第八話


 後日。生太郎しょうたろうは、可愛えの銀座ぎんざ煉瓦街れんががいを歩いていた。



「……あの、吉瀬きせさん」



 むぅ太郎を抱き締め、可愛は半歩前を行く生太郎を窺う。


「やっぱり、お礼なんて結構ですよ。頑張ったのは私ではなく、むぅ太郎なんですから」

「だが、可愛さんが着物を貸してくれたから、通り魔も無事捕まえられたんだ。可愛さんにも、礼を受け取る権利がある」

「でも、それにしては、些か過分な気がするんですが」

「そんな事はない。折角貸して貰った着物を血で汚してしまったんだ。この位の償いはさせて欲しい」

「で、でも、汚れたと言っても大した事はありませんし、弁償して頂く程大層な代物でもないですから。わざわざ新しい反物を買って頂くのも、申し訳ないと言いますか……」


 それに、と俯いて、可愛はむぅ太郎を撫でる。



「と、殿方に、そのような贈り物をされるのは、初めての事ですから、その……少々、気恥ずかしいと言いますか」



 生太郎の肩が、僅かに跳ねる。

 頬の筋肉も引き攣り、思わず右腕と右足を同時に出した。


「あ、も、勿論、分かっていますよ? そういう意味ではないという事は。分かってはいるんですけど、でも、母が出がけに変な事を言うから、こう……あ、あれですよ。ね、むぅ太郎? あれだよね?」


 真ん丸な体を傾け、むぅ太郎は「むぅー?」と赤らむ可愛の顔を見上げる。

 明らかに、何が? と言いたげに円らな目をぱちくりさせているが、可愛は「そうだよねー、あれだよねー」と真っ白な毛を撫で回し、無理矢理同意に持ち込んだ。


 何となく居心地の悪い空気が漂う。


 それを誤魔化すように、生太郎は一つ咳払いをした。


「……可愛さんは、嫌なのだろうか」

「えっ。い、いえっ。嫌だなんて、そんな事はありませんっ」

「ならば、どうか受け取って欲しい。私の我が儘に付き合うと思って。頼む」


 可愛は困ったように眉を下げた。むぅ太郎の白い毛を指で弄り、やがて小さく頷く。


「で、では……お言葉に甘えて」


 生太郎は、ほっと胸を撫で下ろした。これで断られては、派出所に戻った時、何を言われるか分かったものではない。


 というのも、この可愛に対する礼を考えたのは、いわい倉間くらまなのだ。


 元々着物を汚した詫びとして、生太郎は菓子折りの一つでも持って行こうと思っていた。だが生憎若い娘の好むものなど分からず、どうしたら良いか先輩二人に相談した所、あれよあれよという間に可愛と出掛ける算段がついてしまったと、そういうわけである。


 生太郎自身、可愛の言いたい事はよく分かっていた。事実、全く同じ事を祝達にも言ったのだ。しかし二人掛かりで言い包められ、挙げ句いくらかの金も押し付けられる羽目となる。

 先輩にここまでされては、流石に生太郎も引き下がれない。これ以外の礼も思い付かない事だし、恥を忍んで可愛を買い物に誘ったのだ。


 ……まぁ、多大に戸惑わせてしまったようだが。

 生太郎は、ちらと斜め後ろを振り返る。


 可愛は、未だむぅ太郎の毛を弄っていた。窺うように、上目でそっと生太郎を見上げる。


「あの、吉瀬さん」

「……何だ」

「ありがとうございます。その、大切にしますね」


 そう言って、ほんのりと赤い頬を、緩ませた。


 生太郎の肩が、また小さく跳ね上がる。


 すぐさま帽子の鍔を引き下ろし、前を向いた。熱を持ち始めた顔と心の乱れを誤魔化すように、見慣れた景色を意味もなくじっくりと眺めていく。



 すると、不意に生太郎の左腕を、何かが撫でていった。



 いつもよりも強い感覚に、生太郎は反射的に左を振り返る。




 途端、目を限界まで見開き、硬直した。




「きゃっ」


 突如立ち止まった生太郎に、可愛はぶつかってしまう。


「す、すみません、吉瀬さん」


 しかし、生太郎からの反応はない。唇を戦慄かせて、一点を凝視しているだけ。

 あれ? と小首を傾げる可愛。むぅ太郎も不思議に思ったのか、共に生太郎の視線の先を、振り返った。


 そこには、天狗の愛称で親しまれている巡査、倉間がいた。普段よりも柔らかな表情で、煉瓦街の通りを進んでいる。


 その斜め後ろには、可愛と同じ年頃の娘がいた。


 これでもかと肌を赤らめ、右腕と右足を一緒に前へ出している。



「……え、千登世ちとせちゃん?」



 可愛は目を丸くし、口を押さえた。


 と、生太郎が、勢い良く振り返る。


「え、えええ、可愛さん」

「は、はい」

「き、君は、千登世を、知っているのか?」

「あ、はい。お婆ちゃんのお見舞いに行った時、病院で偶然知り合いまして」

「そ、そうか。では」


 小刻みに震える指で、倉間と千登世を差した。


「あああ、あれについて、何か、き、聞いてはいないだろうか。いやっ、決して変な意味ではないっ。千登世は、私の妹分なんだ。だから、私は兄貴分として、もし千登世が倉間さんにご迷惑を掛けているのならば、然るべき対応を取らねばならぬと、そう思ってだな」

「あ、あぁ、そうなんですか」

「そ、そうなんだ。だから、私は本心から心配で問うのだが、その、あ、あれは……」

「あれは、えっと、まぁ、強いて言えば、千登世ちゃんが、倉間さんの事を、その、お慕いしている、という事でしょうか」

「そ、それだけか? 想いが通じ合った、とか、そんな類の事は」

「さ、さぁ。私も、そこまで千登世ちゃんと頻繁に会っているわけではありませんから。でも、そういった類の話は、聞いた事ありませんよ」

「そ……そうか」


 ならば、あれはきっと、特に意味はないのだろう。ケサランパサランが運ぶ幸せと同じで、たまたま行き合った千登世と倉間さんが、たまたま同じ方向に用事があったから、たまたま共に歩いているだけに違いない。

 生太郎はやや早鳴る心臓を撫で、深く息を吐き出した。



「あぁ、でも」



 と、宙を見上げた可愛に、生太郎はまた体を強張らせる。


「これは、あくまで噂なんですけどね? 最近、この辺りの女達の間で、まことしやかに囁かれている事があるんですよ」


 可愛は口へ手を当て、声を潜めた。



「『銀座の天狗が、遂に本腰を入れたようだ』、って」



 ……本腰? 一体どういう意味だ、と可愛へ視線を向ける。


「本当かどうかは定かではないんですよ? けど、ほら。倉間さんって、とっても人気があるじゃないですか。ですから、ちょっとした事で注目を集めると言いますか、ただ歩いているだけで話題に上ると言いますか。兎に角、そのような感じなんですね」


 可愛は目を泳がし、どこか言い辛そうに唇を蠢かした。


「それで、ですね。少し前から、噂になっていたんですよ。倉間さんに、いい人が出来たんじゃないかって。私の友達とかは、絶対にそうだって言っていて……それで、相手は随分と若い子らしいとか、まだお付き合いはしていないらしいとか、そんな話が出回っていたんですけど、それが最近になって、遂に本腰を入れたようだ、になりまして……」


 生太郎の目と口が、これでもかと開かれる。そのままゆっくりと、首を通りへ向けた。


 倉間が、少し後ろを歩く千登世を振り返る。右手足、左手足と交互に出して進む千登世に笑い掛けると、何かを言った。




 そして、徐に千登世の左手を、握った。




 周りから、悲鳴染みた声が上がる。だが倉間は気にする事もなく、自分の隣へ千登世を引き寄せる。今にも倒れてしまいそうな千登世に微笑み、また何かを言った。


 千登世は、頭に付けたリボンを振り乱して首を横へ振る。


 すると倉間は、柔和な顔を一層緩ませた。最早蕩けたと言っても過言ではない。



 通り中の視線が、遠ざかる二人の背中へ集まる。



 生太郎も、小さくなる妹分を見つめ続けた。


「あの、吉瀬さん……大丈夫、ですか?」


 可愛とむぅ太郎が、おずおずと窺い見た。生太郎は、どうにか返事をする。だが殆ど溜め息にしか聞こえなかった。



 ……これは、果たして幸せなのだろうか。それとも、不幸なのだろうか。そんな自問自答が、いつまでも頭を駆け巡った。



 左腕を撫でる感触にも、反応をする余裕は、ない。

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