第四章 ケサランパサラン
第一話
「ご、ごべんぐだざい……」
盛大に鼻を啜る音が、昼下がりの派出所に響き渡る。
待機していた
「どうしたの千登世ちゃん。大丈夫?」
素早く
「ず、ずびばぜん、ぐらましゃん……だいじょうぶでずがら……ずずぅ」
「いやいやぁ、どう見ても大丈夫じゃねぇから。無理してねぇで、ほれ。ここ座りな」
「それよりも、宿直室で休ませた方がいいかな。随分と熱があるようだし。
生太郎は立ち上がり、素早く宿直室へ向かう。
「あ、じょ、じょう
すると、千登世がよたよたと追い掛けてくる。今にも倒れてしまいそうで、生太郎は慌てて千登世を受け止めてやった。
「あ、あどでぇ、わだじ、じょう兄におでがいがあっでぇ……」
「お、お願い? なんだ?」
「ずび、ご、ごれぇ……」
ぶら下げていた風呂敷包みを、生太郎へ押し付ける。
「ごれを、や、やぢ
「これを、
千登世は、ずびびと鼻を啜り、何度も頷く。
潤んだ瞳を生太郎へ向け、巡査服の裾を握り締める。
「おでがいだがらでぇ、じょう兄……ぜっだい、ごれ、やぢ姉にぃ……」
「分かった。絶対に持っていく。約束する。だからお前は大人しく休め。いいな?」
返事を待たず、生太郎は千登世の足と背中へ腕を回す。
赤子のように縦抱きで担ぎ上げ、息も絶え絶えな妹分を、問答無用で宿直室へ押し込んだ。
千登世を家まで送り届けた後、生太郎は
「……ん?」
玄関が見えてきた時、不意に、視界の端で動くものが目に入った。
病棟の影から、落ちた松葉杖と、うつ伏せた女性の下半身が、飛び出ている。
「っ、大丈夫かっ!」
生太郎は急いで駆け寄った。病棟の角を曲がり、飛び込んできた光景に目を見開く。
倒れていたのは、どうやらこの病院に入院している老婆のようだ。寝巻の上にショールを纏い、皺だらけの顔を苦悶に歪めながら、包帯の巻かれた右足を抱えている。
その老女は、一人ではなかった。
すぐ傍に、巨大な毛の塊がいる。
生太郎の腰程はあろう白くて丸い物体は、倒れる老婆に寄り添ったまま微動だにしない。
見覚えのありすぎる形に、生太郎は思わず固まった。
と、唐突に、毛の塊が、蠢く。
真っ白い毛の間から、任侠も斯くやの鋭い眼光を、生太郎へ向ける。
「……ぬぅん」
鳴き声も、非常に渋い。
毛の塊は、まるで顎をしゃくるかのように巨大な体を揺らし、寄り添う老婆へ視線を落とした。
生太郎ははっと肩を跳ねさせ、すぐさま老婆の横にしゃがむ。
「おい、大丈夫か。私の声が聞こえるか?」
老婆は、小さく首を縦に動かした。
「痛い所はあるか? 気分が悪かったり、どこか可笑しいと思う所は?」
「あ、足が……」
「足が、何だ? 痛いのか?」
老婆の首が、また縦に動く。
「痛いのは、足だけか? 他に痛い所や、違和感のある所は?」
唸り声と共に、首が横へ振られる。
生太郎は一つ頷くと、老婆の体をゆっくりと起こし、自分の背中に凭れさせる。
「取り敢えず病院の中へ移動しよう。背負っていくから、しっかり捕まってくれ」
「ご、ごめんなさいね、お兄さん」
「気にしなくていい。これも私の職務だ」
そう言われ、老婆は改めて生太郎を見た。巡査服を纏う青年に、目を瞬かせる。
「あらまぁ。お兄さん、巡査さんだったの? そう。どうりで随分と手際がいいと、あ、痛たたた……」
「おい、大丈夫か?」
握り締められた肩越しに見やれば、老婆は目を固く結び、喉を唸らせている。
その背中に寄り添う、巨大な毛の塊。
真ん丸な体を揺すって、労わるように「ぬぅん」と老婆を撫でた。生太郎の背中や尻にも、真っ白な毛が当たる。むぅ太郎やぷう助の毛と、全く同じ感触だ。
しかし、この大きさは一体、と巨大な毛の塊を凝視していると。
「……あら?」
つと、老女が生太郎を見た。それから後ろを振り返り、また生太郎を見て、首を傾げる。
「ねぇ、お兄さん。間違っていたらごめんなさい。あなた、もしかして、吉瀬さん? 銀座の派出所の巡査さんで、倉間さんや
「あ、あぁ、そうだが」
何故そんな事を、と眉を顰める。
対する老婆は、至極晴れやかな顔で「あらまぁ」やら「あなたが」やらと呟いては、何度も頷いた。
そして、愛嬌のある笑顔で、こう言う。
「初めまして。私、
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