第六話


「この度は、誠にありがとうございました」


 賑やかな牛鍋屋の一角で、牛鍋屋の店主夫婦と娘、そして娘と恋仲である従業員が、揃って頭を下げた。


「いえいえ、本当に気にしないで下さいよ。私は当然の事をしただけなんですから」

「ですが、そのお陰でこうして娘は無事だったんです。うちの従業員も、大した怪我もなく帰ってきてくれました。それがどれだけ嬉しかった事か……っ」


 店主は目頭を押さえ、唇を噛み締めた。店主の背を撫でる女将の目にも、涙が浮かんでいる。


「っ、申し訳ありません。情けない姿をお見せしてしまって」

「いいんですよ。うちも娘がいますから。気持ちはよく分かります。ねぇ、お父さん?」


 虎吉とらきちは「あぁ」と頷き、微笑んだ。

 店主達はもう一度頭を下げ、礼を言う。



「では、早速牛鍋をご用意させて致します。本日は、どうぞ心行くまで楽しんでいって下さい」



 店主達が一旦下がると、すぐさま鍋と材料を持って女将が戻ってきた。牛脂を溶かしてから、ねぎと牛肉を手早く焼いていく。


「はぁー、いい匂い」


 喜久乃きくのは、うっとりと溜め息を零す。


「とっても美味しそうねぇ、生ちゃん?」

「……あぁ。何と言うか……凄いな」


 見ているだけで涎が込み上げてきて、生太郎しょうたろうは思わず口元を指で拭った。虎吉も、鍋を凝視したまま、無言で喉を上下させる。


「ありがとうございます。うちの牛鍋は、主人が厳選した牛肉を分厚く切ってお出ししているんです。肉が美味しいのは勿論、肉の旨味を吸った野菜もまた格別なんですよ」

「はぁー、説明だけでもう美味しいわ。千登世ちとせもくればよかったのに」

「そう言えば、今日は娘さんはいらっしゃらないんですね?」

「えぇ。あの子ったら、別の方とここへ行く約束をしてるから、私達とは行かないって言いましてねぇ」

「あら、そうなんですか。相手の方は男性で?」

「えぇ。娘が惚れ抜いてる方です。相手の方も、憎からず思ってくれてるようで」

「まぁ。という事は、ここへはもしかして逢い引きに?」

「一応下見という事になってるようですけど、本音としてはそういう事でしょうね」

「あらまぁっ」


 女将は口に手を当て、目を輝かせた。


 女二人の楽しそうな声が、止めどなく飛び交う。その速さは、千登世の相手が倉間くらまと分かると、更に増していった。

 対する生太郎と虎吉は、非常に居心地が悪い。何とも言えぬ気持ちで、只管黙り込んでいる。


「羨ましいわぁ、天狗の旦那に見染められるだなんて。きっと幸せにして貰えるでしょうねぇ」

「やだ女将さんったら。まだ婚約もしてないのに、もう家庭の話ですか?」

「あらいけない。私ったら気が早くって」


 うふふ、と微笑み、甘辛い汁を鍋へと入れた。じゅう、という音と煙が広がる。


「このまま煮えるまで少々お待ち下さい。頃合いを見て、他のお野菜や追加の牛肉をお持ちしますね」


 女将は一つ頭を下げて、厨房へ戻っていく。千登世の話もひと段落し、生太郎と虎吉はほっと胸を撫で下ろした。


「話の上手な女将さんだったわねぇ。ついつい倉間さんの事まで喋っちゃったわ」

「……そういう事は、あまり言いふらさない方がいいのではないか? 今はいいかもしれないが、もし何かあって二人の関係が壊れた時、困るのは千登世だぞ?」

「何かって、何よ?」

「それは……例えば、千登世が心変わりをする、とか」

「すると思う?」


 ……まぁ、ないとは思うが。生太郎の頭の中に、幸せそうな千登世の顔が浮かび上がる。


「だが、絶対にないとは言えないだろう。未来は誰にも分からないのだから」

「……そうねぇ。少し位分かってたら、よかったんだけどねぇ」



 煮立つ鍋の中を見つめたまま、ぽつりと呟く。



 つと、無言が流れた。周りでは、沢山の客が牛鍋に舌鼓を打っている。陽気な笑い声や、酔っ払って絡む声、追加の注文を頼む声が、其処彼処から上がった。



「……なぁ、もういいんじゃねぇか?」



 虎吉は、鍋の中を覗き込み、それから喜久乃を窺う。いつもよりも明るい声で、笑みで、箸を握り締めた。


 喜久乃はふと微笑み、同じく箸を手に持つ。


「どうかしらねぇ、どれどれ」


 箸で牛肉とねぎを突く。


「うん、大丈夫じゃないかしら」

「よし。んじゃあ、早速」


 虎吉は牛肉を掴み、卵に潜らせてから頬張った。


「んっ、はふっ、んんっ、んぐっ。かぁーっ、うんめぇっ」

「ん、本当。熱いけど、ん、美味し」


 口から湯気を出し、虎吉も喜久乃も目に弧を描く。生太郎も、只管牛肉をかっ食らった。


「しっかし美味ぇなぁ。今まで食った牛鍋の中で一番美味ぇかもしれねぇ。やっぱ肉がぶ厚いと違うのかねぇ?」

「あ、ちょっとお父さん。お肉ばっかり食べないでよ。ほら、ちゃんとおねぎも食べて。生ちゃんも、はい」


 ぽいぽいと皿にねぎを放り込み、自分は牛肉を確保する喜久乃。若干納得いかないような気もするが、こうして美味い飯にあり付けたのも、元はと言えば喜久乃のお陰である。

 だから、一番美味い所を喜久乃に譲るのは至極当然である、と自分に言い聞かせ、生太郎はねぎを口へ押し込んだ。


 ……これはこれで、中々美味い。肉の旨味が染み込んだねぎを、ゆっくりと噛み締めた。



「では、お二階へどうぞー」



 聞こえた声に、生太郎は振り返る。

 見れば、懐へ手紙らしきものを仕舞った店主が、身なりのいい男を階段の上へ案内している。


 二階にも席があるのか、と生太郎は辺りを見回した。確かに、一階はもう満席のようだ。店内を区切る衝立から、沢山の頭が飛び出ている。噂通り、中々繁盛しているらしい。



「――聞いたよ、美代みよちゃん。生霊いきりょうに出くわしたんだって?」



 斜向かいの席で、酔っ払った男が店主の娘に声を掛けていた。男の連れも、牛鍋を作る娘を心配そうに見やる。


「しかも、誘拐されそうになったって話じゃねぇか。大丈夫だったのか?」

「はい、私は大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。でも、誘拐しようとしたのは、生霊じゃありませんよ?」

「え? そうなの?」


 男の連れは、目を瞬かせる。


「はい。生霊のふりをした、ただの人間です。警察の方がそうおっしゃっていました」

「はぁー、そうかい。俺はてっきり、美代ちゃんが生霊に襲われたのかと」

「やだ、違いますよぉ。大体、生霊に恨まれる心当たりがないんですから。襲われるわけありませんって」


 違いねぇ、大口を開けて笑い、熱燗を傾ける。


「でも、そうかぁ。生霊のふりした人間かぁ」


 酔っ払いは、酒臭い息を吐き出した。


「最近そういうの多いらしいなぁ」

「昨日も、生霊に取り憑かれたーなんて言い訳する泥棒が、神田かんだの方で捕まったらしいね。新聞に書いてあった」

「ま、そう言いたくなる気持ちも分かるっちゃー分かるなぁ。なんせ、生霊のせいにしとけば罪が軽くなる、なーんて話もある位だしなぁ」

「え、そうなんですか?」


 菜箸を止めて、娘は目を丸くする。


 生太郎も、眉を顰めた。


「いや、嘘か本当かは分からねぇんだけどさぁ。そういう話を小耳に挟んだんだよ。だから、もし金が欲しくなったら、生霊に取り憑かれたふりでもしとけばいいんだなーって思ってよぉ」

「え、なにお前。まさか生霊のふりして、何かやらかすつもりぃ?」


 男の連れは、怪訝な顔を作りながらも、口は大いに笑っている。


「馬ぁ鹿野郎。そんなわけねぇだろうが。ただちょーっとばかり閃いちまっただけだっつーの。俺だけじゃねぇ。誰だって一度は考えた事あるだろぉ? 生霊で見逃して貰えるんなら、一回位やってみようかなぁーってさぁ。あ、でもあれよ? 考えるだけで、本当にやるわけじゃねぇから。大丈夫大丈夫」


 そう言って大声で笑う酔っ払い。男の連れも娘も、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばした。



 ……なにが『一回位やってみようかな』だ。

 生太郎は眉間に皺を寄せ、酔っ払いを睨み付ける。こういう無責任な奴がいるから、生霊のふりをする人間が後を絶たないんだ。



「あら、どうしたの生ちゃん。そんな不機嫌な顔して」

「……何でもない」


「もしかして、最後のお肉食べちゃった事、怒ってる?」



 ……最後の肉? 生太郎は、はっと鍋へ視線を向けた。



 いつの間にか、ねぎしか残っていない。



「ごめんねぇ生ちゃん。でもほら。こういうのは早い者勝ちだから。ぼんやりしてると、あっという間になくなっちゃうものだから」

「そうだぞ生ちゃん。男がぐちぐち言うもんじゃねぇ。ほら、ねぎだって美味いんだからたんと食えよ」

「そうよ。それに女将さんが、頃合いを見てお代わりを持ってきてくれるって言ってたし」


 すると、丁度女将が追加の肉と野菜を持って現れる。


「あ、ほらほら。きたわよ生ちゃん。よかったわねぇ」

「……分かったから、少し静かにしてくれ。恥ずかしいだろう」

「もう、なによ。さっきまでお肉食べられて拗ねてた癖に」

「拗ねてなどいない」

「はいはい、そうねぇ」


 適当に流され、生太郎はむっと眉間に皺を寄せる。女将はくすりと微笑むと、つと顔を店の入り口へと向けた。


「あ、いらっしゃいませー」


 女将は生太郎達に頭を下げると、素早く客を出迎える。


「一名様ですか? 大変申し訳ございません。ただ今満席となっておりまして、こちらで少々お待ち頂く事になりますが」


 どうやら満席の店内に、客は足止めを食らったらしい。まぁこの繁盛だ。そういう事もあるだろう。

 運が悪かったな、と内心同情しつつ、生太郎は追加された牛肉へ箸を伸ばした。




「あれ、大貫おおぬきさん? 大貫さんじゃねぇかっ」




 聞き覚えのある名前に、生太郎の箸はぴたりと止まる。




「あ、本当だ。大貫さんだ。こんばんは」

「これは高田たかださんに上原うえはらさん。こんばんは。お二人は今日もこちらで夕飯ですか?」

「それを言うなら大貫さんもでしょ」



 慣れた様子で、聞き覚えのある声も、聞こえてきた。



「そうだ、大貫さん。よかったら俺らの席にこねぇか?」

「おや、いいんですか?」

「いいよいいよ、そんでこの前の続きを聞かせてくれよ。ほら、生霊に取り憑かれた男の犯行現場に遭遇したって言ってたじゃねぇか」

「あぁ、それはいい。酒のつまみには持ってこいだね」



 生太郎は、ゆっくりと、入口を振り返る。



「じゃあ、お言葉に甘えて失礼します」


 入口の傍に立つ男は、そう言って頭を下げた。ずれたハンチング帽を軽く直し、斜向かいの酔っ払い達へと近付いてくる。




 と、不意に、生太郎と目が合った。




 途端、通路の真ん中で、ハンチング帽の男――新聞記者の大貫は、ぴしりと硬直する。


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