第五章 生霊

第一話


 日暮れの銀座煉瓦街に、ぽつりぽつりとガス灯の灯りが生まれていく。

 白い光が現れる度、モダンな街並みだけでなく、印半纏を着た点消てんしょうがたの姿も照らし出された。一丈程の点火棒を操り、ガス灯へ命を吹き込んでは、夜というものを人々から遠ざけていく。



 そのせいか、派出所を訪れた千登世ちとせは、未だに帰る気配がない。



「へぇー、そうなんですかぁ」


 頻りに頷いて、手に持つ新聞錦絵へ目を落とした。


生霊いきりょうって、正確には妖怪じゃないんですねぇ」

「うん。どちらかというと、幽霊に近い存在って言われてるかな」


 倉間くらまは柔和な顔を普段より和らげて、千登世を見つめる。


「そもそも生霊というのは、たまたま体から飛び出てしまった魂の事だから。大体の場合はすぐに体の中へ戻るし、例え迷子になったとしても、その道の人間、例えば、徳の高い坊主や神主なんかが導いてくれるから」

「そうなんですか、知らなかった。倉間さんって物知りなんですね」


 頭のリボンを揺らし、上目で倉間を見やる千登世。視線がかち合い、同時に頬を緩める。


 そんな倉間と千登世を、いわいは垂れ気味の目を更に垂らして眺めていた。

 それから、ちらと視線をずらす。



 いやに眉間に皺を寄せた生太郎しょうたろうが、只管当直日誌を書き進めていた。



「じゃあ、そうなると、ここに書かれてるような事は起こらないって事ですか?」


 千登世は、新聞錦絵を指差す。

 そこには『生霊に取り憑かれた者達』という文字と、覚束ぬ足取りで夜道を歩く男、可笑しな事を口走る女、病院を抜け出した入院患者、いつの間にか木に昇っていた子供が描かれている。それぞれの背中には、生霊らしき不気味な白い塊が張り付いていた。


「『己が何をしたのか、何故このような事をしたのか、覚えている者は誰もいない。これこそが、生霊に体を乗っ取られていた証拠である』って書いてありますけど」

「全くない、とは言えないかな。誰だって場所を間違える事はあるだろうし。それに、昔から生霊は、他人の体に取り憑いて悪さをするとも言われてるからね」


 でも、と、倉間は新聞錦絵に顔を寄せる。


「ここに書かれてるのは、多分違うんじゃないかな。覚束ぬ足取りで夜道を歩く男は、恐らくただの酔っ払い。可笑しな事を口走った女は、ただ寝惚けてただけ。病院を抜け出した入院患者は、呆けて徘徊してた老人。いつの間にか木に昇ってた子供は、親に怒られるのが怖くて、思わず嘘を吐いちゃっただけだと思うよ」

「成程。そう考えれば全部説明が付きますね。流石倉間さん。鮮やかな推理です」


 目を輝かせて、千登世は感嘆の息を吐いた。


 桃色の空気が濃くなる度、生太郎の筆圧も強くなっていく。


「あの、じゃあ、もしですよ? もし、私の魂が体から飛び出ちゃって、迷子になったとしたら、そうした、倉間さん、どうします?」

「そうだなぁ。どんな手を使ってでも、千登世ちゃんの魂を元の体に戻してみせるかな」

「じゃあ、もし私が生霊になって、誰も私の事が見えない中、倉間さんに一生懸命話し掛けたとしたら、倉間さん、気付いてくれますか?」

「僕は霊感が強い方だからね。必ず千登世ちゃんの声に気付いてみせるよ」

「じゃあ、じゃあ、もし、私がしょうにいの体を借りて、倉間さんに会いにきて、私は千登世ですって言ったとしたら、倉間さん、信じてくれますか?」


 瞬きを繰り返して窺ってくる千登世に、倉間は、端整な顔を蕩けさせる。


「勿論、信じるに決まってるじゃないか。千登世ちゃんの事を、僕が分からない筈ないからね」

「倉間さん……」


 うっとりとした眼差しで、千登世は新聞錦絵ごと手を握り締めた。


 互いを見つめ、二人の世界を作り上げていく。桃色な空気に満ち溢れる派出所に、「あー、あっついなぁ」という祝のからかい染みた呟きが落とされる。



 紙が破れる音も、大きく響いた。



「…………千登世」


 生太郎は、強すぎる筆圧で割いてしまった当直日誌から、そっと手を離す。


「いい加減にしろ。ここはお前の遊び場ではない。さっさと帰れ」


 眉をつり上げて睨むも、千登世は不満丸出しな顔で睨み返してくる。


「生兄ったら、最近そればっかり言うんだから。なんでそんなに追い出そうとするのよ」

「私は前々から言っていた筈だぞ。仕事の邪魔だから、気安くここにはくるなと」

「邪魔なんかしてないじゃない。ねぇ、倉間さん? 私、邪魔なんかしてませんよね?」


 倉間は苦笑いを零した。


「邪魔だとは思わないけど、でも、確かにそろそろ帰った方がいいかもしれないね」

 

 夕日と夜とガス灯の灯りが入り混じった大通りを、振り返る。


「あんまり遅くなるとご両親も心配するよ。ここは一つ、吉瀬きせ君の苦言を受け入れてもいいんじゃないかな?」

「う……わ、分かりました。倉間さんがそう言うなら」


 千登世は、渋々新聞錦絵を畳んでいく。


「じゃあ、行こうか」

「え?」

「あ、祝君、吉瀬君。悪いんだけど、先に夕飯を食べてきてもいいかな?」

「おー、どうぞどうぞぉ。ごゆっくりぃ」


 祝は、にやにやと手を振る。


「ありがとう。そういうわけだから、夕飯ついでに送ってくよ」


 財布を懐へ入れ、微笑む。


「というのは建て前で、本当はもう少し千登世ちゃんといたいだけなんだけどね」

「や、やだもうっ、倉間さんったらぁっ」

「駄目かな?」

「そんなっ、そんな事ありませんっ。私も、その、お、同じ気持ちですから……」


 二人から、桃色の空気が撒き散らされる。幸せそうに笑いながら、連れ立って派出所を出発した。


 後には、桃色の名残と、男二人が取り残される。


「いやぁ、意外だねぇ」


 祝は頬杖をつき、口角を片方持ち上げた。


「千登世ちゃんは元より、天狗さんまでこうもあからさまに惚気てくるだなんて。かぁー、まさかあの天狗さんがなぁ。びっくりだなぁクロ? あれはある種の牽制なのかねぇ?」


 机の下から顔を出した黒い子猫を撫でる。黒い子猫は鳴き声を上げて、祝の足へ擦り寄った。他の猫達も、其処彼処からひょっこりと現れる。


「恋は人を変えるっていうのは、本当だったんだなぁ。こりゃあタマへのいい土産話が出来たってもんだ。きっと驚くぞぉ。あ、いや、そうでもねぇかもな。タマなら、俺より天狗さんの事分かってそうだし。なぁ、どう思うよ、吉瀬?」

「……さぁ。どうでしょうね」


 生太郎はむっつりと唇を曲げ、穴の開いた当直日誌の一部を千切り取っていく。


「なんだよぉ、いつにも増して素っ気ねぇなぁ。あ、もしかして拗ねてんの? 最近千登世ちゃんに相手にされてねぇから」

「……別に、拗ねていません」

「そうだよなぁ。今までは何かあると、生兄生兄って吉瀬の所にきてたのになぁ。今じゃあ倉間さん倉間さんっつって、あーんな幸せそうな顔で笑っちゃってよぉ。そりゃあ兄貴分としては面白くねぇよなぁ」

「別に、面白いとも面白くないと思っていません」

「妖怪の事だって、お前じゃなく天狗さんにばっか聞いてるしよぉ。しかも、お前が鮮やかな推理を披露しても、なーんだって言うだけなのに、天狗さんが披露すると、流石ですーって手放しに褒めちゃってなぁ。お前が拗ねたくなる気持ちも分かる分かる」

「ですから、私は拗ねていません」

「じゃあ、なーんでそんな機嫌悪いんだぁ? お前今、こんな顔してんぞ」


 ずんぐりと大きな虎猫の顔を両手で挟み、中心に寄せてみせる。

 梅干しのような表情で鳴く虎猫に、生太郎の眉間の皺が僅かに緩んだ。


「……本当に、機嫌が悪いわけではありませんから」


 小さく息を吐き、目を伏せる。


「ただ、千登世の今の行動は、あまり褒められたものではないと思っています」


 膝に乗ってきた美人な三毛猫を、徐に撫でた。


「確かに、今までも度々派出所を訪れてはいました。ですが毎日ではありませんでした。当人は用事があるからだと言い張っていますが、それも無理矢理捻り出したようなものばかり。更には、毎回倉間さんのお手を煩わせてしまう始末」

「まぁ、ちぃちゃんとしては、そっちが目的なんだろうけどなぁ」

「……それでも、せめてもう少し隠す努力はすべきでしょう」


 ごろりと唸る三毛猫の喉を掻き、溜め息を零す。


「大体、生霊の話なんてもう廃れているではありませんか。新しく出来た牛鍋屋の方が、まだ話題に上っていますよ」

「お? なんだ吉瀬。お前、あの牛鍋屋の事知ってんのかぁ?」

「えぇ、まぁ。随分と賑わっているらしいですね。しかも、他の店より大分安くて美味いのだとか」

「そうそう。タマも気になってるようでなぁ。子供が生まれてひと段落したら、皆で食いに行こうぜって約束してんだ」

「ですが、大丈夫ですか? ご家族が増えて、何かと入り用になるのでは?」

「それはそうだが、ま、何とかなるだろ。安いって話なんだし」


 虎猫の顔から手を離し、椅子の背に凭れた。


「しっかし珍しいなぁ。お前がそういうの知ってるだなんて」

「……私だって、噂話位耳にしますよ」

「そりゃあそうかもしれねぇが、いくら耳にした所で、興味のねぇ話だとお前、全然覚えてねぇじゃねぇか。あれか? ちぃちゃんにでも聞いたのか?」


「いえ。千登世ではなく、可愛さんから聞きました」


 そう生太郎が言うと、祝は目を丸くした。

 しばし止まったかと思えば、唐突に口を手で覆う。


「どうしたんですか、祝さん?」

「いやぁ……いやいやぁ、なんでもねぇよ吉瀬ぇ」

「……何故笑っていらっしゃるんですか」

「気にすんなってぇ。うんうん、そうかぁ。吉瀬はえっちゃんから聞いたのかぁ。じゃあ覚えてても可笑しくねぇかぁ。なぁ、クロ?」


 黒い子猫を抱き上げ、意味ありげに生太郎へ視線を流す。


「……何ですか」

「いやぁ、別にぃ?」

「別に、という態度ではないと思うのですが」

「気のせいだってぇ。俺はただ、後輩と友達の仲が深まってると分かり、とっても嬉しいだけなのさぁ。いやぁー、タマへの土産話が増えちまったなぁ。良かった良かった」


 何が良かったんだ。生太郎は横目で祝を睨む。だが祝は、暢気に黒い子猫を撫でるばかり。

 一人楽しそうに頷く祝に、生太郎の口からは、自ずと諦めの溜め息が零れ落ちた。



「た、大変ですっ! 大変ですよぉっ!」



 不意に、派出所の戸が、勢い良く開かれる。


 生太郎と祝は素早く立ち上がり、転がり込んできた男へ近付いた。


「一体どうしたんだ? 何があった?」

「た、たたた、大変なんですっ。大変なんですよ旦那ぁ……っ」


 生太郎に縋り付き、ハンチング帽を被った男は、顔を青く強張らせる。




「い、生霊ですっ。生霊が出たんですよぉっ!」


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