第八話


「――というわけで、評判通り牛鍋はとても美味かった」


 八千世やちよの病室に、生太郎しょうたろうの声が静かに響く。


「ただ、無料だからと食べ過ぎたのか、おばさんが腹を壊してな。相当苦しいようで、二・三日は寝込む事になりそうだ」


 ぼんやりと天井を眺める八千世の顔を、覗き込む。


「おばさんの体調が戻るまで、おじさんも千登世ちとせも出来る限りここへ顔を出すと言っていた。私もそのつもりだ。だから、少しの間我慢してくれ」



 痛々しい傷痕が縦断する顔には、何の反応もない。



「……そうだ。今日も駄菓子を買ってきたんだ。かりん糖もあるぞ。食べるか?」


 生太郎は、新聞紙で作られた紙袋を開ける。中からかりん糖を取り出し、小さく割ってから八千世の唇へ押し当てた。


 しかし、開かない。


「……少し、大きかったか?」


 割ったかりん糖を更に半分にして、八千世の唇を突く。


「……いらないか。では、塩煎餅はどうだ? 天生てんせいが好んでよく食べているんだ。太一たいちの好きなぼーろもあるぞ。それから、麦こがしと、金平糖と、芋けんぴと」



 だが、どれも八千世は頬張らない。



 生太郎の眉は自ずと下がり、目を伏せた。唇を固く結んで、すぐに緩める。


「あぁ。では、水飴はどうだろうか。珠子たまこさんから教えて頂いたんだが、どうやら水飴を水や湯で溶かして飲むと美味いらしいぞ。作ってやるから、少し待っていろ」


 生太郎は、病人用の水差しへ水飴と水を入れる。匙で丁寧に混ぜ合わせ、自分の手の甲へ少し垂らした。味を確認してから、八千世の口元へ水差しを寄せた。


「出来たぞ、千代ちよ。珠子さんの言う通り、中々美味いと思う。お前も飲んでみろ」


 そう言って、八千世の唇へ一滴垂らす。雫は、唇のひび割れへ音もなく吸い込まれていった。


「……どうだ?」



 八千世からの返答は、ない。



 ただ、薄っすらと口を開けただけ。



 生太郎はほっと息を吐き、水差しを傾けてやる。ほんの数滴垂らす度、八千世の喉がゆっくりと上下に動いた。



「こんにちはー、お邪魔しまーす」



 不意に、病室の戸が開く。


 見れば、可愛えのと松葉杖を付く多可たかがいた。その後ろには、むぅ太郎を乗せたぬぅ左衛門もいる。


「あらまぁ、吉瀬きせさんじゃない。こんにちは」

「あぁ、こんにちは多可さん。可愛さんも、こんにちは」

「こんにちは、吉瀬さん」


 むぅ太郎とぬぅ左衛門も、挨拶するように鳴き声を上げる。


「吉瀬さんも、八千世さんのお見舞いですか?」

「あぁ。可愛さん達も?」

「はい。それと、八千世さんのお母様に会いに」


 可愛は、多可を振り返る。


「さっきお婆ちゃんに話したんです。八千世さんのお母様が、誘拐犯から私を守って下さったって。そうしたら、是非お礼を言いたいって」

「そうなの。身を呈して可愛を助けて下さったって聞いて、私もう感謝の気持ちで一杯になってね」


 多可は、八千世へ優しい眼差しを向ける。


「それに、八千世さんとも会ってみたかったの。いつも可愛や千登世ちとせちゃんが話してくれるから、どんな子なのかしらってずーっと気になっていてね。こうして押し掛けてきちゃったわ」

「そうか……わざわざありがとう。こいつも、きっと喜ぶだろう」


 帽子の鍔を持ち上げ、頷いてみせる。


「それで、吉瀬さん。八千世さんのお母様は、どちらに?」

「あぁ。それが、二・三日ここへはこれないんだ。その……急な、体調不良で」


 流石に、食べ過ぎで腹を壊したとは、情けなくて言えなかった。


「あらまぁ。じゃあ、お礼はまた今度ね」


 残念そうに溜め息を吐く多可。可愛も眉を下げるも、すぐさま弧を描いた。


「あ、ならさ。今日はお礼も兼ねて、この部屋のお掃除でもしておこうよ。二・三日こちらへいらっしゃれないのなら、その分埃も溜まっちゃうだろうし」

「あぁ、それがいいわね。じゃあ八千世さんにご挨拶をしたら、早速床でも――」

「あ、お婆ちゃんはやらなくていいよ」


 やる気満々な多可を手で制し、首を横へ振った。


「骨折しているんだから、その辺で大人しくしていて」

「大丈夫大丈夫。最近ね、とっても調子がいいから。これ位どうって事わ」

「お婆ちゃんがそう言う時は、大抵何かやらかすじゃない。いいからほら、座って座って。あ、ぬぅ左衛門。お婆ちゃんの事、ちゃんと見張っていてね」


 ぬぅ左衛門は「ぬぅん」と揺れるや、真っ白い巨体を多可へと押し付ける。


「あ、ちょっと、何するのよぬぅ左衛門、あ、あぁー」


 巨大な毛の塊に半ば飲まれながら、多可はベッド脇まで運ばれてきた。むぅ太郎が引き摺り出した椅子へ、強制的に座らされる。


「吉瀬さん、吉瀬さん。助けてー」

「吉瀬さん、気にしなくていいですからね。こういう憐れな老人みたいな顔をしている時は、大抵下心がありますから」

「可愛ったら酷い。お婆ちゃんはただ、孫を助けて下さった方に恩返ししたいだけなのに」

「自分の事をお婆ちゃんって言い始めたら、いよいよ油断なりませんからね。甘い顔をしちゃいけませんよ、吉瀬さん」


 そう言って、可愛は八千世の顔を覗き込む。


「八千世さんこんにちは。可愛です。少しお掃除させて貰いますね。それと、今日はお婆ちゃんも連れてきました。お喋りが好きな人ですから、きっと色んな話をしてくれますよ」


 吉瀬さんと一緒に是非楽しんで下さい、と微笑み、可愛は掃除道具を取りに行った。


 そんな孫の後ろ姿を、背後をぬぅ左衛門、膝をむぅ太郎に押さえられた多可は、頬を膨らませて睨んだ。


「あーそう。あーそうなの。分かったわよ。そこまで言うなら、私は八千世さんと吉瀬さんと三人で、楽しく談笑でもしてますよ。あのね八千世さん吉瀬さん、聞いて。可愛ったらね、この前誘拐犯から逃げていた時、吉瀬さんが颯爽と助けにきてくれたって、そりゃあもうでれでれに顔を蕩けさせて」

「ちょっ、な、何言ってるのお婆ちゃんっ!」


 可愛は箒片手に、勢い良く駆け込んできた。


「何って、可愛が言っていた事をそのままお話しているだけよ。何だったかしら。『これが西洋のお伽話に出てくる、白馬の王子様という奴なのね』、だったかしら?」

「いやあぁぁぁぁぁーっ! 止めてえぇぇぇぇぇーっ!」


 飛び掛かるように多可の口を塞いだ可愛。二人揃ってぬぅ左衛門の毛に埋もれ、悲鳴や呻き声を上げている。


 一気に騒がしくなった病室に、生太郎はぽかんと口を開けた。


 次いで小さく苦笑し、八千世の唇へ、ぽたりと雫を一つ垂らす。


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