第九話


「ごめんなさい、吉瀬きせさん。お婆ちゃんが我が儘を言ってしまって」


 橙色の空の下で、可愛えのは申し訳なさそうに頭を下げた。病院を出てから、かれこれ三度は同じ台詞を言っている。

 その度に、生太郎しょうたろうも首を何度も横へと振った。


「別に構わない。元々送っていくつもりだったんだ。八千世やちよも世話になった事だし、これ位はさせてくれ」

「でも」

「いいんだ。私が勝手にやっている事なのだから、可愛さんが気にする必要はない」


 そう言われると、可愛は黙り込んだ。胸に抱くむぅ太郎としばし見つめ合い、つと息を吐く。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 小さく頭を下げた可愛に、生太郎は「あぁ」と頷き返した。


「そう言えば、可愛さん。あの誘拐未遂事件以降、何か変わりはあっただろうか?」

「いえ、特には」

「では、怪我が見つかったり、体調不良などは?」

「それも特にはありません。これも八千世さんのお母様と、吉瀬さんのお陰です」

「……いや、私は何もしていない」

「いいえ、そんな事はありません。あの時吉瀬さんが駆け付けて下さったから、私達は捕まる事もなく、無事だったんです。本当にありがとうございます」

「いや……」



 可愛達を助けられたのも、事件にいち早く気付いたのも、自分のお陰などではない。



 生太郎は、左腕を撫でた。

 すると応えるように、何かが撫で返してくる。



 振り向いても、そこには何もいない。



「? どうかされましたか?」

「……いや、何でもない」


 小さく首を振り、生太郎は左腕から手を離した。


「でも、酷い話ですよね。生霊いきりょうに取り憑かれたから誘拐をしただなんて。言い訳をするにしても、もっとましな事は言えなかったんですかね」

「あぁ、全くだな」

「これでは、生霊が可哀そうです」


 可愛は、珍しく眉をつり上げる。


「濡れ衣を着せられて、本当に酷いですよ。ねぇ、むぅ太郎?」


 生太郎は、目を瞬かせる。むぅ太郎と頷き合う可愛を、振り返った。


「……可愛さん」

「はい、何ですか?」

「君は……生霊の存在を、信じているのか?」

「はい。だって、ケサランパサランがいるんですもの。生霊がいたって可笑しくはないでしょう? まぁ、私も生霊にはまだ会った事がありませんから、絶対にそうだとも言い切れないんですけどね。むぅ太郎は?」

「むぅー」

「むぅ太郎も、まだ会った事はないそうです。という事は、少なくともこの辺りにはいないという事ですから、やっぱり生霊事件はただの濡れ衣なんですよ」

「……だが、先日倉間くらまさんがおっしゃっていたぞ。生霊とは、妖怪というよりも幽霊に近い存在だと。だからもしかしたら、妖怪とは違い、目に見えない存在なのかもしれないぞ」

「あぁ、成程。生きた霊で、生霊ですもんね」


 首を何度も縦に振り、すぐさま傾げる。


「うーん。それでも、私は今回の生霊事件と本物の生霊は、関係ないと思いますよ」

「理由は?」

「強いて言えば、基本的に悪い事をするのは人間だけだと、私が思っているからですかね」


 むぅ太郎の真ん丸な体を撫でて、可愛は微笑む。


「少なくとも、私の知っている妖怪は皆さんいい方ばかりですよ。勿論、多少の悪戯はしますし、人間が痛い目を見る時もありますけどね。でも、決して悪意から何かをする事はありません。何か起こったとしたら、それは事故や不運が重なった時か、身を守る時だけです。お母さんもお婆ちゃんもそう言っていました。ですから、例え本当に生霊がいたとして、でも私達の目には見えなかったとしても、誘拐なんてする筈ありませんよ」


 迷いのない言葉と眼差しが、生太郎の胸にすとんと嵌る。自ずと「そうか」と呟いていた。

 可愛も「そうです」と頷いてみせる。


「……因みに、可愛さんの知っている妖怪というのは、沢山いるのだろうか?」

「両手で数え切れない位いますよ。うちにはケサランパサランがいるからか、皆さんご自分の正体をあまり隠さないんですよね。私も物心付いた時から遊んで貰っていたので、それが普通だと思っていたんですよ。でも違うんですよね。妖怪が見えない方は妖怪の存在を否定しますし、妖怪は妖怪で、不用意に知られないよう普段から用心しているんです。人間に紛れて生活されている方は特に」

「……そうなのか」

「はい。で、その反動なのか、自分の正体を知っている相手の前では、遠慮なくありのままの姿をさらけ出すんです。妖怪の力もぽんぽん使うもんですから、鬼ごっこをすれば全然捕まえらないし、かくれんぼをすれば全然見つからないしでもう大変でしたよ」


 頬を膨らませ、いじけた顔を作ってみせる。むぅ太郎も、その通りだ、とばかりに「むぅー」と揺れる。だがどちらの目も、全く怒っていない。


 可愛とむぅ太郎の明るい声が、薄暗い道に静かに響く。ころころと変わる表情に、生太郎の口角も自ずと緩んだ。



「……かくれんぼか。懐かしいな」



 つと、口から零れ落ちた。


「吉瀬さんもやったんですか?」

「幼い頃にな。千世ちよ千登世ちとせに付き合って、何度か」

「千世さん?」

「八千世の事だ」

「あぁ、八千世さんですか」


 可愛は、一つ手を叩く。


「吉瀬さん、千世って呼んでいるんですか?」

「そう呼べと言われたからな」


 生太郎の脳裏に、まだ六つだった頃の思い出が蘇る。


「確か、互いを特別な呼び方で呼び合う親友の話を、読んだか聞いたかしたんだったと思う。それに触発された千世が、私達も特別な呼び方で呼び合おうと言ってな。私を太郎、八千世を千世、千登世をせんと呼ぶ事にしたんだ。所が、千登世はすぐに飽きてしまってな。千と呼ばれても反応せず、私の事もしょうにい、八千世を八千やちねえと呼ぶようになった」


 どうにか特別な呼び方をさせようとする八千世と、聞く耳を持たない千登世に挟まれ、生太郎は途方に暮れたものだった。


「結局は八千世が折れてな。千登世の好きなように呼ばせる事にしたのだが、内心ではがっかりしていたようだった。だから、せめて私だけでもと思い、こうして特別な呼び方で呼んでいるんだ」

「へぇ……仲がいいんですね」


 つと、可愛は地面へ目線を落とす。


「まぁ、物心付いた時からの付き合いだからな。幼馴染というより、最早家族のようなものだ」

「家族、ですか」

「あぁ。どちらも手の掛かる妹分だがな」


 生太郎は深く息を吐き、しかし決して不快ではない様子で帽子を被り直した。歩調も変わらず、淡々と進んでいく。



 と、不意に、横から視線を感じた。



 見れば、可愛が生太郎を見上げている。



「どうしたんだ、可愛さん?」

「あ、いえ……」


 すっと顔を前へ戻し、可愛はむぅ太郎を抱え込んだ。真っ白い毛に顎を置いて、つと、呟く。


「……あの、吉瀬さん」

「何だ?」

「吉瀬さんにとって、千登世ちゃんと八千世さんは、妹分、なんですか?」

「あぁ、そうだ」

「でも、八千世さんとは、その、許嫁、なんですよね?」

「……いや、違うが」

「え? でも、あれ? 私、この前、八千世さんのお母様に」


 またか。

 生太郎は、これでもかと大きな溜め息を吐いた。


「あれは、おばさんが昔から言っている冗談だ」

「じょ、冗談、ですか?」

「あぁ。言っている当人は勿論、言われている私や八千世、聞いていた千登世や私の両親、誰一人として本気にしていない。恒例行事のようなものだ。真に受けない方がいい」


 ……まぁ、真に受けさせる言い方をした喜久乃きくのに、一番の責任があるのだが。


 あの人も懲りないものだ、と生太郎は、もう一つ溜め息を零した。


「兎に角そういう事だから、おばさんの言う事は気にしないでくれ」

「あ、はい。分かりました」


 可愛は頷くと、むぅ太郎を一層抱き締める。苦しい、とばかりの鳴き声が上がった。だが可愛の力は緩まない。真ん丸な体を揉んで、何やら唸っている。


「……可愛さん。どうかしたのか?」

「っ、あ、す、すみません。何でもありません。あはは」


 可愛の顔が、勢い良く上がった。呼吸を止めていたのか、頬を赤らめ盛大に息を吐き出す。どう見ても、何でもないようには思えない。

 だがこういう時、しつこく問い掛けると怒られる事を、生太郎は千登世から学んだ。よって曖昧に頷き、受け流しておく。



「そ、そう言えば、吉瀬さん」



 喉を整えると、可愛は体ごと生太郎を振り返った。


「少し前に、新しく出来た牛鍋屋さんについてお話したんですけど、覚えていますか?」

「あぁ。その牛鍋屋の娘が、先日の誘拐未遂の被害者だったから、よく覚えている」


 ついでに、喜久乃が腹を壊す程食べた店だと、しっかり記憶していた。


「その牛鍋屋のご主人から、先日招待状を頂いたんです。なんでも、お嬢さんを助けてくれたお礼に、牛鍋をご馳走して下さるんだとか。八千世さんのお母様から聞きました」

「……おばさんから?」

「えぇ。牛鍋屋のご主人はどうやら、我が家の場所が分からなかったらしいんですよね。なので仕方なく、八千世さんのお母様に招待状を預けたんだそうです。直接お礼を言いたいから、是非お店の方へきて欲しいともおっしゃっていたそうで」


 ……そう言えば、自分も以前は、中々富久住ふくずみ駄菓子店に辿り付けなかったな、と生太郎は思い出す。

 きっと牛鍋屋の店主夫婦も、生太郎と同じくあの辺りを彷徨ったのだろう。


「で、ですね」


 可愛は、むぅ太郎を抱え直す。


「最初は、お婆ちゃんが退院したら、そのお祝いに行こうかと思ったんですよ。でもいつになるのか分からないし、折角招待して頂いたのに中々行かないというのも、先方に失礼かなと思ったんです。ならお婆ちゃん抜きで行こうか、とも思ったんですけど、そうすると、お婆ちゃんが絶対にいじけます。しばらく恨みがましく言われもします。なので、これも却下です」

「ほ、ほう」

「ならばどうしよう、と色々考えた結果、家族ではなく、私が友達と一緒に行ってくればいいじゃないか、という結論に落ち着きました。それならお婆ちゃんのへそも曲がらないだろうと。よし、これで話は解決だ。早速友達に声を掛けよう。そう思って誘ってみたんです。でも全然相手が見つからないんです。たまたま運が悪かったみたいで、全員から断られてしまいまして。だからと言って、私一人で行くのも、ちょっと」


 まぁ、そうだろうな、と生太郎は頷く。


「そ、そこで、ですね」


 可愛は、徐に咳払いをした。



「もし、よろしければ、なんですけど……わ、私と、一緒に行っては頂けませんかっ?」



 緊張した面持ちで、生太郎を見やる。



「…………え、あ……ん?」


 生太郎は、己の顔を指差す。

 可愛の首が、何度も縦に振られた。


 互いを見つめたまま、足だけを動かし続ける。



 夕暮れの道に、沈黙が流れていった。



「…………も、もしかして、牛鍋は、お嫌いですか?」

「あ……いや、そういうわけでは、ないが」

「で、では、駄目、でしょうか?」


 むぅ太郎を抱く腕に、力が籠る。

 橙色の中で、可愛の瞳は不思議な光を帯びていた。固く結ばれた唇が、小さく震える。


 夕日に照らされた顔には、期待と、不安と、ほんのりとした赤が乗っていた。



 生太郎は、思わず息を飲む。



 しばし可愛を見つめ、気付けば、口を開いていた。


「…………いいのか?」

「も、ももも、勿論ですっ。私からお願いしているんですからっ」


 前のめりで、可愛は大きく頷いた。


 生太郎は、止めていた息を吸い、一つ、瞬きをする。


「……では、お言葉に甘えて」

「っ、はいっ。あ、ありがとうございますっ」


 可愛の顔に、笑みが咲き誇る。むぅ太郎をきつく抱き、真ん丸な体に頬を寄せた。


 むぅ太郎の抗議する声が、辺りに響く。しかし可愛は離さない。緩む口元を真っ白な毛で隠し、むぅ太郎を撫で回している。その姿に、生太郎の口元も、自ずと和らぐ。



 だが、と頭の片隅で、小さな不安が過ぎる。




 二度もただ飯を食いにくるなんてけち臭い男だ、などと思われやしないだろうか、と。




 ……まぁ、了承してしまった手前、どう思われようと行くしかないのだが。生太郎は、人知れず肩を落とした。



 そんな生太郎を慰めるかのように、何かがそっと、左腕を撫でていった。

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