第七話
「……一つ、質問をいいだろうか」
周りを取り囲む猫を眺めながら、
「何故お前は、あれ程犯人を捕まえようと躍起になっていたんだ? お前の態度を見る限り、余程の事がなければ
膝に額を押し付ける
「…………天狗が、馬鹿にされたからだ」
だが唇だけは、僅かに蠢いた。
「天狗は、通り魔なんぞしない。古くより人間を見守り、慈しんできた、崇高な一族なのだ。それをあのように侮辱するなど……しかも、よりによってその痴れ者が、さも小父貴であるかのように言われては、黙ってなどいられるか……っ」
膝を抱える手が、固く握り込まれる。震える腕へ、野良猫は額を擦り付けた。
……まるで、天狗が実在しているかのように語るのだな。横目で天生を眺めながら、生太郎はそんな事を考えていた。
まぁ、ケサランパサランがいるのだから、天狗がいても可笑しくないとは思う。例えいなかったとしても、天狗と呼ばれる叔父を持つ天生が、天狗に強い思い入れを持っていたとしても、別段不思議ではない。
しかし、それにしては、妙に知った口を利く。
まるで、本物の天狗に会った事があるかのようだ。
そこで、つと、生太郎の脳裏に、倉間の姿が思い浮かぶ。
通り魔の頭上を飛び越える動き。
扇の一閃で吹き飛ばす力。
どこからともなく巻き起こる風。
そして、夢かお伽話でしか見た事がない光景の中で、平然と振る舞う自身の先輩。
人間離れ、という言葉では説明出来ない位、常軌を逸していた。
「――だが」
耳を掠めた声に、生太郎は意識を天生へと向ける。
「……儂だって、本当は分かっているのだ。小父貴がそのような事、歯牙にも掛けていないと……だから、儂も無視していた。腹を立てている暇があるなら、万が一にも襲われぬよう、
「……あぁ、その通りだ。兄貴分は、自分より下の奴らを守ってやるものだ」
「そうだ。自分より下の奴らは、守ってやるもの。それが倉間一族分家筆頭の嫡男である、儂の役目というものだ。珠子だけでなく、
天生は、一層自分の膝を抱え込む。
「
身を縮ませる天生を、生太郎は横目で窺った。
「あいつは、いくらむぅ太郎がいると言っても、他の奴らよりいく分も弱いからな。通り魔に襲われてはひとたまりもないだろう。だから、この倉間一族分家筆頭の嫡男である儂が直々に赴いて、直々に警護に就いてやったのだ」
早口でそう言った天生の耳は、ほんのりと赤く染まっていく。
微笑ましさが、生太郎の胸に広がる。眉も口角も、自ずと緩んでいった。
「……お前は、凄いな」
「……何だ、いきなり」
「守るべき者を守り切ったお前は、凄いと思う」
生太郎は、つと目を伏せる。
「私とは、大違いだ」
吐息に乗って、言葉が滑り落ちた。
生太郎の左腕を、何かが優しく撫でていく。
沈黙が訪れる。
野良猫の鳴き声も上がらない中、膝を抱える天生の腕が、僅かに動いた。隙間から、そっと生太郎を窺う。
生太郎は、地面を見つめたまま、ぼんやりとしていた。
まるで懐かしむような、悔むような雰囲気で、血を拭った藍色の手拭いを握り込む。
「……あぁ。そう言えば、まだ言っていなかったな」
一つ瞬きをすると、生太郎の纏う空気が元に戻る。
天生を振り返り、むぅ太郎ごと帽子を脱いだ。そして、折り目正しく頭を下げる。
「
天生は、目を丸くして生太郎の旋毛を見やる。
それから口を曲げ、そっぽを向いた。
「ふん。別にお前の為にやったわけではない。珠子がいきなり駆け出すから、儂は追い掛けていっただけだ。あの女が助かったのだって、珠子が男に飛び掛かろうとするから、儂が先に投げ飛ばしてやったまでの事。たまたまそうなっただけだというのに礼を言うとは、お前も可笑しな男だな」
「それでも、妹分の千登世が助かったのに変わりはない。よって兄貴分の私が礼を言うのも、可笑しくはない」
「……ふん。ほざけ、阿呆が」
「あぁ。ほざく」
天生の口が一層曲がる。不機嫌な唸り声に、生太郎は顔を上げ、帽子を被り直した。
また、静寂が流れていく。漂う空気は遥かに穏やかとなった。
野良猫達が、二人の周りでゆったりと腰を落ち着けている。むぅ太郎も、どこか嬉しそうに「むぅー」と鳴いた。
「……そろそろ行くか」
徐に、生太郎は腰を上げる。尻を軽く払い、天生を振り返った。視線で促すが、天生は尻と肩を揺らすばかり。
「……まだ気まずいか?」
「……別に、儂は気まずくなど」
「では、怖いか? 倉間さんと顔を合わせるのが」
天生は、何も言わない。唇を尖らして、地面を睨み付けた。
「……大丈夫だ。倉間さんは、お前が心配するような真似はならさない」
「…………本当か」
「あぁ……まぁ、多少は叱られるとは思うが」
天生は、未だ座り込んだまま。中々踏ん切りが付かないらしい。
……仕方ない。
生太郎は内心苦笑いを零し、帽子の鍔を掴んだ。むぅ太郎ごと脱ぐと、そのまま天生の頭へ被せる。
「な、き、貴様。いきなり何をする」
ずり落ちてくる帽子を押さえ、生太郎を睨んだ。
「何って、むぅ太郎を頭へ乗せてやったんだ」
天生は眉間に皺を寄せ、頭上で揺れるむぅ太郎へ視線をやる。
「こうすれば、少なくともお前に不幸は訪れない。例え倉間さんに叱られようとも、何かしらの幸福が起こる。そうだろう、むぅ太郎?」
むぅ太郎は、「むぅー」と真ん丸な体を元気よく跳ねさせた。
「むぅ太郎も、その通りだ、というような事を言っている。だから、その、なんだ」
生太郎は、すっと目を逸らす。
「これだけ心強い味方がいるのだから、怖い事はないだろう」
天生は、息を飲んだ。丸くした目で、生太郎を凝視する。
それから眉を吊り上げ、唇をひん曲げてみせた。
「ふん。そんな事を言って、儂を不幸のどん底に叩き落すつもりだろう」
「……何故そうなるんだ」
「ケサランパサランがどのように幸せを運ぶのか、儂が知らぬとでも思ったか。この阿呆が」
ふんと鼻を鳴らし、天生は帽子の鍔を引き下げる。
「……だが、まぁ、お前がどうしてもと言うのならば、しばしむぅ太郎を預かってやらん事もない」
そう言った天生の耳は、微かに赤く染まっていた。
生太郎は僅かに目を見開き、次いで、細める。
「あぁ、どうしてもだ。頼むぞ」
唸り声に混じって「……おぅ」と聞こえる。
生太郎の口は勝手に緩んだ。だがそれを誤魔化すように、踵を返す。藍色の手拭いを仕舞い、派出所へ向かって一歩足を踏み出した。
瞬間、落ちていた新聞を、踏んだ。
足が後ろへ大きく上がり、狭い路地に痛々しい音が響き渡る。
「うぅ……っ」
うつ伏せに倒れた生太郎は、顔を押さえて蹲った。
むぅ太郎が離れた途端、これか。早速我が身を襲った不幸に歯を噛み締める。
そのまま痛みに打ち震えていると。
「ぶはっ」
後ろから、盛大に吹き出す音が聞こえた。
見れば、天生が顔を背けて立っている。目深に被った帽子を小刻みに震わせ、唇を固く結んでいた。
「……人の不幸がそんなに面白いか」
答えはない。代わりに、天生の震えが一層強まった。
生太郎は大きな溜め息を吐く。
だがその顔は、不幸に見舞われた割に穏やかであった。
生太郎の左腕を、何かが撫でていく。それを撫で返してから、立ち上がった。
こういう不幸ならば、まぁいいか。そんな事を思いながら、今度こそ派出所へ向かい、一歩足を踏み出した。
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