第四話


 入院患者や看護婦の間をすり抜け、病棟の奥へと向かう。次第に人気ひとけは少なくなり、その分静けさは増していく。

 生太郎しょうたろうは、自然と足を忍ばせた。呼吸も静かに繰り返し、目当ての部屋の前で、立ち止まる。


 失礼する、とゆっくり戸を開けば、中にいた人物と目が合う。


「あら、生ちゃんじゃない。いらっしゃい」


 千登世ちとせの母、喜久乃きくのが出迎えてくれた。持っていた布と縫い針をベッド脇の小棚へ置き、目頭を揉んだ。



 小棚には、花瓶に入った蒲公英たんぽぽも、飾られている。



「……これは?」

「あぁ、それね。さっき可愛えのちゃんが持ってきてくれたの」


 可愛さんが? 生太郎は、目を瞬かせた。


「綺麗な蒲公英が咲いてたから、思わず取ってきちゃったんだって。ささやかですけど、それでも飾れば部屋が華やぎますから、よかったらどうぞ、って言ってね。やってみたらその通りだったわ」


 喜久乃は微笑むと、椅子を引き摺り、すぐ傍のベッドへ近寄る。




 ベッドには、生太郎と同じ年頃の娘が眠っていた。



 千登世よりも大人しそうな顔には、痛々しい傷痕が縦断している。




「ほら、八千世やちよ


 喜久乃は、娘の肩を揺らした。


「生ちゃんがきてくれたわよ」


 しかし、八千世は目を覚まさない。薄くなった胸板を、静かに上下するだけ。


 生太郎は、そっとベッドへ近付いた。近くにあった椅子に腰掛け、八千世の青白い顔を覗き込む。


「……きたぞ、千代ちよ


 お決まりの挨拶を、口ずさんだ。

 生太郎の声が、余韻を残して消えていく。そのまま一拍、二拍、と経った――その時。


 八千世の睫毛が、ひくりと震える。



 まるで蕾が開くかのように、音もなく瞼が持ち上がった。



 ぼんやりとした瞳に、生太郎の顔が映り込む。


「やっぱり、八千世は生ちゃんが好きなのねぇ」


 喜久乃は頬を緩ませる。


「生ちゃんがきてくれた時は、絶対に起きるんだもの。流石は未来の旦那さん。これぞ愛のなせる業って奴かしら」


 はふんと息を吐く喜久乃に、生太郎は呆れの眼差しを送る。いい加減、その冗談も聞き飽きたのだが、と思いつつも、何も言わない。下手に反応するより受け流した方が楽だという事を、生太郎はよく分かっていた。


 よって本日も、黙って事が過ぎるのを待つ。


「でも、珍しいわね。こんな時間にくるだなんて。お仕事はもう終わったの?」

「……いや、そういうわけではないんだが、千登世がな」


 生太郎は、派出所に千登世が来た事、酷く体調が悪かった事、八千世に風呂敷包みを届けるよう頼んできた事を、順々に説明していく。


「そう。ごめんなさいね、生ちゃん。千登世の我が儘に付き合わせちゃって」

「別に構わない。それより、ほら」


 と、持っていた風呂敷包みを手渡した。

 喜久乃は礼を言って、縛り口を解く。


「……かりん糖?」


 中から出てきたものに、生太郎は眉を顰める。

 これを千登世は届けたかったのだろうか。体調の悪さを押してまで。


「ほら、八千世。かりん糖よ。生ちゃんが持ってきてくれたのよ。あんた、好きでしょ?」


 かりん糖を小さく割り、八千世の口元へ持っていく。唇に当ててやれば、八千世はぼんやりと天井を眺めたまま、静かに頬張った。

 噛み砕く音が、訥々とつとつと響く。


「八千世、美味しい?」


 八千世は、何も答えない。

 だが喉を上下させると、小さく唇を開いた。


 喜久乃は嬉しそうに目を細め、小さく割ったかりん糖を、また八千世の口へ持っていく。

 ぽり、ぽり、咀嚼する音を、生太郎はじっと聞いていた。



「……ありがとうね、生ちゃん」



 ぽつりと、喜久乃が呟く。


「生ちゃんがきてくれたお陰で、八千世の元気も出たみたい」

「……すまない。中々顔を出しにこられなくて」

「いいのよ。お仕事が忙しいのは分かってるもの。八千世だって、生ちゃんの気持ち、ちゃんと分かってる。応援こそすれ、責めなんかしないわ」


 穏やかに微笑む喜久乃に、生太郎は目礼をした。


「お仕事の調子はどう? 怪我とかしてない?」

「あぁ。大きなものは、特にない」

「という事は、小さな怪我はあるって事ね」

「……大した事はない」


 気まずげに目を逸らす。


「大した事でなくても、怪我は怪我よ。まぁ、生ちゃんは男の子だし、仕事柄しょうがないけど、それでも出来るだけ気を付けてちょうだいね? 生ちゃんが大怪我しただなんて知らせ、私聞きたくないからね」

「……肝に銘じておこう」


 身を小さくする生太郎に、喜久乃は頬を緩めた。


「あ、そうそう。生ちゃんがきたら聞こうと思ってたんだけどさ。ほら、倉間くらまさんっていらっしゃるじゃない? 生ちゃんの先輩で、男前な巡査さんの」

「あぁ。まぁ、いるが」

「あの人って、次男?」


 いきなり何を言い出すんだ、と生太郎は胡乱げな視線を送る。


「いやほら。あの人と千登世がさ、今とってもいい雰囲気じゃない? 一緒に出掛けちゃったりもしてさ。千登世は否定してるけど、あれは絶対逢い引きだと思うのよ。だって迎えにきた倉間さんの顔が、そうだって言ってたもの」

「……はぁ」

「でね、もしよ? もし、このままの雰囲気でお付き合いが続いて、千登世が女学校を卒業したら、これはいよいよあると思うの」

「……何が?」


「結婚」


「…………誰が?」

「千登世が」

「………………誰と?」

「倉間さんよ、倉間さん。もう、生ちゃんったらちゃんと話聞いてよね」


 だが、そんな抗議の声など、生太郎の耳には届いていない。



 それどころではなかった。



「……いや……いやいや。流石に、それは」

「あら? ないとでも言うの?」

「ない、とは、言わないが……だが、そういうのは、千登世には、まだ早いだろう」

「そんな事ないわよ。千登世の同級生でも、婚約者がいる子なんて沢山いるしね。一昔前なら、子供がいても可笑しくない年頃なんだから」


 自信満々に言い切る喜久乃に対し、生太郎の顔は目に見えて狼狽えている。


「まぁ、そういうわけで、もし二人が結婚するとしたらね? 出来れば倉間さんには、婿養子に入って欲しいのよ。ほら、うちは女の子しかいないから。それで、次男かどうか聞いたの」


 と一つ頷くと、目付きを変える。


「で? どうなの? 倉間さんは次男なの?」


 ベッド越しに身を乗り出してくる喜久乃。生太郎は、思わず後ずさった。


「ま、まぁ……ご兄弟は、いらっしゃるみたいだが」

「そうっ。良かった。なら安心ね」


 何がだ。生太郎は、音もなく唇を開閉させる。


「で? 生ちゃんは?」

「あ、え? な、何が?」

「だから、生ちゃんは? いないの? いい人」

「は……はぁっ?」


 椅子と床の擦れる音が、病室に大きく響いた。


「もう。そんなに驚かなくてもいいじゃない」

「お、おばさんがっ、変な事を言うからだろうっ」

「変でもなんでもないでしょ。生ちゃんだってもう大人なんだから。妹分に後れをとってもいいの?」


 意味ありげに眉を持ち上げ、かりん糖を小さく割る。


「……大きなお世話だ」


 むっつりと、顔を顰めた。


「でも、大切な事でしょう?」

「今はそういう事に興味はない」

「あら、残念。じゃあ、気になる人は? 最近よく話す女でもいいわよ」

「……おばさん」


 眉間の皺が、一層深まる。


「怒らないでよ。はいはい、ごめんなさい。ちょっと戯れがすぎたわ」


 恨みがましい視線も軽くあしらい、八千世の口へかりん糖を持っていく。


 生太郎は眉間に深く皺を刻み、自分の膝を睨んだ。

 いい人も気になる人も、いるわけがない。自分は巡査として、日々必死に働いている。愛だの恋だのにうつつを抜かす暇などないのだ。


 ……まぁ、いつかは、とは、思わなくもないが。喉の奥から、そんな思いが込み上げた。



 同時に、何故か、可愛の顔が、思い浮かぶ。



「っ」


 生太郎は、慌てて歯を噛み締めた。


 今自分は、何を考えたんだ。信じられなくて、咄嗟にそっぽを向く。熱を持った顔を隠すように、帽子の鍔を引き下げた。



「あら?」



 喜久乃の声に、生太郎の肩が跳ねる。


 恐る恐る振り返れば、喜久乃は生太郎ではなく、八千世を見ていた。


「もういらないの?」


 唇をかりん糖で突くが、八千世は反応しない。



 瞼が、ゆっくりと下りる。

 ぼんやりとした瞳が消え、辺りから音も消えた。



「……寝たのか?」

「……そうみたい」


 喜久乃は、かりん糖を風呂敷で包み直した。それを膝の上に乗せたまま、じっと八千世の顔を眺める。生太郎も、つられて八千世を見た。


「……また、少し痩せたか?」

「……そうね。最近、食欲がないみたいで」


 口だけを、動かす。


「寝てる時間も、段々伸びてきてるの。さっきは生ちゃんがきてくれたから起きたけど、でも、疲れちゃったのかしらね。珍しく、途中で寝ちゃったりして……今までは、生ちゃんが帰るまでは、絶対に起きてたのに……」


 喜久乃は一度唇を結び、瞬きをする。



「……この前、お医者さんにね。言われちゃった……『そろそろ、覚悟をしておいて下さい』って」



 生太郎は、息を飲んだ。


 痛々しい傷痕が縦断する顔を見つめ、それから、喜久乃へと視線を移す。


「……それ、千登世には……」

「……昨日、伝えた。あの子、よっぽどびっくりしたんでしょうね。今朝起きたら、酷い熱が出て、でも、八千世の所に行くんだって、聞かなくて」


 喜久乃は、静かに俯いていく。



「……生ちゃんがきてくれたら、何か変わるかなって、思ってたんだけど……」



 それっきり、黙り込んだ。

 静かな病室に、鼻を啜る音が小さく響く。


 生太郎は、喜久乃からそっと目を逸らした。眠る八千世の顔を、また見つめる。


「……千代……」


 自分の左腕を、徐に撫でる。




 すると、何かが、生太郎の左腕を撫でていった。




 まるで慰めるような触り方に、生太郎は左を振り返る。


 そこには、誰もいなかった。


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