第五話



「それもこれも、私の日頃の行いが良かったからだねぇ。うんうん」



 三日後。

 幸坂こうさか家を訪れた生太郎しょうたろうを待っていたのは、そんな言葉だった。


「あの時、たまたま行き合った可愛えのちゃんに一緒に帰ろうって言ったのも、きっと神様の思し召しだったんだよ。もしあのまま見送ってたら、今頃可愛ちゃん達はどうなってた事か。はぁー、本当に良かったわぁ」


 茶を啜りながらしみじみと語る喜久乃きくのに、生太郎は気の抜けた相槌を零す。誘拐未遂事件に巻き込まれ、多少は気落ちしているかと心配していたが、全くもってそんな様子は見受けられない。

 隣に座る千登世ちとせも、せんべい片手にじろりと母を睨む。


「なにが良かったよ。いくら神様が助けてくれたって言っても、怪我をする時はするんだからね。もう。こんな無茶、二度としないでよ?」

「うーん、でもねぇ。あんたや八千世やちよと同じ年頃の娘さんが、目の前で誘拐されそうになってたんだよ? そりゃあ体も勝手に動くってもんでしょ」

「だからって、なにも相手に立ち向かわなくたっていいじゃない。今回はたまたま勝てたから良かったけど、次はそうとは限らないでしょ? というか、絶対勝てないわよ。寧ろなんで今回勝てたのか分からないわ。どう考えてもお母さんが負ける筈なのに」

「だから、言ったでしょ? 私の日頃の行いの賜物だって」


 いや、それは違う。

 生太郎は、真ん丸な毛玉を思い出しつつ、呆れの一瞥を送った。



「しかも、牛鍋屋の招待状まで貰っちゃってさ。本当、日頃の行いって大事ねぇ」



 含み笑いを零す喜久乃。千登世は溜め息を吐いて、生太郎の傍へ身を寄せる。


「なんかね、お母さんが助けた娘さんっていうのが、牛鍋屋のお嬢さんだったらしいの。ほら、今話題の牛鍋屋さんあるでしょ? 新しく出来たばかりの。あそこ」


 生太郎も、娘の素性は知っていた。

 あの日は、恋仲である店の従業員と出掛けていたらしい。帰り道で誘拐犯に襲われ、従業員がどうにか娘を守っていた所に、たまたま可愛達が出くわし、事なきを得たのだという。


「それでね、昨日、あちらのご両親が挨拶にきて下さったの。その時に、お礼に牛鍋をご馳走させて欲しいって言って、一筆したためてくれたのよ。是非ご家族でいらっしゃって下さいって、何度も丁寧に頭を下げてくれてね」


 成程、と生太郎は内心頷く。



「ねぇ生ちゃん」



 喜久乃は、湯呑みをちゃぶ台へ置いた。


「私達、早速今夜にでも牛鍋を食べに行こうと思ってるんだけど、良かったら生ちゃんも行かない?」

「……私も?」

「そう。生ちゃんだって私達を助けてくれたわけだし、折角だからきちゃいなさいよ」

「いや、しかし」

「お父さんと二人だけじゃあ寂しいもの。ね、お願い」



 ……二人? 生太郎は、千登世を振り返る。



「あ、私は行かないの。だから、代わりにしょうにいが行ってきてよ」

「この子ったらね、倉間くらまさんと一緒に行く約束をしてるんですって。だから私達とは行かないって言うのよ?」


 生太郎の目が、勢い良く見開かれる。何故、という言葉が出てこず、唇を戦慄かせた。


「んー、なんかねぇ? 珠子たまこさんが言ってたんですって。子供が生まれたら、新しく出来た牛鍋屋さんに家族で行くんだって。でね、それを聞いた倉間さんは、だったら自分が下見をしてこようって思ったらしいの。でも一人じゃあ寂しいから、良かったら私も一緒にどうかって、誘って下さってぇ。んふ。それで、今度行こうって話になったのぉ」

「でもね。実は珠子さんの事は建て前で、本当は、千登世と一緒に出掛けたかっただけなんですって」

「やだもうお母さんったらぁ。それは秘密だって言ったじゃなぁい」


 ぺちんと喜久乃を叩く千登世。だがその顔は赤く染まるだけで、特に嫌悪は見られない。喜久乃も悪びれる様子もなく、笑顔で謝っている。



 はしゃぐ女二人の間で、生太郎だけが呆然と座り込んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る