえで、仲良くなっていけばいい」

「いや、だから、違っ……あ、いえ、あの」

 小清水と呼ばれた男性はまた全力で否定しかけたけれど、百合子を見て、またまたさらに否定すべく焦っていた。

 漫才か。

 百合子としては、そんなことはどうでもよかったのだが、一方でこのふたり組のことが、少し気になりだしていたことも事実だった。

「しょうがない」

 そういって、不思議な喋り方をする女の子が、男性の手から『ぐじゅぐじゅぺー』を奪い、最後のページを広げて、百合子に見せた。

「編集後記」

 女の子の言葉に、百合子はそのページに書かれた編集後記のコーナーを見た。

 四角い枠で囲まれたその小さなコーナーには、『ぐじゅぐじゅぺー』のライター達のひとことコメントと名前が書かれていた。

 そのうちのひとつに、こうあった。

『沿線のほんの些細な出来事についての、ほんの些細な物語を収集しています。――小清水遥』

 百合子は少し驚いて、その若い男性――小清水遥――つまり、僕を見た。

 こうして僕は、大谷百合子と知り合って、彼女がどうして走らないかを知ることになるのだけれど、それはまだもう少し先の話である。

 このときの百合子は、このちょっと風変わりなふたり組に対してどう接するべきかを、つかみかねている状態だった。

 そんな百合子の思案をよそに、女の子は彼女に『ぐじゅぐじゅぺー』を手渡して、こういった。

「さて、お嬢さん。もしよかったら、あなたの些細な出来事も、小清水くんに教えてあげてもらえないだろうか」

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小清水くんに教えてあげて Han Lu @Han_Lu_Han

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