第二話
老婆――
「ありがとう、
「……別に、大した事ではない。それよりも、本当に医者を呼ばなくていいのか?」
「いいのいいの。そんな事したら、折角の松葉杖を取り上げられちゃうもの」
「だが、悪い所があるのならば、きちんと診て貰った方がいいのではないか?」
「大丈夫よ。別にどこか悪くなったわけじゃないから。ただ、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃっただけなのよ。だって、漸くベッドから解放されたんだもの。しかもこの天気でしょう? これは散歩に行かなきゃって松葉杖片手に飛び出したら、でっぱりに躓いちゃって。それでころーんって。もうびっくりしたわ。ねぇ、ぬぅ左衛門?」
多可はあっけらかんと笑い、隣に鎮座する毛の塊を撫でる。
ぬぅ左衛門と呼ばれた毛玉は、同意するように「ぬぅん」と渋い鳴き声を上げた。
「…………あの、所で、多可さん」
眉を寄せて、多可の隣を見やる。
「そこの、真っ白い、大きな毛玉は、もしや……」
「えぇ、そうよ。この子はケサランパサランのぬぅ左衛門。ぷぅ助やむぅ太郎のお兄ちゃんね」
……やはり。生太郎は溜め息混じりの相槌を打ち、ベッド上のぬぅ左衛門を見やる。
「ぬぅ左衛門。こちらがあの吉瀬さんよ。ご挨拶しましょうね。はい、こんにちはー」
ぬぅ左衛門は、多可の声に合わせて真ん丸な体を揺らした。だがその眼差しは、こんにちは、というよりは、おう、よろしくな、とでも言わんばかりにどっしりと構えている。
生太郎は、一応軽く帽子の鍔を持ち上げてみせた。
「でも、こんな偶然ってあるのねぇ。まさかこんな所であの吉瀬さんと出会うだなんて」
「……先程から気になっているのだが……あの吉瀬さん、というは、一体何だろうか」
何となく、いい意味ではないような気がするのだが。
「あぁ、ごめんなさい。最近、
「可愛さんが?」
「そうなの。真面目で誠実で、でもちょっと不器用な感じの巡査さんだって。それから、いつもかりん糖を買ってくれるとか、むぅ太郎とぷぅ助も懐いているとか。あ、そうそう。中々男前なのに、仏頂面で勿体ないとも言っていたかしら」
生太郎の眉間に、皺が刻まれる。不機嫌というよりは、困惑と照れ隠しと言った表情だ。
黙り込む生太郎に、多可は目元と唇に弧を描く。
「そうやって色んな話をしてくれるの。でもほら。私は入院しているから、会いたくても会えないでしょう? やる事もないし、だから、吉瀬さんはどんな方なのかしらー、こういう方なのかしらー、って沢山考えていたの。そうしたら想像よりもずっといい男で、うふふ、とってもびっくりしたわ。ねぇ、ぬぅ左衛門?」
多可は、ぬぅ左衛門の真っ白な毛を優しく梳いた。
「――まさか、こんな方が女装をするだなんてねぇ」
そんな事まで聞いているのか。
封印していた思い出をほじくり返され、生太郎は盛大に顔を引き攣らせる。「本当にびっくりだわ」と笑う多可に、慌てて口を開いた。
「そ、そういえば、そこの、ぬぅ左衛門、だったか? そいつは、随分と大きいのだな。あまりのでかさに、本当にケサランパサランなのか一瞬疑った位だ」
「あらそう? まぁ、むぅ太郎やぷぅ助と比べちゃうと、確かに大きいわね。でも昔は、こーんなに小さかったのよ?」
と、水を掬い上げるように両手をくっ付ける。
「え……そ、そんなに小さかったのか? こいつが?」
「今の姿からじゃあ想像も付かないでしょう? でもね、本当なの。それがいつの間にかこーんなに大きくなっちゃって。お陰でベッドが狭い狭い」
「ぬぅん」
「あ、はいはい。ごめんなさい。そうね、そこはお互い様ね」
その通りよ、とばかりに、ぬぅ左衛門は巨大な体を上下に揺らした。
「でも、いい加減寝床は別にしましょうよ。私、ぬぅ左衛門の事は好きだけどね? あなたに掛け布団を奪われるのも、寝ぼけて圧し掛かられるのも、結構厳しいのよね。ほら、私もうお婆ちゃんじゃない? 年寄りを労わると思って」
「ぬーぅん」
「あ、こら。聞こえないふりしないの。ちょっとぬぅ左衛門? 私だって意地悪で言ってるわけじゃないのよ。でも、あなたはこれからもっと大きくなるわけだし、いつまでも小さい頃と同じ気持ちでいられちゃ困るのよ。私の体が持たないわ、って、ねぇちょっと、聞いてる?」
しかし、ぬぅ左衛門はそっぽを向き、巨体に張り付く多可と目を合わせない。
「全くもう……あ、ごめんなさいね吉瀬さん。お見苦しいものを見せちゃって」
「いや、それは構わないのだが……」
しばし目を彷徨わせ、唇を開いた。
「その……ぬぅ左衛門は、それ以上、育つのか?」
「えぇ。私の祖母のケサランパサランも、母のケサランパサランも、ぬぅ左衛門よりもう一回り大きかったからね。この子もきっとそれ位にはなるわ」
むぅ太郎達の他にも、まだケサランパサランがいたのか。生太郎は内心驚いた。
同時に疑問に思う。
「これは、私が祖母から聞いた話なんだけどね。富久住の家には、昔からケサランパサランが住み着いていたらしいのよ。でも、ずっと同じ子が住んでいるわけではなくて、子供が生まれる度に新しい子が生まれて、その子供が死ぬと、一緒に生まれたケサランパサランもどこかへ消えてしまうの。私の祖母と母のケサランパサランもそうだったわ。ぬぅ左衛門も、私が生まれた時、いつの間にか傍にいたんですって。それからずーっと一緒に育ってきたから、私にとっては兄弟や分身みたいなものね」
皺だらけの手で、真っ白な毛を撫でる。
「ぬぅ左衛門達が大きくなるのは、きっと沢山の人に幸せを運ぶ為なんじゃないかと、私は思うの。だって体が大きい分、人から溢れた幸せを沢山食べて、沢山蓄えられるでしょう? そうして沢山の人を幸せにして、沢山の笑顔を生み出す。それがケサランパサランなんじゃないかしら」
と、徐に、肩を竦ませてはにかむ。
「なーんて、ちょっと臭かったかしらね」
「あ、い、いや。そんな事は」
「ありがとう。でも、これはあくまで江戸時代での話だからね。あの頃は妖怪の存在が当たり前に信じられていたし、何かあれば、妖怪が出た、妖怪がやった、なんて言われていて。今の若い人からしたら馬鹿馬鹿しいって思うかもしれないけど、でも、本当なの。そしてそれは、強ち間違っているわけでもない」
生太郎は、はっと息を飲んで、多可を見た。
「――と、私は勝手に思っているわ」
うふふ、とおどけた顔で、ぬぅ左衛門の真ん丸な体を叩く。
「勿論、全ての妖怪が悪さをするとは思ってないけどね。でも、何か理由があって仕方なくとか、結果として悪と判断されてしまった場合なんかは、あるんじゃないかしら。人間だって、意図せず相手を傷付けてしまう事ってあるでしょう? それと同じよ。ねぇ、ぬぅ左衛門?」
ぬぅ左衛門は、「ぬぅん」と巨大な体を上下に揺らした。
「…………あの、多可さん。一つ、質問をいいだろうか」
生太郎は小さく唾を飲み込み、顎を引いた。
「……銀座には、ぬぅ左衛門達以外の妖怪も、存在しているのだろうか?」
拳を握り、顔を強張らせる。
多可とぬぅ左衛門は、しばし生太郎を見つめた。
「……そうね。いるわよ」
生太郎の口元が、ひくりと震える。「そうか……」と目を伏せ、己のつま先を眺めた。そのまま、黙り込む。
「何か、気になる事でもあるのかしら?」
生太郎の肩が、僅かに反応した。
多可は、静かに微笑んでいる。ぬぅ左衛門と共に、生太郎を見守った。
「…………変な事を、言ってもいいだろうか」
生太郎は、音もなく深呼吸をし、自分の左腕を触った。
「……私の傍には、誰かしらの姿が、あるのだろうか……?」
多可とぬぅ左衛門の視線が、生太郎の周囲へと移る。
「……いいえ、誰も。ぬぅ左衛門は?」
「ぬーぅん」
「ぬぅ左衛門も、誰もいないと言っているわ」
「……そうか……」
生太郎の口から、深い息が吐き出される。
「いた方が良かったかしら?」
「……いや……そういうわけでは」
「でも、あなたはいると、思っているのよね」
柔らかい多可の声が、病室に小さく響く。
生太郎は何も言わず、そっと目を逸らした。
沈黙が、流れていく。
「んー……そうねぇ」
つと、多可は宙を見上げる。頬に手を当て、首を傾げた。
「その相手は、妖怪ではないんじゃないかしら?」
生太郎の視線が、ゆっくりと持ち上がる。
「ほら、人成らざる者だって色々いるじゃない。神様とか幽霊とか。そういった類なら、私達が見えなくても可笑しくはないかもしれないわよ? ねぇ、ぬぅ左衛門?」
「……ぬぅん」
「ちょっと。なによ、その渋々な返事は。江戸の頃はこういう考えが普通だったんだからね。というか、あなたも私と同い歳でしょ。一人だけ明治生まれ面するなんて卑怯よ」
巨大な毛の塊へ手を突っ込み、揉みくちゃにかき混ぜる。ぬぅ左衛門は、おい止めねぇか、とばかりに唸っては、真ん丸な身を捩る。
何とも言えぬ暢気さに、生太郎の肩の力が僅かに抜けた。
左腕を、そっと擦る。
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