母娘の宿

三津凛

第1話


「……男の子に見えないくらいに、短く切って下さい」

私は鏡越しに美容師の瞳を捕らえる。

「もう男の子みたいだけどね…」

いつも私の髪を切っている美容師は笑いながら目を合わせた。

そうだろうか、と私はよく磨かれた鏡を覗き込む。視線を感じて目を上げると美容師はまだ私を見ていた。

その不躾な目つきに私は不快感をもよおした。

「髪の毛、伸ばさないの?もったいないわ」

取り繕うように言われて、私は目を閉じて言った。

「…長いと暑いし鬱陶しいでしょう。早く切って下さい」

耳のすぐ後ろで鋏が鳴った。


美容院を出ると私はあてもなく街をぶらぶらした。試験も仕事もない、長い長い春休みの中でやるべきことは終わってしまった。軽くなった頭を抱えて、何処へ行こうか思案する。

映画は面白いものをやってないし、美術館や博物館まで行くのは億劫だし、コンサートが始まるまではまだ早い。

そこで私は目についた埃の中から建てられたような古書店になんとなく入った。

並ぶ本はみな茶色に沈んで、黴くさい香りがする。綺麗に洗ってもらった髪にも染み込んでいくようだった。

店主は本の塔の中に埋もれて、禿頭しかこちらからは見えない。

擦り切れたり、日に灼けて薄くなった背表紙の文字を必要以上に睨んで読み取ろうとする。

店主の趣味なのか、艶本や春画の類について書かれたものばかりが並んでいる。

「金瓶梅…」

ふと目についた背表紙を声に出してみる。

「4大奇書の一つね」

脚元から声がして、私は驚いて後ずさった。よく見ると、猫のように身体を丸めて屈み込んだ少女が私を見て笑った。

紺色のセーラー服を着ているところを見ると、高校生くらいなのだろうか。中学生と呼ぶには、艶がありすぎる。ものを知ってそうな瞳と、綺麗に整えられた聡い眉、自分の魅力を端まで知ってそうな唇が私の方を向いている。

「4大奇書って、なんなの」

少女は立ち上がって、笑った。

「中国の元から明にかけて書かれた長編小説のことよ。金瓶梅はその一つね。登場する女性の名前からタイトルがつけられてるの」

「ふうん…どんな話なの?」

少女は応えずに、私の短くなった髪をさらさらと触った。そして耳元に唇を寄せる。

「とにかく、セックスをしまくる話」

こちらの反応を試すように少女は私の瞳を覗き込む。何も知らないような顔にも、肉の交わりの全てを知っているようにも見える。

「それ、本当?」

「えぇ」

この子は源氏物語もあらすじを聞いたら同じことを言いそうな気がした。

私は目を落として、分厚く黄ばんだ一冊を手に取る。春画の解説書のようだった。

「蛸と海女ね」

少女はいつの間にか私の腕に自分の腕を絡めて、楽しそうに呟く。

「葛飾北斎よ、ふふ」

「よく知ってるのね。変なことばっかり」

私は蛸に脚の間を吸われている海女の狂態を眺めながら、呟いた。ぱらぱらとめくると、露骨な男女の絡まりが迫ってくる。

「春画って、昔は嫁入り道具の一つだったのよね」

「こんなものが?」

少女は唇を舐めた。

処女にも、娼婦にも見えるとその時私は思った。

「だって、江戸時代とかはほとんど処女のまま結婚するじゃない」

へぇ、と呟いて私はその本を戻す。

いつの間にか絡められた少女の腕のしなやかさに、私は今更戸惑って解こうとした。

「ねぇ、これから何処へ行くの?」

「…特に決めてないけど。あなたは学校ないの?」

「えぇ」

少女はまだ腕を離さない。引きずるようにして、私は古書店を出た。試しに適当に歩いてみる。少女は大人しく着いてくる。

男相手にするならまだしも、女相手にどういうつもりなのだろう。

「私、女よ」

「知ってるわ。男の子みたいね…」

少女はまた私の耳元に唇を寄せる。

「かえって猥褻よね」

私はふと美容師の不躾な視線を思い出した。同じ女に性の香りを嗅ぎつける種類の女がいる。私はそんなことを思いながら、それでもこの不思議な少女に惹かれた。

「名前はなんていうの?」

「紗代子」

真っ直ぐ私を見据えながら紗代子は言った。午後の鈍い光りを受けて、紗代子の瑞々しい瞳がビー玉のように輝いた。


紗代子は何処までも着いて来た。遅い昼食を一緒に取り、私たちはチキンライスを食べた。

「紗代子って、変な女の子よね」

「あら、どうして?」

「普通はあんな変な古書店に入らないわ」

紗代子は笑った。

「なら、あなたも同じよ。お互い様だわ」

そう言って紗代子は空いた私の左手を取った。

「綺麗ね」

少量の毒を盛られ続けて、身体が段々衰弱していくように、私は紗代子の毒に当てられていることを感じた。

紗代子のチキンライスはもう片付いている。私のチキンライスはまだ三分の一ほど残っていた。

「もう食べないの?」

「えぇ」

「これから何処へ行くの?」

紗代子が甘えるような視線を送ってくる。女が男に向けるような目の色に、私は微妙な気持ちになった。そして、意地悪な嫉妬にも似た靄が私を包んだ。

「ねぇ、フロイトって知ってる?」

「精神分析とか、夢判断とかでしょう?」

紗代子は面白そうに私を見る。

「フロイト曰く、性愛の対象は年齢と共に変わってくの。最初は自分、その次に同性、最後にやっと異性になるのよ。あなたは年齢的に女の子の方に興味があるかもね。でもそれは異性の代替に過ぎないのよ」

紗代子は黙って聞いていた。私は途中から、自分が何を言いたいのか分からなくなった。コップの氷が溶けて、軽い音を立てる。その音と共に、声にできない想念も落ちてくる。


私は男じゃない。男の代わりなんかにされたくない。


「ふふ、おかしいわ。何が言いたいの?」

紗代子がからかうように笑った。実際、からかっていた。馴れ馴れしく私の隣に来て腰を下ろすと、肩をぴったりとつけた。

「あなたを待ってただけよ。あそこでずっと」

「え?」

紗代子は嘘のない瞳を向けて続けた。

「あなたが来るのをずっとずっと、待ってたの。夢をいつも見るのよ。綺麗な姉さんが、出てくるの。髪が短くて、男の子みたいなの。でもそれがかえって猥褻なのよ、ふふ」

私は紗代子が何を言っているのか分からなかった。紗代子が私の指に自分の指を絡める。そしてうっとりと私の肩に頭を乗せて頬ずりした。

甘える、というよりそれは前戯のような香りを纏っていた。

「あなたって、いやらしい」

私は紗代子の頭を撫でながら呟いた。

「ねぇ、母さんも待ってるの。あなたのこと。夕飯は私の家で食べて行って」

紗代子は半身をずらして、半分私の胸元に顔を埋めて言った。一方的な寄りかかりに、私は押し潰された。

「えぇ、行くわ」


私は紗代子に手を引かれて、紗代子の母親が待つ家へと向かった。私は自分が何処までも着いていく懐っこい猫になってしまったような気がした。紗代子は時折振り返って、蕩けるような視線を送って来た。

もう遠慮はない。その手慣れたような風情に、私は嫉妬を覚えた。

「いつも、こんなことしてるの?」

「妬いてるの?」

「違うわ」

紗代子は脚を止めて、私の前に立つ。鼻先をこすり合せるように、顔を近づけてくる。

「あなただけよ。言ったじゃない、ずっとあの古書店で待ってたって…」

紗代子は微かに舌を出した。醒めるような桃色に私は飢えを感じた。

「もうすぐそこよ」

紗代子は見透かしたように目を細めて、強く私の手を引っ張った。


紗代子の母親は、親というにはあまりに若く美しかった。姉妹と言われても通りそうなきめの細かな肌と、若い瞳をしている。

「紗代子の夢見た通りの方ね」

母娘はこそこそと話している。私は微かに居心地の悪さを感じた。

「あなたは座ってて、ご飯すぐ作るわ」

私は手伝うことも許されず、広い静かな居間に独り残された。父親の気配すらない家だった。

いつの間にか陽は傾いて、外は暗くなっている。私はぼんやりそれを眺めて、重い本棚にふと目をやった。

金瓶梅が挟まっている。

古書店での会話を思い出しながら、並べられた本を眺める。西洋絵画の画集と思しき一冊を手に取った。広げると女同士が睦み合っている。

「それは地下出版を纏めた画集なの」

紗代子の声が間近でして、私は画集を落とした。

「いやだ、幽霊を見たような顔をしないでよ」

「変な本ばっかりあるのね」

「そんなことないわ。ギリシャ喜劇も読むのよ」

紗代子は意味ありげに笑いながら、アリストパーネスの「女の平和」を抜き取った。私は受け取ってぱらぱらめくる。挿絵がところどころ入っている。言わずもがなな挿絵で、私は紗代子の脇腹を肘で突いた。

「こんなことばっかり考えてるのね、紗代子」

「違うわ。これは母さんの本棚よ」

そこで、当の母親が私たちを呼んだ。


夕飯は思いの外静かに進んだ。紗代子の母親の上品そうな目元をさりげなく見ながら、この母娘はどうして性に慣れ親しんでいるのだろうと不思議に思った。それでいて下卑た色がない。

「今日は泊まってらしたら」

食後のお茶を出しながら、紗代子の母親が私に向かって言った。

「それがいいわ」

「でも…」

紗代子は私の腕を掴んで離さない。

「お風呂が沸いたわ」

この家では全てが決まりごとのように進められていく。私は不吉なものを感じた。古書店で待ち続けていた紗代子の暗い瞳が、ふと思い浮かぶ。

それでも私は見えない何かに背中を押されて、言われるがまま風呂に入り、紗代子の家に泊まることになった。


紗代子の香りがする寝巻きを着せられて、私は敷かれた布団の前に座らされた。部屋は暗い。紗代子の姿は見えない。母親は私の肩を撫でて、娘が私に何度もしたように耳元に唇を寄せた。不躾なほど潤っているそれは秘めなければならない、あの裂け目に似ていた。

「ずっと私たちは待っていましたよ」

布団がめくられて、微かに慣れてきた目に紗代子の姿態が映った。

紗代子は裸だった。母親がそっと立ち上がって、出て行く。

男と女なら、これから何をするのかよく分かる。でも女同士なら、何をすれば正解なのだろう。

何もしないで寝ることはできない、許されない。

「ねぇ、一緒に寝ましょう」

紗代子は手を伸ばして私を布団の中に誘い込んだ。冷たい布団だった。

「夢の中で見た通りの女ひとよ。あなたって」

紗代子が笑う。喉が小気味よく揺れているのが分かる。手慣れた様子で、私の寝巻きをめくる。女の柔らかな指が私の身体の凹凸を撫で回す。

「…いつから、私の夢を見てきたの?」

「さぁ、もうずっと前から…」

紗代子は我慢できなくなったように、起き上がって私に覆い被さった。私は暗闇の中で翻る紗代子の肌の白さに陶然とする。大人の女の裸体だった。

本当は私とそう変わらない歳なのではないか。私は不意にそう思って口を開きかけた。

紗代子は見透かしたように私の唇を割る。紗代子の指が段々と降りてくる。

私はそっと張りのある紗代子の乳房を掌で包んだ。

「あなたは私に何をしてもいいわ」

紗代子が唇を離して、うわ言のように呟く。どこかで紗代子の母親もこれを見ているような気がした。

寝巻きを剥かれる。紗代子の香りがこもる。やめることができない。

蛇が絡まり合いながら交尾をするように、私と紗代子も肌を合わせて絡まり合った。


次の朝、紗代子は駅のホームまで着いてきた。朝日の中で、私はまだ眠い頭で考えた。昨夜あったことは本当なのだろうか。私は忘れられそうもない快感を思った。もう私は誰ともあんなことはできそうにない。それが恐ろしかった。

同じ女に、性の香りを嗅ぎつける種類の女がいる。紗代子はすっきりとした横顔をしている。紺色のセーラー服を纏っていると確かに少女のようにも見える。

電車がやって来て、私は紗代子の手を離した。

紗代子は笑って言い放った。

「いってらっしゃい。また夕方に帰ってくるのを待ってるわ」


私は帰らなかった。

あの性に異常なほど興味を示す母娘が、怖かった。それでも、半年ほど経つとまた興味が惹かれて記憶を頼りに紗代子の家へ行ってみることにした。

同じような佇まいの家並みの中で、私は迷ってしまった。

通りすがりの老爺に、紗代子の名前を告げて家はどこかと尋ねると思いがけないことを言われた。

「あの家は母親も娘も色気違いだよ」

「色気違い?」

老爺は記憶を辿るように目を転じる。

「男も女も引っ張り込むんだよ。一時期は随分と噂になったけど、あまりに多いんで噂する方が疲れちまったんだな。最近はあまり連れ込まれてる人は見ないけどね」

私は老爺に礼を言って、やたらめったらに走った。

色気違い。……色情狂だ。

金瓶梅、蛸と海女、地下出版、女の平和。

古典の中に巧妙に挟まれた裸体と、性への執着が零れ落ちてくる。ふと顔を上げると見慣れた道に出た気がした。

紗代子の家の建っている道だった。私は気付かれないようにそうっと首を伸ばして、塀の隙間から中を覗いた。

ちょうどあの静かな広い居間が大きなガラス窓からよく見えた。

紗代子の母親と紗代子が向かい合って座っている。夕飯が綺麗に並べられたまま、二人は箸もつけずに彫像のように固まっている。

その時、私は不吉なことを思った。

紗代子とあの母親はずっと帰らない私を、こうして待っていたのではあるまいか。


「いってらっしゃい。また夕方に帰ってくるのを待ってるわ」


紗代子の声が耳元で聞こえたような気がした。

相変わらず母娘は固まったまま、動かない。

私は後ずさりして、元来た道を戻った。振り返ることはしなかった。


その後、母娘がどうなったかは知らない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

母娘の宿 三津凛 @mitsurin12

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ