ガス室の記憶

三津凛

第1話

わたしたちは、チョコレートを贈った。赤ん坊が無事に産まれたことを祝ったのだ。

栄養失調の母親から産まれた子は、同じように痩せて青白い。

「エステル、女の子じゃないか。美人になるよ」

アルベルトは軽い調子で小さな頭を撫でる。彼も硬い軍服を脱げば、父親なのだとわたしは改めて気がつく。

わたしも静かに赤ん坊を覗き込んだ。「ありがとう」

エステルは私の視線を捕まえる。青白い顔が弱々しく微笑んだ。静かに迎えるはずのニューイヤー・イヴは俄かに騒がしくなった。死神と恐れられているクリストフが赤ん坊を取り上げた。あの笑わないでいる皺が、初めて釣り上がるのをわたしは目の当たりにした。

「…エステル、名前はもう付けたのかい?」

わたしが聞くと、エステルは応える。

「えぇ…エマニュエルと名付けたわ」

「ヘブライ語から取ったのかい?」

「そうよ」

エステルは複雑な顔を見せた。わたしが口を挟む前に、アルベルトが横入りする。

「このチョコレートは最高級品だ。チョコレート味のおっぱいが出るぜ。贅沢なベイビーだな」

アルベルトが笑った。エステルはベッドに横たわったままの姿勢で、騒めきをどこか他人事のように眺めている。わたしはふと窓の外を見た。

一粒だけ、大きな星が輝いている。

「エステル、綺麗な星が出ているよ。あれは祝福だな」

わたしが言うと、エステルは静かに頷く。

クリストフはわたしの袖を引っ張って、不機嫌そうに言った。

「エマニュエルは、まるで星屑のようだな」

不吉をまとったこの老人は、先ほどの笑顔を消して扉に向かう。わたしは扉を開けてやる。会釈もせずに、クリストフは出て行った。

彼の作る死のリストに、真っ先にこの親子が来るだろうことは誰もが分かりきっている。それならばどうして、そのまま殺してやらないのかと誰もが思い、そして誰もが沈黙する。

これも慈悲なのだ。

入れ替わりに看護師長が入って来て、ガラス瓶に詰められたキャンディをエステルに贈る。こんな甘味は収容所に連れてこられてから口にしていないだろう。わたしは揺れる橙色の元で眠る赤ん坊と、痩せた若い母親を眺めた。聖家族のように、哀しくその様は映えた。



アルベルトはわたしに向かって、思い出したように笑う。

「エマニュエルは、ヘブライ語で『神は我らと共にあり』って意味なんだってな。皮肉なもんじゃねぇか。神はあの親子を忘れておいでだぜ」

わたしはアルベルトの皮肉な笑みを受け取ってから言う。

「クリストフが、エマニュエルを星屑のようなものだと言っていたよ」

アルベルトは嗤った。

「…死神らしいな」

わたしは時計を確認した。

「時間だ、アルベルト」

アルベルトは名残惜しそうにチョコレートを割って、口の中に押し込んだ。

結局エステルは抱えきれないチョコレートと、キャンディを口にしたのだろうかとわたしは思い出した。

「どうして、クリストフは赤ん坊を取り上げたんだ?」

「あいつなりの慈悲だろう?…俺たちも同じようなもんじゃねぇか」

アルベルトが自嘲気味に言う。

「あぁ…」


今日もわたしとアルベルトは、あの親子共々、人々をガス室に追いやって行く。

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ガス室の記憶 三津凛 @mitsurin12

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