ガラス玉
三津凛
第1話
顔をあげてみるとみんなの目が、ガラス玉になっていた。丸く透明な球体が朝露のように納まっている。人の眼窩は思った以上に大きく深く、暗いのだと私は知った。全てが透けて見えてくる。でもそこには暗い穴があるだけだった。
誰の顔にも色がない。親や兄弟もみんな暗い穴を向けるばかりで、心が読めない。読めなくなった。
「早く食べなさい」
母に出されたカレーライスを食べ終わるそばから、トイレにこもって吐き出した。
母が分からない。
「姉ちゃん、大丈夫?」
弟が分からない。
まだ制服を着っぱなしであることに気がついた。ガラス玉とその向こうの暗い穴でいっぱいの教室を思い出した。その途端に、吐き気が背骨を突き抜けて駆け上がってくる。喉が焼けるように熱い。胃液が満ちる。内臓を絞り出すような動きに涙が出る。半固形の曖昧なカレーライスが落ちていく。見えない内面の愚かさと、醜さを見せつけられた気がする。鼻にいつまでもこもる匂いと、容易には掬えないぬめりと粘り気に満ちている。こんなんだから、みんなの目がガラス玉になってしまったのだろうか。誰もが色を失って何も分からなくなってしまった。
下を向いて歩きながら、もう誰の言うことも信じられないと感じた。声は笑っている。それでも目は色のないガラス玉のままだった。母も父も弟も、仲の良かった同級生も、親身になってくれるはずの先生だって信じられない。目がない、色がない、心がない。
まだ映画に音声のついていない頃の、大げさな俳優たちを間近で眺めているような気分にだった。その笑顔は、親切は本当なのだろうか。
顔を上げた。やっぱり道ゆく人もみんな、ガラス玉をはめて歩いている。
このひと月ほどで私は5キロも痩せた。どうしても母の作る料理を吐き出してしまう。その度に母は嫌な顔をして、扉を閉める。弟もトイレが臭くなると舌打ちをするようになった。
ここではみんなが冷たい。それだから、ガラス玉になってしまったのだろうか。
知らない振りをして教室にこもって授業を受ける。一番大切なことはどこにも載っていない。人の心が分からない。誰かの感情に自分の心を同じように重ねてやることができない。無数のガラス玉の中で、私は歪んだ私を遠くから見ている。金魚鉢の中の金魚から見る世界も同じように歪んで見えるのだろうか。
暗い眼窩しか映さないガラス玉の中で、私はたった独りその穴を覗いている。何も分からない。分かろうともしないから、目がガラス玉に見えてしまうのだろうか。
とうとう私は教室で倒れた。この無数の透明な球体と、そこから透ける眼窩に耐えられなくなった。ここは酸素の薄い山の頂上のように私を苦しめる。肩で息をしても、何も私の中に入っては来ない。
そのまま保健室に運ばれて、誰も遮らない真っさらな天井に私は安堵する。年代物のストーブの上に置かれたやかんが立てる蒸気の音が眠気を誘う。もう教室には帰りたくない。どこにも、誰にも会いたくない。
しばらく眠った後で目が覚めた。みぞおちの辺りが痛む。爛れて穴の空いた胃と、そこに落ち込む強烈な胃液の流れを思った。口の中に酸っぱい匂いが満ちる。
吐きそう。そう思った瞬間、閉じられていた薄いカーテンがためらいなくめくられた。
「ねぇ、大丈夫?」
見た所同じ学年の女の子だった。いつから保健室にいたのだろうと眉を寄せる。ふと女の子の肩越しに大きく広がるテーブルを見ると教科書や筆記用具が当たり前の顔をして置かれている。
「…ごめん、ちょっと吐きそうなの」
「あぁ、じゃ袋…」
勝手知ったるなんとやらで、女の子は戸棚から嘔吐用のビニール袋を取り出して私の前に広げる。
えずくばかりで、何も出てこない。唾液ばかりが唇の端から垂れる。胃の中は空っぽで、このままでは血を吐くしかなくなる。こんな姿を他人に見られていることが恥ずかしくて涙が出そうになる。
「大丈夫?水でも飲んだら。持ってくるから待ってて」
授業のある時間に、平然としている声と態度に眩しいものを感じた。
あぁ、そういえばうちの学年に一人、保健室登校をしている子がいると聞いた。
「今先生がちょっと職員室で応対してるみたいなの。もう少ししたら帰ってくると思うわ。それまで我慢できる?」
水道水の入ったコップを受け取りながら、私は薄く笑った。
「多分大丈夫…ありがとう」
そこで初めて相手の顔をまともに見た。手の中の水が震えた。
目がガラス玉じゃない。
「…なに?」
女の子は少し不愉快そうな顔をした。
「ごめん、なんでもない」
思わず目を逸らしたけれど、確かにあの子の目はガラス玉じゃなかった。
「それ飲んだら横になってるといいわ」
そう言いながら、女の子は教科書が広げてある自分の場所へ戻って行った。水を飲み干すと、胸元までせり上がっていた酸っぱいものも一緒に流れていくようだった。
「ありがとう」
少しだけ声を張って女の子に告げる。何も返答はなかった。ただ安心させるように教科書をぱらぱらとめくる乾いた音がした。
私も、保健室登校をするようになった。ガラス玉のいない空間は私を落ち着かせた。同じように保健室登校をしている同学年の梨々子りりことはぽつぽつと話しをするようになった。給食の時間には嫌々教室に戻って食べる。そして母の手料理と同じように、食べ終わるそばからトイレにこもって吐き出す羽目になる。
「そんなに苦しいなら、ここで食べるって言えばいいのに」
梨々子はどこか軽蔑したように私を見下ろした。それが寂しさからくるものなような気がして、私は怒る気にはなれないでいる。
「…そうなんだけど」
「いい子ぶってるから、そうやって吐いちゃうのよ。馬鹿よね」
「うん、馬鹿だよね」
梨々子に私の悩みを打ち明けようか迷った。紺色の袖口から時折覗く包帯の重なりと膨らみを見る。
この子も何かが辛いんだろうか。だから、教室へは行かず給食も大して面白くもない保健医と一緒に食べているのだろうか。
その辛さが私には分かるような気がした。みんなが何を考えているのか、分からなくなった。モノクロフィルムの中で動き回る人たちのように、色がなく大袈裟で何が本当なのか分からない。色がない、心がない。
不思議なことに、梨々子にはちゃんと目がある。暗い眼窩はこちらには透けてない。色がある、心がある。
「…小腹が空くからお菓子持ってきたの。先生が出て行ったら、食べる?」
「いいの?」
梨々子は頷く。
そっとテーブルの下で何かの包みを渡される。こっそり掌を覗くと、カントリーマアムだった。ふっと頰が緩む。
小腹が空くから、という割に梨々子は自分の分は持ってきていない。片っ端から吐いてしまう私のために持ってきているのだと思うと、泣きそうになる。
鼠のようにカリカリと齧りながら、私は思い切って、人の目がガラス玉に見えてしまうことを打ち明けた。
「…ひと月くらい前から、突然他の人の目が、透明なガラス玉に見えるの。それからお母さんとか、給食で出されるものを食べても吐いちゃうの」
梨々子はじっと私を見て、終わりまで口を挟まなかった。
「みんなの心が分からないの。人の感情に共感できないの。分かった振りをすればするほど、苦しくなって胃が痛くなる。どうすればいいか、もう分からないの」
梨々子はたった一言だけ、聞き返してきた。
「…私の目はどうなの?ガラス玉?」
私は真っ直ぐ梨々子の瞳を見据えた。
「ガラス玉じゃないの。だから、びっくりした。だから、話したの」
「そう。良かった」
梨々子は笑った。そして、同じように話し出した。
「…私はね、色んな音が私の悪口を言っているように感じるの。気のせいだってみんな言うけど、私にはそうやって聞こえるの。だから、教室には行けないの。行きたくないの。誰も信じてくれないけど」
私は目線をふと下げた。梨々子の袖口から包帯が覗く。その中で、ぱっくりと一直線に割れている傷口を想像した。心臓が拍を刻むたびに、その傷口は疼くのだろうか。
梨々子は私の視線に気づいて、唇を歪めた。
「辛くて辛くて、死のうかなぁって思うの。その度にこうするんだけど、やっぱり怖くてできないの。でもこんなことをするたびに、みんな遠くに行っちゃうのよ。誰のことも分からないし、分かってくれない」
母や弟の態度を思い出した。
誰のことも分からないし、分かってくれない。血を吐くような思いをしているのに、優しく背中を撫でてくれる人もいない。目がガラス玉になっているだけで、誰の心も読めない。
「…吐き出したものを見るたびにね、自分の見えないところの醜さを見る気がするの」
「ふふ、詩人みたいなこと言うのね。…人間の内側にあるものは牡蠣に似てるんだって。吐き気をもよおさせるし、ぬるぬるして掴みにくいものなんだって」
生牡蠣の不快な感触を思い浮かべた。
鼻にいつまでもこもる匂いと、容易には掬えないぬめりと粘り気に満ちている。
「不器用なのよ、私たち」
梨々子は嗤った。
「目がガラス玉になるだけなのに、誰の心も分からないの。笑ってても、本心なのか分からないの。だから、何もできなくなる」
「目は心の声を代弁するって、言うしね」
「そうなの?」
梨々子は頷いた。
「みんなのこと分かりたいし、分かってもらおうと心理学の本をたくさん読んだわ。人がね、相手の話しを理解するのは話しの内容や言葉で理解してるわけじゃないんだって。アイコンタクトとか、声の大きさとかジェスチャーとか、言葉以外のものがほとんどなのよ」
梨々子は頭の中の文字列をそのまま引き出すように言う。
「言語以外のそういったものを、ノンバーバルコミュニケーションって言うの。舌噛みそう…だから、目がガラス玉に見えるのって、辛いのよ」
私は初めて肯定されたような気がした。
「そうなのかな…」
「多分ね。…でも、どんなに心理学の本を読んでも何も分からなかった。誰も私のことを分かってくれなかったわ。だから、もう諦めたの」
だから、辛くなるたびに埋め合わせをするように手首を切るのだろうか。私は手首を切る代わりに、出されたものを吐いてしまうのだろうか。
生きたまま、地獄に落とされたみたいだ。
「人の内側って、醜いでしょう。だからね、外側を綺麗に飾る必要があるんだって。それで埋め合わせをしてるんだって」
「私たちはそれがうまくできないのかな」
そうかもね、と梨々子は窓の向こうを眺めた。ちょうど体育で、嬌声がここまで聞こえてくる。梨々子は痛そうに耳を塞いだ。
私は開け放たれたカーテンを閉めた。
私はそれからもしばらく保健室登校を続けた。
「ねぇ、地獄ってどこにあると思う?」
梨々子はたまに変なことを言う。
「地獄が、どこにもないことが地獄なんじゃないかなぁ。私たちが苦しいのも、このせいなんじゃないかな」
「よく分からないよ」
ふふ、と笑いかけて手を止めた。
分からない。よく分からない。
梨々子が私の顔をじっと見つめている。
どうして、自分は梨々子のことを分かっているなんて思い上がっていたのだろう。
本当のことは、結局他の誰も分かることはできない。あぁ、ここは地獄だと感じた。だから、外側を綺麗に見せる殻が必要なんだ。剥き出しの中身を晒す人間は血を吐く思いをする羽目になる。
ふと顔を上げると、梨々子の瞳が色を失っていくように感じた。
「今度は私の方がガラス玉に見えてくる?」
抑揚のない声で言われた。答える間も無く、騒がしい声が聞こえ廊下を通り過ぎていく。
そして、扉が乱暴に叩かれて同級生たちが顔を出す。
「体調どう?給食行けそう?」
有無を言わさない勢いに飲まれそうになる。私は顔を上げてひしめく目を見つめた。
ガラス玉じゃなくなっている。
色が戻ってきた。一人一人の顔を覗き込むと、なんてことはない、みんな本当は自分のことしか興味がないだけだった。
私はガラス窓に写った薄い自分の顔を眺めた。目はちゃんとある。あんな風に見えるようになって、私は自分の顔を鏡で見たのだろうか。見ていない。
思い上がりだ、傲慢だ。
「今日はちゃんと食べられそう」
「本当ー?よかった」
ざわざわとした喧騒の中で、ふと振り返った。
梨々子はたった独りで、色のない保健室の中に座っている。
「もう、戻っては来ないでしょう」
機械で合成されたように、響いてくる。
人の内側にあるものは、牡蠣に似ている。捉えどころがなく、吐き気をもよおさせる。だから、飾るための殻がその埋め合わせをする。
「おめでとう」
梨々子の瞳が透明なガラス玉になっていた。心が読めない。
私は黙ってカバンの中に教科書を詰めて、色を取り戻した同級生たちの輪に入っていった。
梨々子に会うことはなかった。
梨々子が何に悩んでいたのか、手首を切っていたのかも、分からなくなった。
ガラス玉 三津凛 @mitsurin12
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