第五話


「…………今、何を言った?」


「だから、太郎ちゃんは、可愛えのさんの事、好きでしょ?」

「………………誰が、何だって?」

「だからぁ、太郎ちゃんが、可愛さんを、好きなんだってばぁ」


 生太郎しょうたろうを指差し、可愛の顔を指差し、八千世やちよはきっちりはっきり言葉を区切る。



 生太郎の周りだけ、しばし時間が停止した。



「……………………は、はぁぁぁっ!?」


 かと思えば、唐突に跳ね上がる。可愛の体から、勢い良く離れていった。


「ぷはっ。な、何、今の。驚いた蛙みたい」

「お、驚きもするだろうっ。おま、お前が、変な事を言うからっ」

「もう。何度も言ってるじゃない。私は変な事なんて、これっぽっちも言ってませんって」

「だ、だがお前っ、私が、可愛さんを、その、あ、あれだと」

「言ったわよ。太郎ちゃんが、可愛さんの事好きだって。もしくは、憎からず思ってるとも、密かに想いを寄せてるとも言えるわね」


 いや、それは全部同じ意味だろう、と突っ込む余裕もない。意味もなく口を開閉し、体中から一気に汗を噴き出した。


「っ、ま、待て。お、おおお、落ち着け。落ち着くんだ千世ちよ

「うん、太郎ちゃんもね。はい、吸ってー、吐いてー」


 八千世の掛け声に合わせ、生太郎は呼吸を繰り返す。むぅ太郎も、真ん丸な体を上下させた。お陰で生太郎の心臓は大分大人しくなる。


 だが未だに頬は熱く、赤みを帯びている。


「うーん、見事な取り乱しっぷり。多少は予想してたけど、まさかここまでとはねぇ」


 まるで他人事のように呟く八千世。誰のせいだ、と思わず怒鳴り付けそうになったが、生太郎はどうにか噛み殺し、喉を唸らせる。


「……おい、千世。お前、自分が何を言ったのか、分かっているのか?」

「分かってるわ。でなければ、わざわざ指摘なんてしないもの」

「……何故」

「だって、見ててとっても苛々するんだもの」


 唇を尖らせ、溜め息を吐いた。


「明らかに可愛さんを意識してるのに、そんな自分に全然気付いてないし、可愛さんに声を掛けられると凄く嬉しそうなのに、変な意地張ってむっつりしてるし、話したいって思ってる癖に、何を話したら可愛さんが喜ぶか分からなくて悩んで、結局何もしないし――」


 淀みなく溢れる言葉が、生太郎に襲い掛かる。なまじ心当たりが全くないわけではないせいで、反論出来ない。あ、やら、う、やら唸るばかり。


「――極め付けは、牛鍋の件ね。お母さんが誘った時は遠慮してた癖に、可愛さんに誘われたらあっさり了承するんだもの。それって、可愛さんとなら行きたいって事でしょ? つまり太郎ちゃんにとって、それだけ可愛さんは特別なのよ。ねぇ、むぅ太郎君?」


 むぅ太郎は、真ん丸な体を「むぅー」と上下に動かした。



 途端、生太郎の顔の赤みが、勢いを増す。口を片手で覆い、視線を彷徨わせた。



 虫が、囃し立てるかのように鳴いている。



「ようやく、自覚しましたか?」


 溜め息に乗せて、八千世は言う。


 生太郎は、未だ呆然としている。

 喉を大きく動かし、恐る恐る、口から手を離した。


「…………今のは……本当か……?」

「はい。本当です」

「……何かの、ま、間違いという事は」

「間違いではありません。何度でも言います。太郎ちゃんは、可愛さんが好きですよ」


 生太郎は、また目を泳がせる。眉間に皺を寄せて、拳を握った。


「まぁ、今すぐ受け入れろとは言わないよ。太郎ちゃんからしたら突然の話だろうしね。きっと私が言わなきゃ、自分の気持ちを不思議に思いながら、一生気付かなかったと思う。だって太郎ちゃんは、びっくりする程唐変木なんだから。だから、敢えて言ったの。それ位が唐変木には丁度いいと思って」


 八千世は肩を竦め、おどけてみせる。


 生太郎は何も言えない。八千世から視線を逸らして、考え込む。

 八千世も生太郎から顔を背け、また月を眺め始めた。

 


 静かな時が、ゆっくりと流れていく。



「……一つ、疑問なのだが」


 徐に、生太郎が口を開いた。


「お前の言いたい事は、何となく理解した。だが、何故そこまで断言出来るんだ? 人の心の内など、誰がどう頑張っても見えなければ聞こえもしない。つまりお前は、私の心の内など分かりはしない筈では――」


「分かるわよ」


 月を見上げたまま、八千世はきっぱりと言う。



「だって、ずーっと見てたんだもの。それ位簡単よ」



 そう言って振り返った。月明かりを背に、微笑む。


 儚さを纏った姿に、生太郎は息を飲んだ。呆然と八千世を見つめる。



 静寂が辺りへ広がっていく。

 夜風が二人を優しく包み、虫達が繊細な音色を奏でた。



 そんな空気に割り込む、足音。



「八千世さん」


 倉間くらまがやってきた。生太郎と八千世を見やり、頬を緩ます。


「そろそろ病院に行こうかと思うんだけど、いいかな?」

「あ……はい」


 八千世は立ち上がり、頭を垂れた。生太郎もつられて立ち、腰を折る。


 倉間は客間へ入り、布団に横たわる八千世の肉体を抱え上げた。全く重さを感じさせずに歩き出す。


「じゃあ、行ってきます。きちんと送り届けるから、安心してね」

「はい。よろしくお願いします」


 八千世と生太郎は揃って頭を下げ、倉間と八千世の肉体を見送った。


 つと、八千世は空っぽの布団を振り返った。しばし眺めてから、生太郎へ視線を移す。


「じゃあ、私もそろそろ行くね」

「……あぁ」

「可愛さんには、ありがとうございましたって伝えておいてね。それから、ご迷惑をお掛けしましたとも」

「当たり前だ。お前からと私から、きちんと感謝と謝罪をしておこう」

「それと可愛さんの事は、責任を持って家まで送り届けてあげてね。絶対よ」

「あぁ。勿論だ」

「後、お父さん達の様子も見てきてね。私と太郎ちゃんが結婚する夢を見たんだって、ちゃんと勘違いしてるか、しっかり確認してね」

「あぁ。分かった分かった」

「夢じゃなかったのかも、なんて言い出したら、きちんと誤魔化してね。あ、ううん。やっぱりいいや。太郎ちゃん、そういうの下手だろうから、倉間さんに相談してね。自分でどうにかしようなんて考えちゃ駄目よ」

「はぁ、分かった。その通りにしよう」

「それからね」

「……まだあるのか」

「これで最後だから。ふふ」


 眉間に皺を寄せる生太郎へ、一歩近付く。

 そして、両手を広げた。


「抱っこ」


 ……何を言っているんだこいつは、という気持ちがありありと浮かんだ眼差しを、八千世へ送る。


「ほら、早く」

「……何故私が、年頃の娘を抱き抱えねばならないんだ」

「理由なんかどうだっていいじゃない」

「いや、どうでもよくはないだろう」

「細かい事は気にしないの。可愛い妹分のお願いなのよ? 叶えてくれるのが兄貴分というものでしょう?」

「……都合のいい時だけ妹分面して」

「だって妹分ですから」


 ふふ、と八千世は口角を持ち上げ、もう一度両手を広げてみせる。


 生太郎は、深く息を吐き出した。それから、じろりと八千世を見下ろす。


「……一回だけだからな」

「ありがとう太郎ちゃん。流石は私達の兄貴分。頼りになるわ」


 調子のいい事を。生太郎は眉に力を込めて、これでもかと不満を前面に押し出してやる。だが八千世は気にする素振りもなく、生太郎へ腕を伸ばした。

 足と背中へ腕を回され、ふわりと縦に抱き抱えられる。


「……ねぇ、太郎ちゃん。私が想像してた抱き方とは、ちょっと違うんだけど」

「お望み通り、抱えてやっているだろうが」

「そうなんだけど、私は、こう、横向きの状態で抱っこして欲しかったの。これじゃあ小さな子供を抱えてるみたいじゃない」

「同じようなものだろう」

「全然違うわよ」


 頬を膨らませて、生太郎を睨む。

 しかし生太郎は、お返しとばかりに素知らぬ顔をした。八千世は更に眉を顰め、悔しげに唸り声を上げる。


 かと思えば、勢い良く、生太郎に抱き付いた。


「なっ! 何をするんだ千世っ!」

「何ってねぇ? 折角太郎ちゃんが抱き付きやすい体勢にしてくれたから、お言葉に甘えて抱き付いちゃおうって思ったのぉ」

「なにがお言葉に甘えてだっ! 私は抱き付いていいなどと、一切口にしていないぞっ!」

「私が抱き付いていいって思ったんだからいいのぉ。ほらほらぁ、可愛さんの顔よぉ。こんなに近付いちゃうわよぉ」

「や、止めろ馬鹿っ! そんなはしたない真似をするなっ!」


 生太郎は、必死で八千世から顔を背ける。そんな生太郎を追い掛ける八千世。

 焦りと笑いが入り混じり、縁側が騒がしくなる。


「うふふ、あー可笑しい。太郎ちゃんって本当に真面目ね。ねぇ、むぅ太郎君?」

「むぅー」


 くすくすと喉を鳴らし、八千世は浮んだ涙を拭う。生太郎は辟易とばかりに顔を歪め、溜め息を吐いた。


「……もういいか」

「んー、まだかな。もうちょっとこの景色を楽しみたいわ」


 生太郎の肩へ手を置き、周りを見渡す。それから、空を仰いだ。


「うーん。流石に太郎ちゃんに抱えられた位じゃ、月には近付けないのね」

「……当たり前だろう」

「ちょっと残念。あ、でもこうやって見比べると、ますますむぅ太郎君とそっくり」


 そう? とばかりにむぅ太郎は体を捻ると、徐に生太郎の頭上で飛び跳ねた。満月と並んで見せ、どうどう? と鳴き声を上げる。


「ふふ、似てる似てる。あぁ、でも飛ぶと毛が広がるから、満月ではないかな。ちょっと欠けた感じかも」


 と、八千世はむぅ太郎へ手を伸ばした。掌の上へ、白い毛玉が飛び乗る。


「うわぁ、ふわふわ。凄く気持ちいい。私、ずっとむぅ太郎君を触ってみたかったの。あの、ついでに頬をくっ付けてもいいですか?」

「むぅー」

「ありがとう。失礼します」


 八千世は感嘆の声を上げて、真ん丸な体へ頬を寄せる。うっとりと目を瞑っては、幸せそうに顔を蕩けさせた。


「はぁー、気持ち良かった。ありがとうね、むぅ太郎君。お陰で夢がまた一つ叶いました」


 どういたしまして、とむぅ太郎は、円らな瞳を細めた。


「……千世。もう下ろしていいか」

「んー、もうちょっとだけ」


 生太郎は鼻から息を吐き、八千世を抱え直す。八千世はむぅ太郎を抱いたまま、生太郎へ微笑み掛けた。



 そして、そっと体を、凭れさせる。



「……ありがとうね、太郎ちゃん」


 目を瞑り、噛み締めるように呟く。


「手伝ってくれてありがとう」

「……あぁ」

「花婿役をやってくれて、ありがとう」

「……あぁ」

「私、今日という日を絶対に忘れないわ」

「……そうか」

「太郎ちゃんも忘れないでね」

「……あぁ。決して忘れない」


 生太郎は、あやすように八千世の背中を叩いた。


「……太郎ちゃん」


 八千世の口角が、つと持ち上がる。




「大好きよ」




 むぅ太郎を抱き締める腕へ、微かに力が籠った。


「……あぁ。私もだ」


 八千世の背中を叩く手は、変わらず優しい。


 ぴくりと、八千世の眉が反応する。しかしすぐに弧を描き、ふふ、と喉を鳴らした。猫のように額を押し付ける。そのまま、静かに呼吸を繰り返した。



 かと思えば、唐突に、頭を上げる。



「……ん? ……んん? え、あれ?」



 不思議そうに瞬きをして、辺りを見回す。

 客間を見て、縁側の外を見て、むぅ太郎を見て、自分を支える腕を見て、生太郎を見て、腕を見て、生太郎を見て、生太郎を見る。


「……どうしたんだ、千世?」


 凝視してくる妹分に首を傾げ、取り敢えず背中を叩いておく。



 瞬間。

 目の前の顔が、一気に赤く染まった。



 けたたましい悲鳴を上げ、生太郎の腕から飛び降りる。



「な、なな、何で、何で私、吉瀬さんに抱えられているんですかっ? 一体どういう状況……はっ! ま、まさか……八千世さん……っ!」


 頭を抱え、唸り声を上げては悶えくねる。むぅ太郎が、落ち着け、とばかりに鳴くも、聞いてはいない。只管呻いては、八千世の名を恨めしげに呟いている。



「……もしや、可愛さん、か……?」



 ぴたりと、動きが止まった。

 軋む音が聞こえそうな程、ぎこちなく、振り返る。



「は……はい……可愛です……」



 目に涙を浮かべ、真っ赤な顔で頷いた。


「あの、吉瀬さん……あれは、い、一体どういう状況で……?」

「あ、あぁ。あれは、千世が抱っこをしろとしつこいものだから」

「や、やっぱりぃぃ……っ」


 可愛はその場に崩れ落ちる。膝を付き、むぅ太郎を抱えて蹲った。


「す、すみませんでした吉瀬さん。重かったですよね。本当にすみません」

「い、いや。気にしなくていい。元はと言えば、千世の我が儘が原因なのだから」

「で、ですけど」

「それに、あれだぞ。言う程重くはなかったぞ」


 だから大丈夫だ、と告げたかったのだが、可愛は一層丸まってしまった。むぅ太郎の毛に顔を埋め、もがもが何かを言っている。


 まるで亀のようだ。生太郎は場違いと思いつつも、ついつい口元を緩めてしまう。



 そこで、ふと、八千世の言葉が頭を過ぎった。



『だって太郎ちゃん、可愛さんの事好きじゃない』



 ひゅ、と喉が音を立てる。見開いた目で、生太郎は可愛を見つめた。亀のように蹲っているせいで、何一つ顔が見えない。



 だが、蒲公英色の七宝繋ぎの隙間から、真っ赤に染まった耳やうなじは、見える。



 生太郎の顔にも、熱が帯びた。



 そんな、まさか。



 口を押さえ、反射的に後ずさった。



「っ、うおぉっ!」


 縁側を踏み外し、転がり落ちる。

 鈍い音を立てて、地面の上へ倒れ込んだ。顔を歪め、呻き声を零す。


「だ、大丈夫ですか吉瀬さんっ」


 可愛が、縁側の縁へと這い寄る。その声は聞こえたものの、全身を襲う痛みで言葉が出てこない。


 これも、むぅ太郎の力を借りた代償か。

 早速我が身を襲った不幸に、生太郎は大きな溜め息を吐き出した。






 それから二週間後。






 皆に見守られる中、八千世は安らかに息を引き取った。


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