第六章 八千世
第一話
患者の寝静まった病棟を、巨大な毛の塊が闊歩する。傍に黒い子猫を引き連れ、一番奥の病室を目指した。
「……ぬぅん」
目的地に到着すると、巨大な毛の塊――ぬぅ左衛門は、黒い子猫へ鋭い視線を向けた。黒猫は戸を引っ掻き、静かに開けていく。
中に入れば、ベッドの上で
ぬぅ左衛門は、八千世の傍へ寄る。鋭い目付きを「ぬぅん」と和らげ、真っ白い毛で頬をそっと撫でた。
黒い子猫は、窓枠へ飛び移る。肉球と爪を器用に使い、内鍵を外した。
すると、外から窓が開かれる。
「ありがとう、クロ」
「ぬぅ左衛門もありがとう。急なお願いでごめんね」
ぬぅ左衛門は、気にすんな、とばかりに真ん丸な体を左右へ揺らした。それから、顎をしゃくるように八千世へ目をやる。
「あぁ、そうだね。早く連れていってあげないと」
倉間は、八千世の体を軽々と持ち上げる。窓へ歩み寄り、腰から扇を抜き取った。
「じゃあ、ぬぅ左衛門、クロ。事が終わるまでよろしくね」
「ぬぅん」
頼もしい鳴き声を上げるぬぅ左衛門。クロも、任せて下さい、とでも言うように鳴き、その場で宙返りをした。
途端、クロの姿が消え、代わりに八千世がもう一人、現れる。
ぬぅ左衛門の隣にいる八千世は、倉間へ頭を下げると、自らベッドへ入った。目を瞑り、本物の八千世に見えるよう、微動だにしない。ぬぅ左衛門も、入れ代わりに気付かれぬよう、ベッドの横に控えた。
これで夜が開けるまでは誤魔化せるだろう。倉間は、窓枠へ足を掛ける。
そして広げた扇を一閃し、空へと舞い上がった。
「高砂の
「鶴の置物は、もう少し左に。亀の方はそのままで」
「そっち持った? いくよ。せーの」
上座に置かれた屏風の前で、
「全く……何故儂がこんな事を……」
そんな中、倉間の甥である
「え? 天生君嫌なの? 天狗さんから直々にお願いされた事なのに? うわー、いがーい」
「べ、別に、嫌だなどとは、一言も言ってはおらぬ。勘違いするな、馬鹿者」
天生は後ろを振り返り、下手側で座布団を並べる洋装の少年、
しかし太一は全く気にせず、座布団片手にちょこまかと動き回った。
「いいか太一。儂は、間違っても嫌だなどと言ってはおらぬからな。小父貴の頼みを嫌がろうなど、あるわけがないのだ。おい、聞いているのか太一」
「うんうん、聞いてる聞いてるー。あ、天生君。座布団一枚ちょうだーい」
「……天生君ではない。天生様だ。お前、いい加減にしろよ。次に天生君などと言ったら、ただではおかないからな」
「うんうん、気を付けるよー。だから座布団座布団ー」
伸ばした両手を振ってみせる太一。天生はぐっと口をひん曲げ、座布団を鷲掴んだ。
そして、風を纏わせ、思いきり投げ付ける。
「うわっ。ちょっと、何するのさっ。危ないじゃないっ」
「おっと、手元が狂った。悪気はない。許せ」
天生は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
太一は頬を膨らませ、座布団を握り締める。天生へくるりと背を向け、しゃがみ込んだ――かと思えば。
「あぁっとっ。手が滑っちゃったーっ」
足元に置かれた座布団を掴み、二枚纏めて投げ飛ばす。
「ぶふっ。き、貴様ぁっ! 何をするっ!」
「あれー、当たっちゃったー。偶然って怖いねー」
「なにが偶然だっ! どう考えても狙ってやっただろうがっ!」
「そんな事ないよー。だって僕、後ろ向いてたもーん。座布団がどこに落ちるかなんて、これっぽっちも分からなかったもーん」
「とぼけるつもりかぁ……っ! ふざけるなよっ、この馬鹿者ぉっ!」
天生は座布団を拾い上げると、大きく振り被って投げた。風を纏った座布団は、目にも止まらぬ速さで突き進む。
それを太一はさっと身を翻して避け、お返しとばかりに座布団を蹴り飛ばした。
「おいっ、足を使うなど卑怯だぞっ!」
「卑怯なんかじゃありませーん。卑怯なのは天生君でーす。自分の力だけじゃなく、風も使って飛ばしましたー」
「なにが卑怯なものかっ! それも儂の力の一部だっ! というかっ、お前どさくさに紛れて天生君と言ったなっ!?」
「言いましたけど、それが何かー? 天生君天生君天生くーん」
「ぐぬぬ……っ、三回も言いおって……っ! もう許さんぞぉぉぉーっ!」
格技場の天井を、座布団が舞い踊る。怒号と気合いの声が上がる度、風の勢いも増した。
仕舞いには座布団を振り回し、叩き合いが始まる。
「大体っ、天生君はっ、いちいち煩いんだよっ! 呼び方なんてっ、どうだってっ、いいじゃんかぁっ!」
「どうでも良くないからっ、儂がいちいちっ、言ってやってっ、いるのだろうがっ! 自分の非をっ、儂のせいにっ、するなぁっ!」
「あーっ、煩い煩いっ! なにが言ってやってるだよっ! そんな事っ、一度も頼んでっ、ないんですけどぉっ! なのに恩着せがましい顔っ、しちゃってさぁっ! 本っ当器が小さいなぁっ! この豆皿天狗っ! 馬ー鹿っ!」
「誰が豆皿だっ! 儂が豆皿ならっ、お前なんぞ
二人は座布団を投げ捨てた。互いの胸倉を掴み、腕を振り上げる。
「――坊ちゃま方」
そこへ、至極冷やかな声と、天生と太一の襟首を掴む手が、割り込んだ。
一度引き剥がされたかと思えば、二人の額は、勢い良くぶつかり合う。
鈍い音と悲鳴が、格技場に響いた。天生と太一はその場に蹲る。
「元気なのは結構ですが、やんちゃが過ぎるのはいけませんよ」
根来家に仕える使用人の一人が、仁王立ちで天生達を見下ろしていた。毛を逆立て、怒りに喉を唸らせる。
「これ以上やるおつもりなら、
分かりましたか? と細く尖った瞳孔で睨み付けた。
有無を言わせぬ気迫に、天生と太一は、揃って頭を下げるのだった。
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