第七話


 生太郎しょうたろうは箸を置き、ゆらりと立ち上がった。素早く身を翻した大貫おおぬきの襟首を、鷲掴む。そして自身の席に引き摺り込むと、喜久乃きくの虎吉とらきちへ背を向けた。


「こ、これは、吉瀬きせの旦那。こんばんは。こんな所で奇遇ですねぇ、あはは」

「……お前、こんな所で何をしているんだ」


 声を潜め、大貫の首へ腕を回す。


「な、何って、夕飯ですよ。牛鍋屋なんですから、夕飯を食べにきたに決まっているでしょう」

「ほう、夕飯ね」

「そ、そうですよ。何か問題でも? あたしがどこで何を食べようと、構わないじゃありませんか」

「確かにそうだな。だが、店の客と顔見知りになる程この店に通っている理由は、非常に気になる。新聞記者という職業がそこまで儲かるものだと、私は知らなかったのでな」

「そ、それは」

「それは、私の顔を見て逃げようとした事と、何か関係があるのか?」


 大貫は、う、やら、えっと、やらとまごつき始める。



「……もしやとは思うが、お前、生霊は本当に存在する、などと酔っ払い相手に嘯いているんじゃないだろうな」



 大貫の体が、びくりと跳ねた。


 米神から、冷や汗が滲み出る。



「……やったんだな」

「い……いや、その……」

「正直に言え。でなければ、今すぐ倉間くらまさんの元へ連れていくぞ」

「そ、それだけは勘弁して下さいっ。どうかっ、どうかこの通りですっ」


 大貫は両手を合わせ、必死で拝む。

 ならばやらなければいいだろうに。生太郎は、大貫と会う度に思っている事を、本日も思う。


「いや、そのですね? まず、あたしが何故ここにきているのかと言いますと、仕事の為なんですよ」


 大貫は口元に手を当て、声を抑える。


「ほら、ここは今、銀座で一番話題の店じゃないですか。当然客も大勢きます。人の出入りが多ければ多い程、その分噂話や面白いネタも集まるものです。つまりあたしは、安くない飯代を払ってまで情報収集に勤しんでいるんですよ。全ては世間の皆様に、より楽しんで頂ける記事を提供する為ですな」


 大げさに頷き、更に声の音量を落とした。


「で、ですね。その一環として、店にきた客と仲良くしてるんですよ。そうして酒でも飲みながら談笑すれば、そりゃあもう色んな話が聞けるんです。どこそこのお嬢さんが生霊に見染められたとか、あの辺りの生霊はすぐ警察に捕まるとか。後は、正義の味方と名高い生霊の話も、ぽつぽつ聞こえてきているかなぁ」


 二・三首を揺らすと、徐に目を逸らす。


「それで、その、そういう話を集めたい時は、あたしの方でそういう方向に話を持っていくようにするんですけど、その時に、ですね。そのぉ……あたしが一番最初に見た、あの金貸しの婆さんが襲われた時の話を、ちょーっとばかしするんですよ。そうすると、大抵の人は珍しがって、話を聞かせてくれって、言ってくれましてね。それで、そこから情報収集を開始する感じで……」


 へらりと笑う大貫に、生太郎の眉間は深い皺を刻んだ。


「で、でも、あれですよ? あたしは生霊を信じているけど、巡査の旦那達には、そんなものいるわけがないと言われてしまった、という事は、ちゃーんと伝えてありますからね?」

「……人の話を聞いているかも怪しい酔っ払い相手にか?」

「あ、え、えーっと、まぁ、そう、ですねぇ」


「えっ、本当ですかっ?」



 つと、素っ頓狂な声が聞こえてくる。

 店主の娘が、斜向かいの席で目を丸くしていた。



「本当本当。だってこの前、大貫さんが言ってたもんな?」

「そうそう。『巡査の旦那達は生霊なんかいないって信じていますけど、そんな事はありません。生霊は実在するんです』ってね」

「だから、美代みよちゃんが会った奴らも、もしかしたら本当に生霊に取り憑かれてたのかもしれねぇぞ?」

「そうだよ。なんせ、新聞の一面を飾るような記者が言ってたんだからさぁ」


 そんな好奇心と冗談の入り混じった会話が、気負いもなく、楽しげに交わされる。



 対して、生太郎と大貫の間には、冷たい空気が流れていた。



 生太郎が、ゆっくりと大貫を振り返る。大貫は決して目を合わせようとはしない。


 だが無言の圧力に耐え切れなかったのか、引き攣った顔を、そーっと生太郎へと向けた。



 そして、えへへ、と頭を掻いてみせる。



 ごちん、という痛々しい音と大貫の悲鳴が、店内の賑わいにかき消された。



 生太郎は深い溜め息を吐き、立ち上がる。蹲る大貫の襟首を引っ張り、店の入り口へと向かった。


「おじさん、おばさん。すまないが、少し出掛けてくる」

「あら、どうしたの生ちゃん?」

「ちょっと派出所まで行ってくる。すぐに戻るから、それまでここで待っていてくれ」

「えっ、ちょ、旦那っ、待っ、ぐえっ」


 問答無用で大貫を引き摺っていく生太郎。周りの客も従業員も、何事かと振り返った。


「き、吉瀬の旦那っ、約束が違うじゃありませんかっ。正直に話したんですから、倉間の旦那にはどうかご内密にっ」

「なにが内密にだっ。出来るわけないだろうっ」

「そこをなんとかっ、お願いしますっ。どうかこの通り、って、ちょ、聞いてます旦那っ。ちょっとっ、もしもーしっ!」

「きゃ……っ」


 大貫が暴れた拍子に、すれ違おうとした小奇麗な女とぶつかってしまった。

 よろけた女の手から、手紙が零れ落ちる。


「あぁ、すまない」


 生太郎は、手紙を拾おうと身を屈めた。



 だが、生太郎が触る前に、素早く横から掻っ攫われる。



「い、いえっ、大丈夫です」


 小奇麗な女は会釈をすると、手紙を抱き締め、そそくさと離れていった。店の奥、丁度階段がある方へと向かっていく。


「あ、お、お姉さーんっ。ぶつかってしまってすみませんねーっ。お詫びに、今度ここの牛鍋でも奢りますから、ぐえぇっ」

「……お前、まだこの店にくるつもりなのか」

「べ、別に、いいじゃありませんかっ。あたしがどこで何を食べようと、あたしの勝手でしょうっ」

「倉間さんに叱られた後でも、同じ事を言えるのか?」


 大貫は、押し黙った。じわじわ顔を青くして、かと思えば、どうにか逃げようとまた暴れ出す。だが、新聞記者が巡査に勝てるわけがない。

 生太郎は大貫の抵抗をものともせず、店の戸を開け、外へと出た。



「では、お二階へどうぞー」



 そんな店主の声を背に、派出所へ向かい歩き出す。

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