第二話


「んあ? 急に静かになったなぁ」


 根来ねごろ家の一室にいたいわいは、隣接している格技場を振り返った。生太郎しょうたろうと、その頭の上を陣取るむぅ太郎も、同じ方向を見やる。


「ま、どうせ天生てんせい太一たいちが何かやらかして、ミケにでも怒られてるんだろうなぁ」


 祝はにやにやと笑い、生太郎に角帯を巻いてやる。


「うっし。えーと次はぁ、袴か」


 袴を掴み、足を入れやすいよう広げて差し出す。


「ほれ」

「……どうも」


 生太郎は袴へ足を通し、その場に立ち尽くす。祝の手元を、複雑な面持ちで眺めた。


「……あの、祝さん」

「んー? どうしたぁ? どっかきついかぁ?」

「いえ……そういうわけでは、ないのですが」


 眉間に皺を寄せつつ、眉は下がる。



「……花婿役は、本当に必要なのでしょうか?」



 着々と紋付き袴を着付けられていく自分に、どうしても疑問を禁じ得ない。



「当たり前だろぉ? 花嫁がいるなら、花婿もいねぇと可笑しいだろうが」

「それは、そうかもしれませんが……なにも、私でなくともよいのでは」

「いやいや、お前以外いねぇだろうが。俺にはタマという嫁がいるし、天狗さんにはちぃちゃんがいる。根来家の使用人だって殆ど既婚者だし、そもそも八千世やちよちゃんとは何の面識もねぇだろぉ? そんな奴らが花婿になるより、気心知れてる吉瀬の方が、八千世ちゃんも安心するって。なぁ、むぅ太郎?」

「むぅー」


 祝は袴の紐を結び、余った部分を巻き入れる。


「ま、これも妹分の為だ。一肌脱いでやりな、兄貴分」


 ぽんと生太郎の肩を叩き、衣紋掛けから羽織を外した。生太郎に腕を通させ、房の大きな白い羽織紐を付ける。


「よーし、完成ー。うんうん、中々いいじゃねぇか。丈も裄も丁度良さそうだな」

「……そうですね。特に違和感はありません」

「そうかそうか。いやぁ、良かった。お役に立ててなによりだ」

「ありがとうございます、祝さん。あいつの為に、こんな立派な紋付きを貸して下さって」

「いいって事よぉ。こいつも俺とタマの祝言以来、一度も出番がなかったからなぁ。きっと久しぶりの晴れ舞台に喜んでるよ」


 そうだそうだ、とばかりにむぅ太郎は、真ん丸な体をご機嫌に揺らした。



「失礼するよ」



 倉間くらまが、部屋の戸を開ける。紋付き袴姿の生太郎を見て、目と口を緩ませた。


「うん、いいね。凄く格好いいよ、吉瀬きせ君」

「は、はぁ。ありがとうございます」

「おー、お帰んなさい天狗さん。首尾はどうすか?」

「上々だよ。向こうも今、着付けに入ってる頃だと思う」

「じゃあ、もうしばらくは掛かりますね」

「だろうね。だから、吉瀬君」


 生太郎の肩を叩き、微笑む。


「今の内に、祝言の流れと作法を勉強しておこうか」

「あー、それがいいっすねぇ。んじゃあ、俺、ミケを呼んできますわ。確かそういうの詳しかったと思うんで」


 そう言うと、祝はさっさと部屋を出ていった。ミケという使用人を呼ぶ声が遠ざかっていく。


「……あの、倉間さん……これは、あくまでふりなのでは?」

「そうだよ。でも、だからって手を抜くわけにはいかないでしょう?」


 何も可笑しい事はない、と言わんばかりに、倉間は平然と言い返す。


「いいじゃない。別に覚えておいて損はないんだし。予行練習だと思って。ね?」

「…………はぁ……」


 もうそう答えるしかなかった。
















 珠子たまこが嫁入り前に使っていた部屋には、薬の臭いが漂っていた。


「珠子さん。そちらの準備は整ったかしら?」

「えぇ。大丈夫ですわ、いちさん」

 

 珠子は、大きな腹を抱えて微笑んだ。衣紋掛けに掛かる自分の白無垢を見上げる。


「市さんの方はいかがでしょうか?」

「こちらも大丈夫。いつでも出来るわ」


 太一の母である市は、調合し終えた秘薬を瓶へ移し、立ち上がった。部屋の真ん中に寝かされている八千世の肉体へ近付く。珠子も傍へ移動し、市とは反対側へ腰を下ろした。


「じゃあ、早速始めようと思うけど、いいかしら、八千世さん?」


 市と珠子は、枕元に座る可愛えのへ――可愛の体を借りている八千世へ、目を向ける。



 八千世は、膝の上で拳を握り締め、俯いていた。



「……不安な気持ちは、よく分かるわ。私だって女ですもの。でも、どうか私達を信じてちょうだい。決して笑ったりしないわ。馬鹿にしたりもしない。約束するわ」

「わたくしもですわ、八千世さん。微力ながら、あなたの願いを叶えるお手伝いをさせて下さいませ」


 真摯な眼差しで、八千世に宣言をする。


 しばし沈黙が流れ、つと、八千世は息を吸い込んだ。

 拳を一層握り締め、項垂れるように、お願いします、と囁いた。


 市と珠子は目配せをし、頷く。


「ありがとう。じゃあ、寝巻を脱がせていくわね?」


 もう一度、微かに上下した頭。市と珠子は手早く、しかし丁寧に、八千世の肉体から寝巻を剥いでいった。


「っ」


 現れた傷痕に、二人は思わず手を止めそうになる。

 八千世の受けた苦しみが、ありありと浮かんでいた。同じ女として、今すぐにでも抱き締め、慰めてやりたかった。


 だがそれこそ、八千世を苦しめる事になるだろうと、分かっていた。


 だから市と珠子は、歪みそうな顔を堪え、何事もないかのように作業を進める。八千世の心が少しでも軽くなるよう、平静を装った。


「……さてと」


 裸になった八千世を見下ろし、市は瓶の中から軟膏を掬い上げた。


「じゃあ、今から塗っていくわね。これね、私の一族に伝わる秘薬なの。本当は血が止まらない内に塗るものなんだけど、古い傷にも効くから大丈夫よ」


 八千世に軟膏を見せてから、ゆっくりと顔へ手を伸ばす。痛々しく縦断する傷痕へ、そっと塗り広げていった。



「………………っ、嘘……っ?」



 八千世は口を押さえ、息を飲んだ。




 傷痕が、じわじわと薄くなっていく。




「ね、効いたでしょう?」


 市は、自信たっぷりに微笑んだ。


「まぁ、残念ながら、完全に消す事は出来ないんだけどね。でも、こうして何回か塗り込んでいけば、大分目立たなくなるわ。後はお化粧をしちゃえば完璧ね」

「えぇ、そうですとも。お任せ下さい。わたくし、腕に寄りを掛けて八千世さんを美しく着飾ってみせますわ」


 珠子も上品に笑い、八千世の体へ軟膏を塗っていく。



 鼻を啜る音が、小さく上がった。



「さぁさぁ、八千世さんも手伝って。これでもかと塗って、皆さんがびっくりする位綺麗になっちゃいましょう」

「っ、は、はい……っ」


 目元を拭い、八千世は軟膏の入った瓶へ手を伸ばす。傷痕へ塗る度に、あの出来事も一緒に消えていくような気がした。何度も鼻を啜り、瞬きを繰り返す。


 段々と色付いていく八千世の頬に、市と珠子は、人知れず胸を撫で下ろした。

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