死にぞこないの色

三津凛

第1話

私は私の醜さを知るために、上を向かない、ただ下を向き続ける。



涙は出なかった。呑気な親戚は、私の顔を見ると「気丈だね」と考えもせずに言った。何も知らない、知ろうともしなかったくせに。

気丈もなにも、本当に悲しくないから涙も出ないのに勝手に尾ひれがついていく。


お前は死んでからも私を傷つける。


固まったままの父を見下ろす。死人の皮膚は冷えて固まった蝋のようだ。何年か前に亡くなった祖母の顔を見た時にはこんな気持ちにならなかった。

あぁ、これは死にぞこないの色だ。

母が棺に指を掛けて泣いている。父が死んだことよりも、母がこんな風になることの方がショックだった。

この男にされたことを忘れたの訳ではないだろうに、どうして涙を流せるのだろう。そこに男女の情を見せつけられた気がして慄然とする。すれ違いざまに手を握られて、そのまま指をしゃぶられるような嫌悪感でいっぱいになる。ひどい裏切りに思えた。


お前が死んでも、線香だけはあげてやらない。


殴られるたびにそう誓ってきた。それなのに、私はその誓いを破るためにここにいる。母が泣くせいで、男女の情があるせいで。

どうして、一緒に痛い思いをしてきたのに、殴られてきたのに、蹴られてきたのに。

私は女の横顔をした母を睨みつけた。泣かない私を、みんな気丈だと無責任に褒めて同情した。

早く誰もいない、母すらもいないところへと行ってしまいたい。父の腐臭と、母の女の香りから逃げてしまいたかった。


やたらと寿司やら、甘いものを勧められる。泣かないせいだ。泣けないせいだ。マグロやサーモンの艶が、私を嗤っているように見える。

これも死にぞこないの色だ。

私の泣けない芯を、決して泣かない芯を見透かして嗤っている。

母はまだ泣いている。私は白けた思いで嗚咽を聞いた。父にも母にも、同情はできなかった。暴君は死ぬべくして死に、生きていながらその妃は心中する前のように泣いている。

私はそこに挟まれて、泣くとも笑うことも叶わない。

「…ちょっと、お手洗いに行ってきます」

親戚の視線と手をかわすために、私は席を外す。



誰もいないお手洗いの鏡に自分を映す。

もう青痣のつくことのない頰や腕を改めて確かめる。

痛くない手触りに、ようやく父の不在を実感する。そこで初めて泣きそうになった。それでも本当に涙は出なかった。

あの痣の青紫も、死にぞこないの色だった。誰も助けてくれないことの証だった。母も同じものを持っていたはずなのに、一方は芯から泣き、一方はまるで乾いたままでいる。

まだ顔を上げることなんてできやしない。



私と母が、あの父から解放される一つの節目は火葬だった。母の涙はまだ乾くことはないようだった。

私はまだ泣けないでいた。

涙を流さないことは、正しいことのように思えるのに何かが削り取られていくように感じる。

「…お前は冷たい子だ。父さんが死んだのに泣くこともしない」

2人きりになると、母は呪いをかけるように言う。暴君は父だけではなかったのだ。

私は無理にも泣こうとした。あの父が骨になる。壺に納まるほど小さくなるのだ。

手の甲を、母に見つからないようにつねる。それでも泣けない。泣きたくない。

私は無表情に、父が火葬されるのを見送った。


母は見苦しいほど泣いた。それは新たな腐臭だった。父よりもずっと、醜悪な腐臭だと感じた。

それを慰める親戚たちも、同じように腐臭を放っていた。私はまたお手洗いに行くと嘘をついて外に出た。

野太い煙突を眺めると、煙がとめどなく伸びて灰色の雲になっていく。あれは父から伸びた煙なのかと思ってみる。

哀しくはなかった。

私は冷たい人間なのだろうか。どうしても母のようには泣けない。

私を殴った人間のために、費やす生命はない。母もそうであったはずなのに、いつの間にか隔たって、私とは相容れなくなっている。

父を骨にした後、どうすればいいのかが分からなかった。

ふと嗚咽が聞こえてきて、顔を上げると同い年くらいの女の子が身体を折って泣いていた。私の視線に気がついたのか、彼女は束の間泣くのをやめて建物の中に入って行った。

私は泣けない。

昨日降った雨が、アスファルトの窪みに水溜りを作っている。そっと淵に近寄って、自分の顔を映してみる。

青白い自分の顔が微かに揺れて、どこか透けて見える。

揺れる、死にぞこないの色だ。

泣けない私は醜いのだろうか。

まだ前は向けない、顔を上げられない。



私は私の醜さを知るために、上を向かない、ただ下を向き続ける。

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死にぞこないの色 三津凛 @mitsurin12

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