第十三話


「……本当に、千世ちよなのか……本当に……?」

「うん。千世よ。太郎ちゃん」


 生太郎しょうたろうは、一歩一歩、可愛えのへ――いや。八千世やちよへと、近付いていく。

 橋の真ん中で立ち止まり、月明かりに照らされた顔を、じっと見下ろした。


 八千世もじっと見つめ返し、徐に腕を伸ばした。

 生太郎の左腕の裾を、指で摘まむ。


「……やっと触れた」


 頬を緩ませ、確かめるように撫で擦る。



 “何か”と、同じ撫で方だった。



「お前、何故……」


 何故可愛の体に入っているのか。何故ここまで走ってきたのか。今まで傍にいたのはお前なのか。疑問ばかりが頭の中を巡った。


「私も、よくは分からないの。あの日、太郎ちゃんと途中で別れた後、知らない人に襲われて、凄く怖くて、痛くて、消えちゃいたいって思って……そうして、気が付いたら病院にいたの。包帯だらけになった私を、お父さん達と太郎ちゃんが囲んでて、私はそれを、部屋の隅で見てたの」


 生太郎の服の裾を摘まんだまま、八千世は俯く。


「最初はね、夢だって思ってたんだ。だって、自分が自分を眺めるなんて変でしょ? だから、きっとこれは夢なんだ。目を覚ましたら、私はお布団の上にいて、怖い夢を見たんだって、朝、千登世ちとせちゃんに話してるんだろうなって、そう思ってたの」


 裾を摘まむ指に、力が籠る。


「でも、違った」


 肩が、小さく震えた。


「私は酷い姿のままで、お母さんは泣いて、お父さんは太郎ちゃんを殴って、千登世ちゃんはそれを必死で止めて、太郎ちゃんは、私を一人で帰した事を後悔して……それを、私はただ見てる事しか出来なくて……」


 言葉を落とす八千世に、生太郎は何を言ってやればいいのか分からなかった。


 黙り込んでいると、唐突に八千世が顔を上げる。


「私ね、自分の体に戻ろうとしたのよ。でも戻っても、なんでか上手く動けないの。目を開いたり、顎や喉をちょっと動かすのがやっとで、後は全然駄目」


 そっと、自分の顔を触った。


「その内包帯も取れて、自分の顔を見て、凄く悲しかった。こんな傷痕が残ってるんじゃあ、お嫁になんかいけないなって。そう思ったら、なんだか、このままでもいいかなって思っちゃってね。だって、このままなら色んな所へ自由に行けるし、傷痕だらけでも全然気にならないし、誰も私の事気付いてくれないけど、太郎ちゃんだけは分かってくれたし……だから、いいかなって、思っちゃって」


 生太郎を見つめ、八千世は一度唇を結んだ。



「そうしたら……お医者さんに、もうそろそろだって、言われちゃった」



 へらりと、格好を崩す。


「きっと、体の中が空っぽだから、自分は死んでるんだって勘違いしちゃったのかもね」


 生太郎は、何も言えなかった。

 ただ、八千世を見つめ返すだけ。


「……やだ、太郎ちゃんたら。そんな顔しないでよ」

「……でも、お前」

「大丈夫。私ね、太郎ちゃんが思ってる程嫌じゃないの。そりゃあ全く嫌じゃないかって言われたら、そういうわけではないけど、でも、覚悟はね。出来てるの。何となく予感はあったから。だから、大丈夫」


 口元に弧を描き、八千世は橋の外を見やる。


「でも、びっくりしたわ。まさか他人の体にも入れるだなんて」


 生太郎の左腕の裾を、摘まみ直した。


「あ、言っておくけど、こんな事をしたの、今日が初めてだからね。今までは、自分が生霊だなんて知らなかったんだもの。幽霊か、迷子の魂なのかなー位に思ってたから、取り憑いたり出来るとも、やろうとも思った事がなくて。だから、凄くびっくりしてる。なんだか可笑しな感じね」

「……何故、そんな事を」

「千登世ちゃんが危ないと思ったから」


 間髪入れずに、八千世は答えた。


「あの人を逃がしたら、千登世ちゃんは狙われ続けるかもしれない。もしかしたら、既に捕まってるかもしれない。私みたいになるかもしれない。そう思ったら凄く怖くて、お願いだから止めてって言ったの。そうしたら、すっとあの娘さんの中に入り込んじゃって、びっくりしたけど、今しかないって思って、太郎ちゃん直伝の背負い投げで投げ飛ばしてやったの。それから千登世ちゃんの無事を確認しに、家まで走ったの」

「……その後、おじさんの体に入って、逃げた理由は?」

「あれは、私の話を聞いて欲しかったから。でも、お父さん達の前でいきなり『私は八千世だよ』って言っても、混乱させるだけでしょ? だから、まずは太郎ちゃんに説明したかったの。太郎ちゃんなら、きっと分かってくれるって思ったから」


 生太郎は、小さく頷いてみせる。


「では……富久住ふくずみ駄菓子店へ向かったのは、何故だ?」



 すると、八千世の顔色が、明らかに変わった。



「説明ならば、おじさんの姿でも問題ない筈だろう?」

「あ、う、うん。それは、そうなんだけど、でも、えっとね」


 八千世は、空いた手で蒲公英たんぽぽ色の七宝しっぽう繋ぎを弄る。


「……ひ、秘密っ」

「……秘密だと?」

「そ、そう。秘密。そこは、別に太郎ちゃんが知らなくても、いい事だし」

「……人様の体をお借りしている身で、なにが秘密だ。お前、自分がどれだけ勝手な事をしているのか、分かっているのか?」

「わ、分かってるよ。私だって、申し訳ないとは思ってるの。だから、可愛さんにだけは、ちゃんと説明したから。本当よ?」


 ……可愛さんに説明した?

 どういう事だ、と生太郎は眉間に力を込める。


「太郎ちゃんをここで待ってる間に、私、可愛さんとお話したの。ごめんなさいって心の中で言ったら、大丈夫ですよって、心の中で答えてくれたの。その時に、可愛さんの所に行った理由や秘密の理由を説明して、それからもう一度謝ったの。そうしたら、可愛さんは分かってくれて、少しの間でいいなら、体を貸して下さるっておっしゃって」

「……本当に、可愛さんがそう言ったんだな?」

「うん、本当に。また貸してくれるとも言って下さったの。私も、太郎ちゃんとお話したいだろうからって」


 八千世は、嬉しそうにはにかんだ。


「だから、今日はこれで終わりね。太郎ちゃんに私の存在と状況を説明するっていう目標は達成したし。それにまだお仕事があるんでしょ? 祝さんと倉間さんだけじゃ大変だろうから、早く戻ってあげて」


 生太郎を振り返り、左腕の裾を、軽く引っ張る。


「じゃあ、またね、太郎ちゃん」

「…………あぁ」

「ふふ。そんな顔しないでよ。大丈夫。可愛さんに頼んで、もう一度体をお借りするから。そうしたらまたお話出来るわ。それに、見えないだけで、私はすぐ傍にいるのよ? 今日もこの後、捕まえた犯人を尋問する太郎ちゃんを、横で応援してるわ」


 喉を鳴らして、目を弓なりにする。


「例え体がなくなっても、生霊として生きてくつもり。だから、大丈夫よ。また会えるわ」


 生太郎は、言葉が見つからなかった。


 それでも、平然と微笑む八千世に、何か言ってやりたかった。


 咄嗟に、口を開く。




「――無理だよ」




 つと、穏やかな声が割り込んできた。



「生霊は、生きた肉体から飛び出た魂の事を言うんだ」


 夜風が吹き、頭上が陰る。


「肉体が消えてしまえば、取り残された魂は生霊とは言わない」


 橋の欄干に、ふわりと人影が着地した。


「悪霊って言うんだ」


 手に持った扇を閉じ、ゆっくりと、顔を上げる。



「……倉間くらまさん……」



 突如現れた先輩に、生太郎は硬直する。



 八千世は、違う意味で、固まった。



「八千世さんだね」

「っ、は、はい……」

「初めまして。倉間天慈てんじと言います。千登世ちゃんとは、仲良くさせて頂いています」

「ご、ご丁寧に、どうも。妹が、お世話になっています」


 慌てて頭を下げると、八千世は喉を大きく動かした。


「あの、倉間さん……先程の、話は……」

「本当だよ。君は、生霊のまま生きていく事は出来ない」


 ひゅ、と、息を飲む音が響いた。


「かと言って、悪霊になる事もお勧めしない。そもそも悪霊になる為には、相当な無念や心残りを抱える必要がある。それこそ、人を殺せる程の強い気持ちがね。君にそんなものはあるのかな? いや。そうする覚悟は、あるのかな?」


 八千世は、何も答えない。じわじわと、顔を青醒めさせていく。


「で、では……そんなものもなく、覚悟もない人は、一体どうなるんですか……?」

「肉体の停止と共に、魂も天国へと旅立つ」

「……っ!」


 悲鳴染みた音ごと、八千世は手で口を覆った。倉間を見上げたまま、呆然と立ち尽くす。

 生太郎も、呆然と佇んだ。やがて、ぎこちなく八千世の背に手を当て、何も言わずに寄り添った。


 地面に、一つ、二つと水滴が垂れ落ちる。



 息苦しい沈黙が、訪れた。



「……八千世さん。突然こんな事を言ってごめんね。でも、何も知らないままでいるよりはいいと思ったんだ。きちんと分かった上で、限られた時間を大切に過ごして欲しい。大切な人と、大切な一時を過ごして欲しい」

「っ、で、でも……っ」


 俯いたまま、八千世は体を強張らせる。


「私、もうそろそろだって……っ」

「……なら、その中で出来る事、やりたい事を考えてごらん。大丈夫。焦らないで、自分の胸の中を見渡してごらん」


 八千世は、そっと胸に手を置いた。そのまま、静かに呼吸を繰り返す。


 また、沈黙がやってきた。倉間も生太郎も、何も言わない。八千世を急かさないよう、その時がくるのを只管待った。



 そして、月の位置が少し西へ動いた頃。


 八千世の顔が、ゆっくりと持ち上がった。



「あの……一つ、やりたい事を、見つけたんですけど……」



 涙で潤む瞳は、不安で揺れている。


「でも、すぐには、多分無理で、私には、到底似合わないと思うんですけど……」


 どんどん声が小さくなり、八千世の顔も下がっていく。

 そんな彼女に、倉間は優しく頷いてみせた。生太郎も、背中を擦って勇気付ける。


 八千世は、一度唇を噛み締め、大きく息を吸った。



「…………家族に、私の花嫁姿を、見て欲しいんです……傷痕だらけだけど、きっとみっともないだろうけどっ、それでも……っ」



 涙で潰れた言葉は、それ以上音にはならなかった。


 それでも、生太郎と倉間には届いた。



「……そっか。素敵な願いだね」



 倉間は、優しく微笑む。


「うん、分かった。なら僕に任せて」


 扇で自分の胸を叩き、宣言する。



「君を、この世で一番素敵なお嫁さんにしてみせるよ」


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