最後のエリクサーは誰のために
日浦きうり
第1話
男は肩からかけた薬瓶用のカバンをそっとなでる。
そろそろか。両手を胸の前で組み、目をとじてそっと呪文を唱えると、光の粒が舞う。
男の足元から立ち上ったその光の粒子はうずを巻きながら男の体を包み、カバンの中に吸い込まれていった。おお、とまわりから畏敬の声があがる。
(これも務め、特別なことではないのだが……)
男の唱えた呪文は保存の魔法。かばんの中の希望を失わないために、日夜を問わず唱え続けている。
男がここルビア王国に身を寄せてから一年、すでに見飽きるほど見ているはずだが、いまだに珍しいのだろうか。
「術者殿、変わりないか?」
これまた聞き飽きた問いを投げかけてきたのは、この国の王。
しかしルビア王国はその身とこの希望を受け入れてくれたのだから、答えないわけにはいかないだろう。男は声の主に振り返ると、こうべをたれて答える。
「もちろんでございます、わが王よ。一滴の濁りもございません」
「それは重畳。どれ、その光をまた見せてはくれぬか」
「かしこまりました、では失礼して」
男が玉座の間、最奥に続く赤い絨毯を少しばかり進むと、ルビア王も玉座から立ち上がり男の側へと歩を進めてくる。王の前で男ははひざまずき、カバンをそっと肩からはずす。
分厚い革で作られたそれをゆっくりと床に置くと、赤い宝石で飾られた留め金を外してフタを開く。そのカバンの中は分厚い仕切りでいくつかに区切られており、ちょうど真ん中の仕切りに一つの光があった。
その光を男ははそっと取り出すと、のぞき込むルビア王に向けて奉る。
それは最後のエリクサー。
他では見られないほど豪奢な文様を刻まれた薬瓶に封じ込まれたそれは、まるで生きているかのように瓶の中で微細な光の粒を含んだ液体として渦を巻いていた。
「いつ見ても美しい……まさに妖精を封じ込めたようじゃ」
「この光の粒は生命そのもの、とも伝え聞きます。その喩えは的を得ているやもしれません」
「そういえば、その黒い包みはなんぞや。いや、この間から気になってな」
ルビア王は、エリクサーの取り出されたカバンを指差すとそう問う。
薬瓶用のカバンには五つの仕切りがあり、エリクサーの入っていた真ん中の一つの他には黒い包みが差し込まれていた。
「ああ、ご説明しておりませんでしたか。まず、エリクサーの両脇は布を巻いたものでございます」
男は二箇所からそれを抜き取ると、広げて一枚の黒い布であること、真ん中のエリクサーに衝撃が伝わらないように緩衝材がわりであることを伝える。
「そして、外側の二つはただの水の詰まった瓶でございます」
「水?」
「はい、かつてエリクサーが詰められていた瓶でございます」
次に外側の黒い包みを引き抜き広げ、エリクサーと同じ豪奢な瓶を取り出す。
しかしその中には水が詰められており、もちろん光は渦巻いていない。
「ひとつは十年前、あとひとつは八年前に使用され空瓶となってしまいました。しかしこの瓶はただの瓶ではございません。ドワーフの卓越した技術により作り磨き上げられ、エルフにより魔法が長く維持出来る文様を刻み込まれたものでございます」
確かに美しい瓶だが、美術品を持ち歩く趣味は男にはない。
「いつの日か、またエリクサーを神より賜りし時にはこの瓶が必要となりましょう。その日のために、こうしていつも持ち歩いております」
「して、なぜ水を」
「はっ、この城の裏手にある井戸より汲んだ水は中々に美味しいのでございます」
ルビア王は、はじけた様に笑い出す。
「術者殿の特権であるな。よきかな、よきかな」
なんの報償も求めず水とは術者殿も欲が無さすぎる、と首を振りながらルビア王は玉座へと戻っていく。男はそのルビア王の背に一礼をし、水の入った瓶を黒い布に包み直しカバンに戻す。
まわりの者たちも苦笑いをして男を見ているが、別に欲が無くはない。
男の欲はエリクサーと共にあること、ただそれのみだっただけだ。
「ところで宰相、戦況は変化なしか」
ルビア王は玉座に戻ると横に立つゲルファント宰相に問いかけた。
戦況とは、先日より激しさをました隣国との諍いのことである。
隣国であるボック公国は半月ほど前、突然布告もなしにルビア王国に兵を侵入させてきたのだ。
とはいえルビア王国の国力は公国のそれを遥かに上回っており、開戦当初より公国側はいわばゲリラ戦をもって森林地帯に広く浸透してきた。
ルビア側はこれに対し、当初はボック公国を攻め落とす勢いで侵攻したが、公国側は首都を守るどころか全軍をもってルビア城近くまで迫ってきたのだ。
なりふり構わずのその勢いにさすがのルビア軍も色を失い、とって返して挟撃しようとしたがなにせ相手ははなから統制をかなぐり捨てた死兵、しかも広がりきって昼夜を問わず少数で特攻してくる。
蚊の群れに槍を刺すようなもので、これにはルビア側も困り果て、やむを得ずの防御戦闘へと移行していた。
「はっ、城内はもとより、城下とその周辺には幾重にも兵を配置しておりますゆえ、ボック兵は全て網にかかっております」
「そうか。しかし公国にも困ったものよ……」
宰相の返答にルビア王はその少し白髪の混じりだした顎髭をなでながら天井を見上げていたが、その目をこちらに向け少しばかり思いにふけった後つぶやく。
「やはりボック公国の狙いはエリクサーと術者殿であろうな。それ以外にこの無謀な侵攻は説明がつかぬ」
「では、大公妃と公子が病に倒れたという噂はやはり……」
ルビア王の言葉に宰相は、先月あたりより流布されだした噂を持ち出してきた。
事実、一月ほど前にエリクサーの譲渡を持ちかける書状が公国から届いている。
もちろんルビア王国はこれを拒否し、話はそこで打ち切りとはなってはいたが、その直後の侵攻となればこれを結びつけて考えない方がおかしい。
どんなにひどい傷も、いかなる病もひと飲みすれば直してしまう奇跡の霊薬。
健康な人間が飲めば、寿命さえ伸ばしてしまうという。
しかしその製法は人知の及ぶところではなく、神のみぞ知るとされた。
数多の錬金術師がその秘密を解き明かそうとしたが、原料のひとつでさえ明らかにすることは出来ていない。
原初の『エリクサーの金樽』が神からもたらされ、それが千の瓶に分けられた。
これが伝説として伝えられているエリクサーの由来である。
その最後の一本が今、男のカバンの中に納められている。
そしてこの奇跡の霊薬をめぐって、人間は争い続けた。
神が救いのためにもたらした霊薬は、それが救う命よりはるかに多くの命を奪ってきたわけだ。
ボック公国もその先例に違わず、誤ちを繰り返そうとしているらしい。
「しかし戦力に劣る側が消耗戦を仕掛けてくるわけですから、そう長くは保ちますまい。それに対しこちらは、いわば兵站に不安のない籠城戦のようなものですから」
こちらは待ち受けて各個撃破するのみ、と宰相は言う。
だが、不安が全くないかと言うとそうでもないようだ。
「油断は禁物であるぞ。かの大公は英傑、戦いとしては勝てても希望を奪われては負けに等しい」
宰相を始めとする重鎮達は、主語のない王の言葉を誤りなく受け止めうなずく。
だが、さすがのボック大公も単騎でこの玉座の間にたどり着くのは至難の業。
こちらからうかつに戦域に出向きでもしない限り、勝敗は決したように思えた。
◇
さらに三日が経過した夜。
この国でもっとも安全な場所といえる玉座の間に集まっていたルビア王を始めとする王族や重鎮たちも、斥候からもたらされた本日最後の状況報告を聞いたのち、それぞれ食事や湯浴みをするために城内に散らばっていく。
どうやら趨勢は決したようで、ボック兵の特攻も散発的になってきたようだ。
玉座の間にも少し弛緩した空気が流れ、今日の酒は旨そうだとにこやかに笑いさえ残してルビア王が王妃と共に食事に向かう。
王族の護衛騎士達と一緒に、隣の部屋で食事をとることにしよう。
男がそう思った矢先、一人の近衛兵が血相を変えて飛び込んできた。
「西の森林地帯にボック兵集結とのこと、大規模な夜襲の恐れがあります!」
護衛騎士達も一斉に色めき立つ。
やれやれ、これでは食事はしばらくおあずけになりそうだ。
男はひとつため息をつく。
そこへ食堂に入ったばかりのルビア王が疲れた顔で出てきた。
「玉座の間に戻るゆえ、術者殿も騎士達と共に参られい」
「承知いたしました」
一礼をして、早足で玉座の間に向かうルビア王のあとに男は続く。
王がまだ温もりが残っている玉座に再び座ったと同時に、宰相が入ってきた。
「恐れながらご報告いたします。西の森に集結したボック公国兵およそ二千、すでにこちらへ向かって進軍を始めた模様です。騎士団と兵を集結させて向かわせる、でよろしいでしょうか」
「いや、一点突破も危うい二千でいまさらの集結。陽動であろうな」
「ではこのまま引き付けて?」
さてどうしたものかと、ルビア王は目を閉じてしばし思案する。
「城下の兵のみでよい、三千ほど向かわせて、あとは城の守りにまわせ。城付近の森に別動がおるやもしれん。あぶり出せればよし、おらぬならそのまま伏兵としてひそませよ」
「はっ、では手分けして配置いたしましょう」
宰相はルビア王の命令をそばに控えていた騎士団長に復唱し送り出す。
さすが堅牢堅固と評されるルビア王、数的優位と地の利を持ってさらに手堅い策を講じていく。
仮に西の敵兵が抜けてきても挟撃すればよし、ということだろうか。
しばらくすると、西の森から様々な報告が入ってくる。
どうやら一進一退、押せば引き、こちらが引けば押して来るといういかにも陽動という動きで、埒が明かない様子らしい。
そのままこれといった戦況の変化もなく時間だけが過ぎていく。
そしてボック公国兵のおかげで夕食を食べ損ねてから数時間がたっていた。
特段の変化もないまま無為な時を重ね、空腹の方が手強い敵となってきたため、本来は有り得ないのだが玉座の間に軽食を持ち込み食事を取ることにする。
「いよいよ陽動の線が濃くなってまいりましたが、このままで?」
「こちらが動かぬのであれば、いずれ西も決着がつき陽動が無駄死にとなろう。先に次の手を打たざるをえまい。ここは待ちの一手じゃの」
だが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、城の近くで爆発音が響く。
わずかだが、城そのものが震えたのが判った。
護衛の騎士たちは背にしていた盾を構えロングソードの合口を切る。
「魔法……のようですな。こちらが動かぬゆえ、じれて撃ってきたのでしょう」
「ボック公国といえば精霊使い。目眩ましや惑わしに気をつけよ」
「城壁を越えてはくるまいが、皆油断せず王族方と術者殿をしかと守れ」
宰相や騎士団長たちが立て続けに注意を促す。
男はといえば、これしか出来ることはない。
昼間と同じく、両手を組み目を閉じて保存の魔法を唱える。
だがさすがに今はそちらに目をやる余裕は誰にも無いようで、厳しい目つきで周囲を警戒する。
「しかし解せぬな。あの大公がまったく顔を見せぬとは。真っ先に突っ込んできそうなものだが」
「あれほど武勇の誉れ高き公もおられますまい。臣下は止めるのに苦労しそうです」
「そなたらの主は出不精で楽をしておるの」
「それはありがたき幸せ」
ルビア王と宰相が顔を見合わせて軽く笑う。この二人は遠縁とのことだから、ふとした気安い会話がかわされるようだ。
「しかし……大公妃と公子だけでなく大公も病に倒れている、ということは考えられませぬか」
ふとゲルファント宰相は思い至ったように呟いた。
「確かにこの統率のなさはらしくない、とも見えるが。こうも広がっておっては連携ひとつとるのも難儀であろうに……近いな」
むっ、とルビア王が再び起こった爆発音と振動に目を細める。
確かに二度目の爆発音は、先程のものより少し近くなったように感じられた。
「押し込まれておるのか?」
「しばしお待ちを……」
宰相はそう答えたが、動いたのは騎士団長で部下に命じて確認に向かわす。
それほど待つことなく、戻ってきた騎士がうながされ直接ルビア王に報告する。
「恐れながらご報告させていただきます。
東城壁への攻撃を行ったのはボック公国の魔法師を中心とした集団およそ千。
精霊使いも多く魔法師を守りながら地属性精霊で城壁を崩そうとしております」
「西に兵を集め、東に穴を開けるとな……もしや東に本命がおるのか」
しかしそれだけの余力がいまだあるとは思えぬが、と首をひねるルビア王。
「城壁が完全に崩されてしまうのはよろしくありませんな」
「東は城と近いからのう。遮るものが無くなれば外からでも魔法が届くであろう」
「とりあえず、南の兵を東にまわして押し返すのはいかがでしょうか」
「城の裏手の切り立った崖は精霊使いでもどうにもなるまい。それでかまわぬ」
ゲルファント宰相の提案にルビア王はうなずき承認する。
そして再び爆発音のするなか、振り向くと少し後ろに控えていた王妃に微笑んだ。
「そなたは子供達の様子を見てきてくれぬか。怯えているようならそのまま一緒にいてやればよい。この様子では、あやつら一晩中騒ぐつもりかもしれん」
ルビア王の言葉に王妃はうなずき、護衛騎士をともなって玉座の間を出て行く。
確かにまだ幼い王女にはこの喧騒はこたえるだろう。
魔法による攻撃が始まってから数刻、時折もたらされる報告を信じる限り、ボック公国の最後のあがきにも思える東側の戦闘は苛烈を極め、一進一退の様相を呈していた。
「こちらの被害も無視できないですな。今宵で決着を着けるべきかと」
「そうよのう。いつまでも付き合っていては、他国にも軽んじられる元になりかねぬしな」
宰相の言葉にルビア王は頷き、城の周囲を固めている精鋭部隊を東に投入せよと命じる。
「結局ボック大公は姿を見せず終りとなるか……英傑の最後も意外とあっけないものだの」
城の東側で繰り広げられる喧騒を遠くに聞きながらルビア王が呟く。
だがそれに答えたのはゲルファント宰相でもなければ、騎士団長でもなかった。
「いや、その男は意外としぶといらしいぞ」
玉座の間へ姿を表し、ルビア王へいささか以上に無礼な言葉を投げつけた声の主は、宝剣を手にしたボック大公その人であった。
「きさま! いったいどこから!?」
「近衛兵! 壁を作れ!」
宰相と騎士団長は一瞬唖然としながらも、即座に王を背後にかばい侵入者と対峙する。
どうやってか玉座の間にいきなり現れたボック大公。その姿は頭から爪先までずぶ濡れで、足元の赤い絨毯に大きなシミを作っている。
「久方ぶりだの、ボック公。自ら降伏を告げにでもやってきたかと思えば、その無様な格好、一度出直して来るのが良いのではなかろうか?」
「いやいや、せっかくここまで足を運んだのだ。ついでに用件も済ませてしまおう」
「ふむ。その首を差し出すとな。ああなるほど、首を洗って来たと言う訳か。殊勝なことよ」
それにしては洗いすぎよの、と玉座に腰を下ろしたままルビア王がにやりと笑う。
それに対しボック大公は嫌そうに顔をしかめた。
「相変わらず口では全く持って勝てる気がせぬわ」
「いや気を悪くしたなら謝罪せねばな。それ以外ずぶ濡れになる理由が……そうか」
ルビア王は、はたと何かに気づきおのが膝頭を小さく叩く。
「水の精霊か……だが城にも城外にも川など流れておらぬ。水があるのは裏の井戸ぐらいのもの。水の精霊を使って水脈を辿ってきおったか」
「さすが、と言わざるをえないな。瞬時にそこまで見抜くとは。だが今更タネを明かされたところでなんの痛痒も感じぬ」
「褒めても何も出ぬぞ。それにただの時間稼ぎじゃしの」
「狐も裸足で逃げ出すがごときか。だが階下からの通路はすでに手のものが押さえている。抜かれるまでにここで決着をつけさせて貰おう」
ボック大公の手にしていた宝剣が豪華な鞘から鞘走る。
ショートソード程度のそれは鍔元に淡く光る宝珠が据えられ、刀身も光の霧を纏っている様に淡く光っている。
「宝剣ヌコンマンテ……ボック公国の国宝か。気をつけよ、いかな能力を秘めておるか知られておらん」
「身をもって味わえ!」
刹那、ボック大公の姿が掻き消えたかと思うと、ルビア王の前に立ちはだかっていた騎士団長の眼前にいきなり現れる。
「ガッ!?」
騎士団長は息のかかるほど近くにいきなり現れたボック大公と、自分の胸部に突き刺さった宝剣に視線を巡らせたかと思うと、そのまま糸が切れた様に崩れ落ちた。
「いきなり間合いを詰めるのか! 王の前に立て! 視線を通らせるな!」
宰相が手にしていた短めの錫杖を投げつける。
ボック大公はひらりとそれを躱すと、少し後ろに下がり宝剣を正眼に構え直した。
「指揮継承! 大きく取り囲め! 王の背後にも壁を!」
近衛騎士の一人が素早く指揮権を引き継ぎ、統率を取り戻すと、そのままボック大公に突進する。
しかし大公に向かって振りかざしたロングソードは振り下ろされることなくその手から滑り落ちた。
「ぐっ……」
しかし苦悶の表情を浮かべたのは突進した近衛騎士だけでなく、大公も同じだった。
宝剣ヌコンマンテの能力ではなく剣技によって突進してきた近衛騎士の腹を貫いたボック大公だったが、痛みに導かれて己の大腿に視線を落とすと近衛騎士の左手が短剣を突き刺していた。
「相打ち覚悟か!」
自分に寄りかかってきた近衛騎士の躰を撥ね退けると、息を荒げてさらに後退する。
休む暇を与えぬとばかり、近衛兵が二人、左右から襲いかかるが、英傑と知られた大公はなんなくこれを弾き返し、そのうちの一人を素早く踏み込むと袈裟斬りに切り倒す。
「底が見えたわい」
ボック大公が刀身に付いた血糊を振り払うように宝剣を振るとルビア王に向き直ったが、そこには鋭い目でボック大公を見据えるもう一人の英傑がいた。
「その宝剣、能力の使用に何らかの制限があると見た。現に先程騎士団長の元へ一瞬で移動した後、鍔元の宝珠の輝きが少しばかり輝きを減じておる。近衛騎士の突進を真正面から受けずにわしの命を刈りに来なかったのもその証左じゃ」
「さてなんのことやら」
「回数の制限か、はたまた一度使用すると間を置かねばならぬのか、まぁそんなところか」
「……よく喋る狐だ!」
再びボック大公の姿が消えたかと思うと、宝剣を振りかざした姿がいきなりルビア王の左に現れる。
しかし、王の後ろに控えていた近衛騎士がその身を二人の間に滑り込ませ、手にしたラウンドシールドをかざす。
ボック大公は振り上げた宝剣を左に大きく逸らしながら振り下ろした。
「宰相!」
振り下ろされた宝剣の刃がゲルファント宰相の首を切り裂く。
あたりに血しぶきが飛び散り、それはルビア王にも降りかかった。
「ちっ」
ボック大公は大きく宝剣を振り回し間合いを作ると、さらに間合いを取るために後ずさりするが、玉座の段差にたたらを踏み体勢を崩してしまった。
好機とばかり、近衛兵達が四方よりボック大公を取り囲む形で串刺しにしてやるとばかり突進していく。
敵でなければその場の者全てが見惚れたであろう舞うような体捌きでそれを躱すと、そのうち三人をあっという間に斬り伏せた大公だったが、大腿の傷が響いたのか、最後の最後で膝が崩れ落ち、四人目の剣がとうとうその躰を捕らえていた。
「まだまだぁ!!」
その四人目も宝剣で刺し貫いたボック大公は、己を鼓舞するかのように吠える。
これで残るはルビア王と近衛騎士二人のみ。
しかし、宝剣ヌコンマンテの宝玉の光は最早失われつつあり、誰の目にもその力は失われつつあるのが見てとれる。
しかも二度目の刀傷はボック大公の左肩を斬り裂いており、ずぶ濡れの革鎧のお陰で傷こそ浅く済んだが、その打撃で左の鎖骨でも折れたか左腕はだらりと下がり思うように動かなくなっていた。
「幕を降ろさせてもらう」
「よかろう、その首を差し出すがよい。公国は我が治めてやるゆえ、心残り無く逝くがよいわ」
ルビア王は腰の異様に長い儀礼刀を抜き放つと初めて玉座から腰を上げた。
二人の近衛騎士は王から離れるわけにもいかず、凝視していて見失った後に反応が遅れるのを恐れ、視点を軽く彷徨わせ五感を研ぎ澄ませる。
刺し違えでも止められればそれでよい、との覚悟だった。
そしてまたもや、ボック大公の姿が掻き消える。
次の瞬間、ルビア王の真正面に現れたボック大公は首を刈るべく、水平に宝剣を振り抜く。
「なんだと……」
だが、その剣の切っ先はわずかばかりルビア王に届かない。
思わずぎょっとした表情を浮かべおのが腰を見下ろすと、そこには先程切り捨てたはずの四人目の近衛兵が口と鼻から血を溢れさせながらしがみついていた。
宝剣ヌコンマンテの瞬時に目指した位置に移動する能力が、二人分の移動に誤差を生じてしまったのだ。
二人の近衛騎士はここが勝機と、同時に襲いかかる。
邪魔だとばかり腰にしがみついていた近衛兵を振りほどくその動きのまま、右手一本で宝剣を操り近衛騎士の腕を切り落とす。 だがそこまでだった。
「貰った!」
もう一人の近衛騎士の剣が遂にボック大公を捉える。
その剣は大公の横腹を貫いていた。
「があぁぁ!!」
エリクサーさえ手に入れれば。
エリクサーさえあれば少しばかり飲むことで命を繋ぎ、残りを公国に持ち帰れる。
おのが横腹に刺さった剣を抜く円の動きをしながら、手を切り飛ばした近衛騎士に止めを刺す。
仕留めたと気を緩めたもう一人の近衛騎士の動きが一瞬止まるが、ならばこれでと血がべっとりとついた剣を上段に振りかざした。
「甘い!」
だが英傑の剣はその油断を見逃さなかった。
瞬時に宝剣を逆手に持ち替え、背中をぶつけるように近衛騎士に体当たりする。
力が入らない逆手持ちされた宝剣は近衛騎士の首に滑るように当てられ、一瞬でその生命を奪っていた。
「まこと英傑、敵ながら見事と言っておこう。だが先程の公の言葉そのまま返そう。終幕じゃわい」
玉座から立ち上がったルビア王はそこから一歩も動いていなかった。
だが、その手にあったはずの儀礼刀は今は無い。
「なんだこれは?」
自分の胸を見下ろすボック大公の目に写ったのは、背中から貫き通された儀礼刀の刀身だった。
それは切っ先どころか刀身の三分の一ほどがボック大公の右胸から突き出していた。
ボック大公の体が赤い絨毯の上をゆっくりと舞い、そして静かに横たわった。
「ただの儀礼刀と思ったか。わが王国の宝剣、翔光剣というんじゃ。剣の形をしてはおるが、振るっては何も切れぬなまくら、じゃがひとたび投擲すれば光の如き早さで相手を貫き通す。まっこと捻くれた魔剣じゃよ」
外もそろそろ収まりが付いたようじゃの、と喧騒が激しくそして近づいてきたのを感じ取りったルビア王国は、配下がボック兵を押し込み決着が着きかけているのを感じ取っていた。
「視線が通ってるぜ……」
ルビア王は自分の視界がいきなり暗くなった、と感じる。
それはボック大公がルビア王に覆いかぶさるように抱きついていたためだった。
「ぐ…………」
「ひとたび投擲すれば光の如き早さで相手を貫き通す、だったか? 確かに捻くれた剣だ……」
ルビア王は自分の胸と腹が焼ける用に熱く痛むのを感じる。
抱きついてきたボック大公を力を振り絞って突き飛ばすと、その反動でよろよろと玉座に座り込んだ。
突き飛ばされたボック大公は為す術もなく段差を転げ落ちる。
今度こそその生命を手放したのだろう、閉じられこそしていないがその目は完全に光を失っていた。
宝剣ヌコンマンテが乾いた音を立てながら床に転がる。
「宝剣の能力で突き出した翔光剣ごと抱きつくとは……ただの剣ならば貫くまではならなかったのじゃろうが……最後の最後でぬかったわい」
小さな咳とともに吐血したルビア王はゆらゆらと体をふらつかせたと思うと、そのまま支えきれず玉座から滑り落ちる。
「術者殿、術者殿はそこにおるか」
「ええ、我が王よ。もちろんここにおりますとも」
「すまぬがエリクサーを使うしかあるまい。ボック兵め、主が果てたというのに無駄に頑張っておるようじゃ……」
それまでまるで壁の花にでもなったかのようにことの全てを無表情に眺めていた男は、壁からゆらりと離れる。
確かに喧騒は近くまで迫ってはいるが、未だルビア兵は玉座の間に到達していない。
男は玉座下の赤い絨毯の階段に背を預けなんとか体を起こしているルビア王の前に跪くとそっとカバンを床に置いた。
男がカバンの蓋を開くと、中から光の粒子がうっすらと立ち上る。
ルビア王はこれまで見たことのないカバンから立ち上る光の粒に絶望の色を浮かべ問いかけた。
「ま、まさか割れてしもうたのか?」
「いえいえご安心を。エリクサーは無事でございます」
「そ、そうか。じゃが、そのような光が湧き出るさまはこれまで見たことがないが……」
「ある条件を満たしますと、このような現象が起こるのでございます。もちろんエリクサー自体には、なんら差し障りはございません」
男の説明に一抹の疑問を抱きながらも、ルビア王はひとまず安心の吐息を吐く。
男はそっとカバンから黒い包を取り出す。
「術者殿、それは違う……それはただの水ではないか。ま、まさかこの期に及んで……」
しかし男は何も答えずそっと包を開き中の薬瓶を取り出す。
するとどうだろう、城の裏の井戸の水が入っているとされた薬瓶の中には、先日ルビア王が見たエリクサーと同じ光の粒子が眩しく渦巻いていた。
光の輝きが二つ。
カバンの中央には剥き出しの薬瓶がいつものように輝き光っている。場所を差し替えたのではない。
「エリクサーが二本? どういうことじゃ、訳が判ら……」
しかし、ルビア王は言葉を切り、大きく咳き込むと先ほどより数倍の血を吐く。
翔光剣に肺は貫かれ、ヌコンマンテを突き立てられた腹も大きく傷ついていた。
男はそんなルビア王をちらりと見ると、蜜蝋を剥がし、ガラス栓をゆっくりと廻し始める。
「早う、術者殿はよう……命が、わしの命が流れ出るようじゃ……」
ルビア王はその手を男に向けて幽鬼のように彷徨わせるが、すでに躰のどこにも力は入らず、そのまま床に崩れ落ちる。
そしてガラス栓は小さな音を立てながら抜き取られた。
男は栓が抜かれ、薬瓶の口元から光の粒子を小さな噴水の様に吹上げ始めたエリクサーをまるで誰かと乾杯するかのように掲げた。
そして一気にそれを我が口に流し込む。
「術者殿……?」
それはルビア王の最後の言葉。ルビア王の目はボック大公と同じに光を失う。
その表情は驚愕と苦悶が刻み込まれたまま凍りついていた。
しかし男はその様子を気に留めるでなくごくごくと喉に流し込み、最後には全てを飲み干してしまった。
「八年ぶりか……今回も随分とかかってしまったな。しかしこれで私の寿命も延長され、またお役目を果たせるというもの。お許し戴けると信じるしかあるまい」
男は黒い布と空になった瓶を手早くカバンに放り込み小さく何か呟くと、階下の喧騒から逃れるように掻き消えてしまった。
◇◆◇
「おいこら、お前なにやっとるん?」
よしよしと下界を覗き込んで満足気にニヤついていた天使は、いきなり背後から怒りを含んだ声をかけられ固まる。
「こ、これは女神様、いかがなさいましたか?」
「いかがなさいましたか、じゃね~よ。何してんだって聞いてるんだろうが」
女神は手にした杖でガンガンと天使の頭頂を叩き、先程まで天使が覗き込んでいた下界の風景に目をかすめる。
「説明して貰おうか? 何をしてた。なんでエリクサーがあそこにある。全部回収したと報告を受けた記憶があるが?」
ああん?と凄むと、今度は先程より激しく杖で天使の頭を打ちつけ続ける。
「ちょ、女神様、痛いです! 血が出たらどうするんですか、パワハラです!」
「何をぬかしてる。わたしやお前達天使のどこに血液が流れとるん。光子の塊やろが」
天使の頭に振り下ろされる杖の速度は次第に早くなり、もはや残像。
激しいビート音とともに頭が変形していく。
「ひ、酷い! 頭が凹んだ! これ労災ですよね? 傷病手当を要求……あ、なんでもないデス」
すうっと冷たい無表情になった女神に これ以上のごまかしは危険と察した天使は肝念して説明を始めた。
「い、いやですねほら、下界で人間が死ぬとお迎えに行くじゃないですか。昔はそれはそれでまぁ楽しかったんですよ。パッパラッパラ~とかラッパを吹き鳴らして降りていくと、魂はそれは嬉しそうにこちらを見てついてくるんです」
あれ可愛いですよね、と同意を求めるが女神は目を細めたまま無表情に黙り込んだままだ。
「そ、それがですね、女神様のご威光のおかげかなんかバンバン増えてきちゃったんですよ。もう一人見たら百人いると思え、って感じで増えていっちゃって、今総人口どのくらいだと思います? 笑っちゃいますよ? なんと三億!」
指を三本立てて突き出した天使。女神はその指をまとめてむんずと掴むとぼきりと捻り折った。
「つつっつあああぁぁぁぁ!?」
「それがどうした。高度な知能を与えてるんだ、発展していけば増えるのは当たり前だろうが」
あらぬ方向へ折れ曲がった自分の指を直しながら、神も仏もないものだと天使は嘆息する。
「で、ですねぇ……お迎えが回らなくなっちゃたんですよ。もう完全な天使不足で輪廻の輪に戻すのが追いつかなくなって、不浄の者になっちゃったり、消滅しちゃったり。これはまずいなと」
そこでわたしは考えました! とビシっと指を一本突き出す。もちろんまた女神にぼきりと折られたのだが。
「い、痛いです……まあ、そこで有能な私は考えたのです。お迎えが間に合わなければ集めさせればいいじゃない。人間に天啓を下ろし、こっそりとエリクサー用の瓶も百本ほど渡して収集担当とし、死者の魂を五万ほど吸収するとただの水がエリクサーになるようにしました! そのうち一万はエリクサーの効能として消費され、残りの四万は天界に回収されます。幸い地上では常にどこかで争いが起こっていますから……」
天使の言葉はそこで途切れる。無いはずの血管が女神のこめかみにくっきりと浮かび上がるのを視認したからだ。
「たわけがああああぁぁぁ!」
本気で振り下ろされた杖に天使は真っ二つにされ、そのまま千年ほど二倍の仕事をすることを命じられることになる。
ちなみにエリクサーは全て即時回収され、哀れに思った女神は酵母菌と発酵技術を聖遺物代わりに地上に下ろした。
つまり今わたし達が飲んでいるビールやワイン等のアルコール飲料は、この女神様からの代償としての贈り物であり、エリクサーとも言える。それを摂取することはなんらやましいことでは……あっ、山の神様、何を振り上げているのですか?
↓
※山の神 = 奥様のことです。たぶん二本の角が生えています。
最後のエリクサーは誰のために 日浦きうり @Kiuri_Hiura
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