第八話
「――というわけで、評判通り牛鍋はとても美味かった」
「ただ、無料だからと食べ過ぎたのか、おばさんが腹を壊してな。相当苦しいようで、二・三日は寝込む事になりそうだ」
ぼんやりと天井を眺める八千世の顔を、覗き込む。
「おばさんの体調が戻るまで、おじさんも
痛々しい傷痕が縦断する顔には、何の反応もない。
「……そうだ。今日も駄菓子を買ってきたんだ。かりん糖もあるぞ。食べるか?」
生太郎は、新聞紙で作られた紙袋を開ける。中からかりん糖を取り出し、小さく割ってから八千世の唇へ押し当てた。
しかし、開かない。
「……少し、大きかったか?」
割ったかりん糖を更に半分にして、八千世の唇を突く。
「……いらないか。では、塩煎餅はどうだ?
だが、どれも八千世は頬張らない。
生太郎の眉は自ずと下がり、目を伏せた。唇を固く結んで、すぐに緩める。
「あぁ。では、水飴はどうだろうか。
生太郎は、病人用の水差しへ水飴と水を入れる。匙で丁寧に混ぜ合わせ、自分の手の甲へ少し垂らした。味を確認してから、八千世の口元へ水差しを寄せた。
「出来たぞ、
そう言って、八千世の唇へ一滴垂らす。雫は、唇のひび割れへ音もなく吸い込まれていった。
「……どうだ?」
八千世からの返答は、ない。
ただ、薄っすらと口を開けただけ。
生太郎はほっと息を吐き、水差しを傾けてやる。ほんの数滴垂らす度、八千世の喉がゆっくりと上下に動いた。
「こんにちはー、お邪魔しまーす」
不意に、病室の戸が開く。
見れば、
「あらまぁ、
「あぁ、こんにちは多可さん。可愛さんも、こんにちは」
「こんにちは、吉瀬さん」
むぅ太郎とぬぅ左衛門も、挨拶するように鳴き声を上げる。
「吉瀬さんも、八千世さんのお見舞いですか?」
「あぁ。可愛さん達も?」
「はい。それと、八千世さんのお母様に会いに」
可愛は、多可を振り返る。
「さっきお婆ちゃんに話したんです。八千世さんのお母様が、誘拐犯から私を守って下さったって。そうしたら、是非お礼を言いたいって」
「そうなの。身を呈して可愛を助けて下さったって聞いて、私もう感謝の気持ちで一杯になってね」
多可は、八千世へ優しい眼差しを向ける。
「それに、八千世さんとも会ってみたかったの。いつも可愛や
「そうか……わざわざありがとう。こいつも、きっと喜ぶだろう」
帽子の鍔を持ち上げ、頷いてみせる。
「それで、吉瀬さん。八千世さんのお母様は、どちらに?」
「あぁ。それが、二・三日ここへはこれないんだ。その……急な、体調不良で」
流石に、食べ過ぎで腹を壊したとは、情けなくて言えなかった。
「あらまぁ。じゃあ、お礼はまた今度ね」
残念そうに溜め息を吐く多可。可愛も眉を下げるも、すぐさま弧を描いた。
「あ、ならさ。今日はお礼も兼ねて、この部屋のお掃除でもしておこうよ。二・三日こちらへいらっしゃれないのなら、その分埃も溜まっちゃうだろうし」
「あぁ、それがいいわね。じゃあ八千世さんにご挨拶をしたら、早速床でも――」
「あ、お婆ちゃんはやらなくていいよ」
やる気満々な多可を手で制し、首を横へ振った。
「骨折しているんだから、その辺で大人しくしていて」
「大丈夫大丈夫。最近ね、とっても調子がいいから。これ位どうって事わ」
「お婆ちゃんがそう言う時は、大抵何かやらかすじゃない。いいからほら、座って座って。あ、ぬぅ左衛門。お婆ちゃんの事、ちゃんと見張っていてね」
ぬぅ左衛門は「ぬぅん」と揺れるや、真っ白い巨体を多可へと押し付ける。
「あ、ちょっと、何するのよぬぅ左衛門、あ、あぁー」
巨大な毛の塊に半ば飲まれながら、多可はベッド脇まで運ばれてきた。むぅ太郎が引き摺り出した椅子へ、強制的に座らされる。
「吉瀬さん、吉瀬さん。助けてー」
「吉瀬さん、気にしなくていいですからね。こういう憐れな老人みたいな顔をしている時は、大抵下心がありますから」
「可愛ったら酷い。お婆ちゃんはただ、孫を助けて下さった方に恩返ししたいだけなのに」
「自分の事をお婆ちゃんって言い始めたら、いよいよ油断なりませんからね。甘い顔をしちゃいけませんよ、吉瀬さん」
そう言って、可愛は八千世の顔を覗き込む。
「八千世さんこんにちは。可愛です。少しお掃除させて貰いますね。それと、今日はお婆ちゃんも連れてきました。お喋りが好きな人ですから、きっと色んな話をしてくれますよ」
吉瀬さんと一緒に是非楽しんで下さい、と微笑み、可愛は掃除道具を取りに行った。
そんな孫の後ろ姿を、背後をぬぅ左衛門、膝をむぅ太郎に押さえられた多可は、頬を膨らませて睨んだ。
「あーそう。あーそうなの。分かったわよ。そこまで言うなら、私は八千世さんと吉瀬さんと三人で、楽しく談笑でもしてますよ。あのね八千世さん吉瀬さん、聞いて。可愛ったらね、この前誘拐犯から逃げていた時、吉瀬さんが颯爽と助けにきてくれたって、そりゃあもうでれでれに顔を蕩けさせて」
「ちょっ、な、何言ってるのお婆ちゃんっ!」
可愛は箒片手に、勢い良く駆け込んできた。
「何って、可愛が言っていた事をそのままお話しているだけよ。何だったかしら。『これが西洋のお伽話に出てくる、白馬の王子様という奴なのね』、だったかしら?」
「いやあぁぁぁぁぁーっ! 止めてえぇぇぇぇぇーっ!」
飛び掛かるように多可の口を塞いだ可愛。二人揃ってぬぅ左衛門の毛に埋もれ、悲鳴や呻き声を上げている。
一気に騒がしくなった病室に、生太郎はぽかんと口を開けた。
次いで小さく苦笑し、八千世の唇へ、ぽたりと雫を一つ垂らす。
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