第二話


 被害者は、五十代の女だった。銭湯から帰る途中、見知らぬ男に追い掛けられたらしい。

 虚ろな目の男から必死に逃げたものの、途中で転び、捕まってしまう。女は殺されると思った。どうか命だけは、と泣きながら乞うていると、たまたま現場を目撃した新聞記者の悲鳴が、辺りに響き渡る。


 途端、男の目が、正常に戻った。慌てて女から退くと、不思議そうに辺りを見回し、こう言った。



「『なんで俺は、あんたに跨ってたんだ?』……ってね」



 ハンチング帽を被った男は、かぁーと唸り声を上げ、腕を組む。


「いやぁ、本当に驚きました。まさか生霊が実在するだなんて。今まで面白可笑しく妖怪を使わせて貰ってきましたが、いやぁ、これはちょっと改めないといけませんねぇ。機嫌を損ねて襲われでもしたら大変だ」


 あっはっはと大げさに笑うのは、顔面蒼白で派出所に飛び込んできた、大貫おおぬきという新聞記者である。


「これからは神様の如く崇めつつ、あたしの生活の為、ほんのちょっとだけ名前をお借りする事にしましょう。うん、それがいい」

「なぁーにが、それがいい、だ」


 いわいは、呆れの息を吐く。


「そんな事言いながら、どうせ明日には面白可笑しく書き記した新聞錦絵を売り出すんだろぉ?」

「そんな事しませんよ、祝の旦那。心外だなぁ。まぁ、生霊に取り憑かれた男については書きますけどね。こんなネタ、むざむざ放っておくわけにはいきません。それに上手くいけば、新聞錦絵だけじゃなく、小新聞にもあたしの記事を載せて貰えるかもしれませんし」


 歯をむき出してにんまり笑う大貫に、祝はもう一つ息を吐いた。


「……それで、大貫」


 生太郎しょうたろうは、腕を組んで大貫を見下ろした。


「お前、何故自分だけ逃げたんだ。何故助けてやらなかった。お前も男ならば、か弱い女性を守ってやろうとは思わないのか」

「無茶言わないで下さいよ吉瀬きせの旦那。ほら、見て下さい。あたしのこの腕を。筆ばかり持っているお陰でたるんたるんでしょう? 腹だって、さっき食べたもんでこの通りぽんぽんです。こんなんじゃあ、飛び掛かった所で返り討ちに合うだけだ。自分の命を掛けてまで他人を守ろうなんて気概、あたしにはとてもとても」

「だが相手の男は、お前の悲鳴が聞こえた直後、正気に戻ったという話ではないか」

「でも、いつまた豹変するとも限らないじゃありませんか。あたしはもう兎に角驚いて、一刻も早く助けを呼ばなければとここまで走ってきたんです。そうですよ。あたしは非力ながらも、他人の為に必死で旦那達に知らせたじゃありませんか。つまりは、回り回ってあたしが助けたと言っても過言じゃあない。そうは思いませんか、吉瀬の旦那?」


 自信満々にそう言ってのける大貫。

 生太郎の眉間に、一層深い皺が寄った。


「あ、そんな怖い顔しないで下さいよぅ、吉瀬の旦那。冗談ですよ冗談。あたしは自分の身可愛さに他人を見捨てた、最低な野郎ですよ。分かってます分かってます」


 両手を揺らし、愛想良く笑う。


「でもね。ただ見捨てたってわけでもないんですよ? あたしはあの時、生霊が本気で婆さんを殺そうとしてると思ったから、逃げたんです。自業自得だってね」


 自業自得、という言葉に、生太郎も祝も首を傾げる。


「あの婆さん、昔は金貸しをやってたらしいんですよ。やり口が汚いっていうか非道っていうか、まぁ血も涙もないような事もしてたみたいで、随分と恨みを買ってたんですって。それが原因で死んでしまった人も、一人や二人の話じゃないとか。ですから誰かに襲われても可笑しくはないし、それが生霊だったとしても、別段不思議じゃないなと、そう思ったんですよ」


 大貫は大仰に頷いてみせる。


「それにこう言ってはなんですけど、あの婆さん、あのまま死んでしまってもよかったんじゃないですかね」

「こらこらー。お前、巡査の前でなんて事言ってんだ」

「でも祝の旦那、そう思うのはきっとあたしだけじゃないですよ。今まで散々阿漕な真似してきたんだ。せめて生霊が成仏出来るよう、殺されてやった方がいいんじゃないか。いや、そうしてやるべきなんじゃないかって」

「……言っておくが、まだ生霊の仕業だと決まったわけではないからな」

「そんな事ありませんよっ。絶対生霊の仕業ですっ」


 大貫は拳を握り締め、前のめる。


「きっとあの婆さんに追い詰められて死んでしまった誰かが、恨みを晴らすべく生霊となって現れたんですよっ。それで手頃な人間に取り憑いて、婆さんを殺そうと襲い掛かったっ。それ以外考えられませんっ」

「……寧ろ、それ以外の方が考えられるのだが」

「いーえっ、考えられませんっ。旦那の勘違いですっ。これは、生霊の仕業なんですっ」


 ずずいと迫られ、生太郎は思わず体を後ろへ反らせる。


「何だぁ? お前、妙に生霊説を押すなぁ。何か根拠でもあんのか?」

「根拠なんて、状況を見れば一目瞭然でしょうっ」

「なぁにが一目瞭然だ。お前、自分でも分かってんだろぉ? 話に無理があるってよぉ」

「そ、そんな事ありませんよっ。あたしは、本心から生霊の仕業だって信じてるだけでっ」

「うんうん。そうだよなぁ。その方が、面白くて売れる記事が書けるもんなぁ」


 大貫の勢いは、ぴたりと止まる。


 しばし目を泳がせたかと思えば、へらりと誤魔化し笑いを浮かべた。



 生太郎が、無言で拳骨を振り上げる。



「わっ。ちょ、待ってっ。待って下さいよ吉瀬の旦那っ。冗談ですよっ、冗談っ」

「冗談で済むかっ」


 ハンチング帽ごと頭を抱え、大貫は襲い来る拳から必死で逃げた。溜め息を吐く祝の後ろへ、そそくさと隠れる。


「お前ねぇ。天狗さんがいないからって、ちょっと気ぃ抜き過ぎなんじゃねぇの? そういう冗談は、俺達の前だけにしろよぉ?」

「と、当然ですよ。まかり間違っても、倉間くらまの旦那の前じゃあ言いませんって。だってあの人、冗談を冗談にしてくれないんですもの」

「そりゃあお前の自業自得だろうよ。毎度毎度適当な事書いて痛い目見てる癖に、これっぽっちも懲りねぇんだから」

「適当な事なんか書いてませんよっ。あたしはただ、世間の皆様が楽しんで頂けるよう、誠心誠意己の仕事に励んでるだけですってっ」

「その結果天狗さんに叱られ、ご近所の姐さん方に追い掛けられ、時には俺達に助けられてきたってのに、お前はまぁだ学習しねぇと」

「だって、しょうがないじゃないですかっ。妖怪の仕業だって事にしといた方がウケがいいんですからっ。こっちだって生活が掛かってるんですからねっ。新聞を売る為なら何だってやりますよっ。でも別に構わないでしょうっ? 妖怪が犯人だった所で、誰かに迷惑が掛かるわけでもないんですからっ」




「――ふぅん、そう」




 つと、派出所に穏やかな声が割り込んでくる。



 唾を飛ばしていた大貫の顔が、固まった。



「大貫君は、そういう風に思ってたんだね。つまり、僕の説教は何の意味もなかったと、そういう事なんだ」


 ゆっくりとした足音が、大貫の背後から近付いてくる。


「寂しいなぁ。本当に寂しいよ」


 ぽん、と大貫の肩を叩く手。

 大貫は体を跳ね上げ、恐る恐る、振り返る。


「ひぃ……っ」


 そこには、笑顔の倉間がいた。

 だが纏う空気は冷え切っており、怒りと威圧に満ち溢れた視線を、これでもかと大貫に注いでいる。


「でも、これもきっと、僕の力不足のせいだね。うん、きっとそうだ」


 倉間は一つ頷くと、数々の女を虜にしてきた笑みを、これでもかと咲き誇らせた。



「というわけで、これから僕と、ちょっとお話ししようか」



 そう言って、派出所の奥にある宿直室へと、引き摺っていく。


 見送る生太郎と祝、そして青い顔の大貫の頭に、全く同じ言葉が浮かんだ。



 鬼天狗ご降臨、と。



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