第十二話


 夜道に、三つの足音が広がる。

 一定の速さで奏でられる旋律に、生太郎しょうたろうは顔を歪めた。裏の仕事をしているだけあり、そこら辺にいる娘より何倍も足が速い。男の自分でさえ追い付けない身のこなしに、悔しさが込み上げる。


「ねぇ、吉瀬きせ君」


 つと、倉間くらまが口を開く。


「彼女は、一体何を考えてるんだと思う?」

「……普通に考えれば、警察の手から逃れようとしているのでしょうけれど」


 ならば、何故仲間である店主を投げ飛ばしたのだろうか。

 あの場で店主の逃走を妨害する必要はなかった筈だ。寧ろ共に逃げた方が、娘も都合がいい筈なのに。

 仮に、千登世ちとせを人質にするにしても、一人より二人の方が動きやすい筈なのに。


 なのに、何故。生太郎は眉を顰める。


「ま、分からないなら、本人に直接聞けばいいだけの話だけどね」

「……そうですね。それが一番手っ取り早い」


 頷き合い、生太郎達は前を行く人影を見据えた。滲む汗を拭い、むぅ太郎ごと帽子を深く被り直す。


 しばらくすると、辺りの様子が変わってきた。ガス灯に照らされるモダンな街並みから、江戸の空気が未だに残る通りへと移る。更には狭い路地を抜けて、民家の建ち並ぶ一帯へ迷い込んだ。


 見覚えのあり過ぎる景色が、生太郎の目に入ってくる。


 嫌な予感がした。



 そしてそれは、的中する。



「っ!?」


 娘が、とある家へと、飛び込んでいった。



 表札には、幸坂こうさか、と書かれている。



「嘘だろ……っ」


 零れた生太郎の焦りは、若い女の悲鳴にかき消された。

 脇を倉間が駆けていく。

 玄関を潜り、居間へ踏み入ると同時に、腰から抜いた扇を一閃した。



 家の中に、何故か、突風が吹き荒れる。



 食器や食べ掛けの夕飯と共に、娘の体は、勢い良く吹き飛んだ。


「皆さんっ、大丈夫ですかっ?」

「く、倉間さぁん……っ」


 居間の隅で蹲っていた千登世は、目に涙を浮かべて頷いた。千登世を抱き締める喜久乃きくのも、二人を背に庇う虎吉とらきちも、怪我はないと答える。


「吉瀬君。君は幸坂さん達の傍に付いていて」

「分かりました」


 倉間は捕縛用の縄を取り出し、倒れた娘の手を縛る。眉間に皺を寄せて、険しい顔で娘を見下ろした。


「ねぇ、生ちゃん」


 喜久乃が、口に手を当てて囁く。


「これは一体どういう事なの?」

「……実は、少し前に捕り物があったんだ。こいつはその関係者なんだが、逃げ出してな。私と倉間さんで追い掛けていたんだ」

「そう。でも、何だってうちに入ってきたのかしら?」

「それは……」


 千登世を人質に取る為。生太郎の頭に、一番可能性の高い理由が浮かんだ。

 だが、それを正直に言うわけにもいかず、眉間に皺を寄せて口ごもる。



 その時。




「――生霊いきりょうですよ」




 つと、響いた低い声。



 この場の視線が、生太郎の隣へと集まる。



「……おじさん……?」



 虎吉は、静かな面持ちで娘を眺めていた。


 そして、溜め息を零すように、呟く。



「そちらのお嬢さんは、生霊に……、取り憑かれていただけです」



 はっと息を飲む音がいくつも上がった。生太郎も目を見開く。


 それらに背を向け、虎吉は、外へと走り出した。



「っ、吉瀬君っ!」


 倉間の声に弾かれ、生太郎も駆けていく。両手を振り、虎吉を追い掛けた。


 一体、何が起こっているんだ。わけの分からない事だらけで、何一つ理解も、解明も出来ていない。

 牛鍋屋の娘の事も、虎吉の事も、生霊に取り憑かれたという発言も、何一つ。


 それでも、生太郎は止まらない。

 流れる汗を吹き飛ばし、上がる息を無視し、只管地面を蹴り続けた。

 どこを走っているのかを考える余裕もない。

 目の前にある背中だけを見据え、進む。


 不意に、虎吉が左へ曲がった。狭い路地へと入り込む。生太郎も続いた。


 野良猫達が、悲鳴を上げて逃げていく。心の中で謝り、反対の道に出た。素早く辺りを見回せば、遠ざかる背中を発見する。生太郎は、すぐさま角を曲がる虎吉を追い掛けた。



 そこで、ふと、気付く。



 ここが、どこなのかを。

 誰の家の近くなのかを。



 先程よりも強く、嫌な予感が背筋をなぞった。



「っ、待てっ!」


 咄嗟に怒鳴るも、虎吉の足は止まらない。生太郎の頭に浮かんでいる家へ、着実に近付いていく。


 生太郎は内心舌打ちを零し、歯を噛み締めた。苦しさを訴える体に鞭を打ち、速度を増した。

 急げ。急げ。生太郎の気持ちに合わせ、激しい足音が辺りに響く。



 だが、そんな願いも虚しく。



 富久住ふくずみ駄菓子店、という看板が、目に飛び込んできてしまった。



 虎吉の体が、看板を掲げた家へと引き寄せられていく。


 生太郎はきつく眉間に皺を寄せると、腰から官棒を引き抜いた。大きく振り被り、前を行く背中目掛けて投げ付ける。




「むぅー」




 官棒は、虎吉へ真っ直ぐぶつかっていく。

 鈍い音と呻き声が、上がった。


 よろめく虎吉に生太郎は飛び掛かる。地面へ引き倒し、腕を後ろに捻り上げた。そのまま捕縛用の縄で縛り上げていく。

 辺りに、生太郎の荒い息が響いた。



 と、不意に、富久住駄菓子店の戸が、開く。



 見れば、可愛えのが立っていた。完成したらしい、蒲公英たんぽぽ色の七宝しっぽう繋ぎの着物を着ている。

 その背後では、ぷぅ助を膝に乗せた可耶かやが、不思議そうに可愛を呼んでいた。


「え、可愛さん、はぁ、はぁ、危ないから、中へ、はぁ、入って……」


 しかし可愛は、静かな面持ちで生太郎を見下ろしたまま、動かない。

 どうしたの? とばかりのむぅ太郎の声にも反応せず、ゆっくりと、唇を動かす。




「大丈夫。こっちだから」




 え、と生太郎が目を見開くと同時に、可愛は踵を返した。



 蒲公英色の七宝繋ぎを靡かせ、駆けていく。



「……っ、くそっ!」


 生太郎は、可愛を追い掛けようと足を踏み出す。だが、すぐさま倒れた虎吉へ目を向けた。一瞬立ち止まり、富久住駄菓子店を振り返る。


「すまない可耶さんっ! 店の前に倒れている男を保護して貰いたいっ! 頼んだぞっ!」


 そう言うや、返事も聞かずに走り出した。可愛の姿はどこにもない。それでも気配を探り、僅かな足音を聞き分け、がむしゃらに足を動かす。


 そうして進んでいくと。




「むぅー」




 目の前に、橋が現れた。

 橋の上には、蒲公英色の七宝繋ぎの着物を着た娘が、佇んでいる。


「可愛さんっ!」


 橋の真ん中で、月明かりを浴びる可愛は、ゆっくりと振り返った。



 途端、生太郎は息を止める。



 反射的にサーベルへ手を掛け、油断なく相手を見据えた。


「……お前は、誰だ?」


 見た目は可愛そのものであるし、着ている着物の柄も、以前生太郎が贈った反物と同じ。母親の可耶も、彼女を可愛と呼んでいた。


 それでも、違うと、生太郎には確信めいたものがあった。



 その証拠に、可愛らしき人物は、嬉しそうに微笑んだ。




「私よ。分からない? ――




 ひゅ、という音が、生太郎の喉から零れ落ちる。


 太郎ちゃん。


 生太郎をそう呼ぶ人物は、この世にたった一人しかいない。



「……嘘だ……」



 そんな事、あり得ない。


 しかし。

 

 あの時、牛鍋屋の娘が店主を投げ飛ばした、あの技。


 生太郎が、護身用にと三人の女に教えたものだ。


 一人は千登世。もう一人は喜久乃。




 そして最後の一人は。




「…………千世ちよ……?」




 無意識に、生太郎は己の左腕を握り締める。



 途端、可愛の顔が、華やいだ。喜びを噛み締めながら、一つ首を縦に揺らす。


 生太郎の喉から、また掠れた音が上がった。



 夜風が、二人の間を通り抜ける。

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