第六話


 巡査の制服に着替えた生太郎しょうたろうは、夜の銀座ぎんざを歩いていた。辺りを見回しながら耳を澄ませる。僅かな気配も逃さぬよう、眉間に皺を寄せた。




「むぅー」




 不意に、頭上のむぅ太郎が、真ん丸な体を揺らした。



 同時に、生太郎の左腕を、何かが撫でていく。




 反射的に左を振り向けば、そこには以前、富久住ふくずみ駄菓子店へ向かう際に使っていた狭い路地があった。

 生太郎は路地へ歩み寄り、中を覗いた。



 野良猫達に混じって、上下黒を纏う少年がいた。捨てられた新聞の上へ座っている。



「……こんな所にいたのか」


 生太郎はほっと胸を撫で下ろし、少年――天生てんせいに近付く。


「ほら、帰るぞ。お前の姿が見えなくて、珠子たまこさんがとても心配している。身重の女性にあまり心労を掛けてやるな」


 だが、天生は抱えた膝に額を押し付けたまま、微動だにしない。生太郎に腕を引かれるも、振り払って一層身を縮込ませた。


 天生を囲む野良猫が、小さく鳴き声を上げる。天生に寄り添う者は慰めるように、生太郎を見上げる者は、まるで責めるような声色を奏でた。


 生太郎は気まずげに頬を掻く。目を彷徨わせると、静かに息を吐いた。

 天生の傍にしゃがみ、横並びで目の前の壁を眺めた。


「……なぁ。ずっとそう蹲っていて、疲れないか?」


 天生からの返事は、ない。


「足を伸ばした方が、楽だと思うぞ。いや、別に、お前がこの方が楽だと言うのなら、気にしないでいいのだが」


 天生は、ぴくりとも動かない。


「……あぁ、そうだ。お前、怪我はしていないか。もししているのなら、この薬を塗るといい。とてもよく効くんだ。きっと痛みもすぐに引くぞ」


 そう言って、懐からはまぐりの殻に入った軟膏を取り出し、天生へ差し出す。

 しかし、受け取る手は、なかった。


「……あー……腹、空いていないか? 近くに、美味い蕎麦屋があるのだが、食べるか?」


 生太郎の声が、虚しく響き、消えていく。

 生太郎は眉を下げて、また頬を掻いた。視線を彷徨わせ、空を見上げる。



 不意に、鼻を啜る音が、耳を掠めた。



 さり気なく目元を拭う天生の姿も、視界の端に映る。



「…………その、なんだ」


 生太郎は、上を向いたまま唇を蠢かす。


「……そんなに、落ち込む必要はないと思うぞ」



 鼻を啜る音が、止まった。



倉間くらまさんはああおっしゃっていたが、あれは単に、お前を奮い立たせようとしただけだと思う。本当にそう思ったのならば、わざわざ口には出さないだろう。苦笑いでも零して、当たり障りなく受け流すというか、放っておかれるというか……それをなさらなかったという事は、お前はまだ、見捨てられたわけでは――」



 つと、隣から、鈍く重い音が上がる。



 天生が、地面へ拳を叩き込んでいた。



 眦をつり上げ、軋む程歯を噛み締める。



「お前に……お前に何が分かる……っ」

「……少なくとも、倉間さんが薄情な方ではないと知っている」



 天生は一層目を尖らせ、生太郎へ勢い良く飛び掛かった。



「そんな事儂だって知っておるっ。その小父貴が、期待外れだと、直々におっしゃったんだぞっ。これを見捨てられたと言わず何と言うのだっ!」


 暴れる天生の足元から、野良猫が一斉に逃げ出す。避ける生太郎の頭上からも、むぅ太郎の鳴き声が上がった。


「お前が思っている程事は単純な話ではないっ! 小父貴に見捨てられたという事は、一族からも見捨てられるという事だっ! 儂の居場所はもうなくなるのだぞっ! 後ろ指を差されながら、一生を過ごさなければならないのだっ! それを、そんな簡単に語るでないっ! 何も知らない癖に……っ、何が落ち込む必要はないだっ! ふざけるなよっ!」

「ちょ、ま、待てっ、落ち着けっ!」

「煩い煩い煩ぁいっ! 黙れこの人間風情がっ!」


 天生は怒りに髪を逆立てる。

 雄叫びと共に、狭い路地を突風が駆け抜けていった。


 生太郎は、咄嗟に腕で顔を庇う。




 と、不意に、生太郎の左腕を、何かが撫でていった。




 反射的に、左へ足を踏み出す。


 すると顔のすぐ横を、天生の蹴りが通過していった。

 壁を殴り付ける音と風圧が、生太郎にぶつかる。


「お前の事は前々から気に入らなかったんだっ! 儂よりも弱い癖に小父貴に認められっ、隙だらけで頼りない癖に珠子も寿男としおもお前を褒めるっ! 可愛えのだってっ、お前を凄いと言うっ!」


 真っ赤にした顔を歪め、拳を突き出す。


「儂の方が何倍も凄いのに……っ、お前ばかり……っ!」


 攻撃が荒々しくなるにつれ、生太郎を襲う風も、激しさを増していく。


「何故お前なんだっ! 何故儂ではないんだっ! お前と儂と、一体何が違うと言うんだっ! おいっ、逃げてばかりいないで答えろっ!」

「ちょ、だ、だから、うぉっ、待てと、言っているだろ……っ!?」


 天生の拳が、頬を掠る。視界の端で、血が数滴舞ったのが見えた。

 走った熱と痛みに、生太郎は動揺する。

 

 続けて迫る第二撃。


 生太郎の体は、咄嗟に動いた。


 天生の攻撃を受け流し、腕を掴んだ。同時に足を掬い払い、背負い投げる。



 天生は、一回転して地面に叩き付けられた。



 しまった。生太郎は、慌てて天生へ手を伸ばす。


「す、すまん。大丈夫か?」


 すると、天生は勢い良く飛び起きた。唸り声を上げ、また生太郎へ飛び掛かる。




「むぅー」




 だが、捨てられていた新聞を、運悪く踏んでしまう。


 天生は足を滑らせ、盛大に倒れ伏した。



 つと、静寂が訪れる。



「お、おい……どうした? どこか打ったのか?」


 生太郎は、うつ伏せのまま動かぬ天生にそっと近付いていく。むぅ太郎も、真ん丸な体を傾けて、天生の様子を窺った。



「…………ぐす……うぅ……っ」



 啜り泣く声が、聞こえてくる。地面に蹲り、天生は小刻みに体を震わせた。


 生太郎は目を瞬かせる。それから息を吐いて、眉間に皺を寄せた。

 天を仰ぎ、しばし唸る。



「……隣の芝生は青い、ということわざを、知っているか? 例え同じものでも、他人の持っているものの方がよく見える、という意味なのだが」



 独り言のように、生太郎は呟く。


「そのことわざのように、私も、自分より他人の方がよく見える事が多々ある。倉間さんのような武術の才は羨ましいと思うし、いわいさんのような話術があればと願った事もある。珠子さんのような丁寧な物腰が出来たならと考えるし、可愛さんのように、他人を思い遣る一言が言えたならどんなにいいだろうかと、夢を見た事もある」


 それから、と、天生へ視線を落とした。



「お前の事も、私は羨ましいと思っている」



 うつ伏せる天生の頭が、ぴくりと動く。


「倉間さんは、お前の精神の成長をとても喜んでいらっしゃる。祝さんと珠子さんは、腹の子の兄として、とても頼もしいとおっしゃっている。可愛さんも、会えば必ずお前の話をする。皆さん、お前を大切に思っているとすぐに分かる程、とても優しい顔をされている。そうやって気に掛けられるお前が、私は、とても羨ましい」


 生太郎の声が、静かに狭い路地へ溶けていく。



 数拍すると、天生が小さく身じろぎした。



「……嘘だ」

「嘘じゃない」

「……でも、小父貴は、そんな事一言も言っていなかった。珠子も、寿男も、可愛だって」

「こういう事は、当人には言わないものなのだろう。現に私も、倉間さん達が私を認めてくれていたと、お前から聞くまで知らなかった」

「……別に、言ってくれて良かったのに」

「照れ臭いのではないか? 面と向かって相手を褒めるというのは、中々難しいと私は思う。礼や気の利いた言葉さえ、私には上手く伝えられない。言おう言おうと思っても、いざ相手の前に立つと、途端に何も言えなくなってしまう。もしかしたら皆さんもそうなのかもしれない」


 天生は、ふぅん、と詰まった鼻を鳴らす。

 さり気なく黒い着物の裾で顔を拭い、のっそりと起き上がった。俯いたまま壁際に腰を下ろす。


 生太郎も、しゃがみ込んだ。懐から藍色の手拭いを取り出し、切った頬を拭う。



 静寂が訪れ、消えた野良猫が、一匹、また一匹と戻ってくる。

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