第五話


 その夜。生太郎しょうたろうは、銀座ぎんざ煉瓦街れんががいから大きく離れた場所を歩いていた。

 ガス灯は大通りにしか設置されていないので、一歩中へ入ってしまえば、そこは江戸と変わらぬ闇が広がっている。月明かりと提灯の灯りだけを頼りに、足を進めていった。


 だが、その歩幅はいつもより狭く、動きもぎこちない。


「むぅー?」


 頭の上に乗るむぅ太郎が、大丈夫か、とばかりに真ん丸な体を傾ける。それに生太郎は、溜め息で答えた。



 その拍子に、顔に付けた白粉と、紅の匂いが、鼻を掠める。



 ……何故私は、このような格好で出歩いているのだろうか。

 己の姿に目を落とす。


 黄八丈きはちじょうの着物に、麻の葉絞りの帯。臙脂えんじの鼻緒が、足を動かす度に裾から覗く。これで三味線や風呂敷包みを抱えていたら、正にお稽古通いの娘と言った風貌になるだろう。



 何度でも思う。


 何故私は、このような姿で出歩いているのだろうか、と。



 だが、既に答えなど分かり切っていた。

 生太郎が囮役だからである。

 だから可愛えのから借りた着物を纏い、化粧をし、女に扮して犯人が引っ掛かるのを待っているのだ。



 分かっては、いる。



 だが、受け入れられるかと言えば、そうでもない。



「っと」


 着物の裾が足に絡まり、たたらを踏んだ。

 女性らしい所作を意識するせいで、非常に動き辛い。内股で歩くのは勿論、脇を締めるやら肩は落とすやら、着付けを手伝ってくれた珠子たまこから多大な注意を受けてきたのだ。

 それではいざという時に戦えないと訴えるも、「その為に天慈てんじお兄様や寿男としおさんがいらっしゃるのでしょう?」と笑顔で切り捨てられた。



 つと、生太郎の肩口で、猫の鳴き声が上がる。


 三毛柄の尻尾が、生太郎の頬を撫でていった。



 ……何故私は、頭にむぅ太郎を、肩にミケを乗せているのだろうか。



 いや、こちらも答えは分かっている。

 倉間くらまが連れて行けと言ったからだ。


 これに関しては全く理解出来ないし、当然受け入れてもいない。ミケが生太郎を女らしく見せてくれる、などと説明されても、納得いくわけがなかった。女らしく見せるどころか、女に見えているのかさえ怪しいのに。




 それでも、断る選択肢は、ないのだ。




 生太郎は、前を向いたまま辺りを探った。誰かがいる気配はない。だが実際は前方にいわいが、後方に倉間が控えている。珠子の配下も、生太郎の周囲に潜んでいるらしい。


 倉間の作戦は単純なものだった。女装した生太郎に襲い掛かる犯人を、祝と倉間で挟み打ちする。それだけだ。

 だがその為には、一本道で襲われる必要がある。前後を塞がれたら逃げ場のない状況でなければ、挟み打ちは成功しない。仮に犯人が十字路や民家の門の傍で襲ってきたとしたら、そこから逃げられる可能性は十分あった。


 その為のむぅ太郎である。


 むぅ太郎の力で、たまたまこの場に現れた犯人が、女装した生太郎にたまたま一本道で襲い掛かるよう仕向けるのだ。そうすれば、至極単純な作戦でも十分捕まえられる。倉間はそう踏んだのだ。



 ……お陰で私は、女装をする羽目になったのだが。



 寄せてしまいそうな眉を堪え、鼻から深く息を吐いた。

 するとむぅ太郎とミケが、どうしたの? とばかりに生太郎の顔を覗き込む。


「……気にするな」


 そうだ、気にする必要はない。これはれっきとした囮捜査なのだ。犯人逮捕に向けた作戦。そう考えれば、この状況も受け入れられる、ような気がしなくもない、と、生太郎は自分に言い聞かせる。そして気合いを入れるように、大きく息を吸い込んだ。




「むぅー」




 その時。



 背後から、生太郎以外の足音が微かに聞こえた。

 吐息を押さえる気配もする。



 興奮と愉悦の入り混じる音に、生太郎は緊張と、怒りを覚えた。相手に気付かれないよう、慎重に深呼吸をする。


 生太郎は後ろを意識しつつ、前を見据えた。後十歩も行けば十字路に差し掛かる。そこを過ぎると、一本道が伸びていた。襲われるには絶好の場所だ。


「……頼むぞ。むぅ太郎」


 任せろ、とばかりの鳴き声が上がる。


 生太郎は乱れそうな歩を整えながら、十字路に踏みいった。背後の気配も続く。足音が徐々に早まり、距離を縮めてきた。


 生太郎はさり気なく身構える。心臓の高鳴りを感じつつ、一つ唾を飲み込んだ――瞬間。




 背後で、一陣の風が吹き抜けた。




「はあぁっ!」


 ほぼ同時に、鈍い打音と濁声も、響き渡る。



 咄嗟に振り返れば、真っ黒な着物と袴を纏う少年が、生太郎の目に飛び込んできた。



 十字路の真ん中で、顔を押さえる大男の姿も見える。


「て、てめぇ、さっきの……っ!」


 大男は、血走った目で少年――天生てんせいを睨み付けた。

 それに答えるように、天生は両腕を胸の前で構える。体勢を低くしたかと思えば、そのまま大男に向かっていった。


「あ、ま、待てっ!」


 しかし生太郎の制止も無視し、大男へ拳を突き上げる。


 大男は首を傾け、寸での所で避けた。天生はすぐさま足を振り上げる。腰の入った攻撃は、またしても空気を切った。

 天生は舌打ちを零し、一回転する。勢いを乗せたまま、更に一歩踏み込んだ。大男の顔目掛け、拳を振り被る。


 だが、大男は天生の手首を掴み止めるや、大きく腕を振った。



 天生ごと高々と掲げ、そのまま地面へ叩き付ける。



「が……っ!」


 顔面から落ちた天生は、体を強張らせるとその場に蹲った。



 痛みに固まる子供を見下ろし、大男は笑う。

 足を持ち上げ、自分より遥かに小さな背中へ、下ろす。



「止めろっ!」


 生太郎は慌てて走り出した。だが着物が足に絡まり、つんのめってしまう。


 体勢を崩しながら、それでも目は天生を捉えている。受け身を取る事も忘れ、持っていた提灯を大男へ投げ付けた。




「むぅー」




 その提灯を追って、生太郎の肩から、ミケが飛び立つ。


 勇ましい唸り声を上げ、提灯を避けた大男へ、前足を振り被った。


 鋭い爪が、大男の目元を切り裂く。顔を覆う大男の腕へ、ミケは更に噛み付いた。


「っ、大丈夫かっ」


 大男の意識が逸れている間に、生太郎は天生の元へ急ぐ。血が垂れる鼻へ、着物の袖を押し当てた。そのまま小さな体を抱え、立ち上がる。


「ちっくしょ……っ」


 つと、猫の悲鳴が上がった。

 塀に叩き付けられたミケが、ぐたりと地面へ横たわる。


 大男は荒い息を立て、血走った目で生太郎達を睨んだ。


「っ! お、お前、男……っ!?」


 目を見開いて、生太郎の姿を凝視する。そんな、やら、小柄な女だった筈なのに、やら口の中で呟いた。



「大丈夫か吉瀬きせっ!」



 祝が道の奥から駆けてくる。大男ははっと顔を顰めると、急いで踵を返した。祝の声から遠ざかっていく。




「むぅー」




 しかしその背中も、すぐに止まった。



 十字路の真ん中に佇む巡査が、自分よりも遥かに大きな男を見据えている。



 普段の柔和な雰囲気からは想像出来ない眼差しに、大男の額から、冷や汗が滲み出た。



「倉間さん……っ」


 生太郎の口から、思わず安堵の息が零れる。反対に男の口からは、歯ぎしりが漏れた。

 一つ、二つと後ずさり、大声を上げて反転する。もがきながら、倉間から逃げ出した。


 戻ってきた男に、生太郎は身構える。塀に張り付き、天生を自分の体で包み込んだ。祝も腰から官棒を抜き、迎え討つ体勢を整える。



 そんな中、倉間だけは至極冷静だった。


 徐に愛用の扇を抜き取ると、何気ない仕草で、扇いだ。




 途端、強烈な風が巻き起こる。




 地面を叩き、跳ね返ったかと思えば、倉間の体ごと空へと舞い上がった。



「……は……?」


 弧を描いて飛んでくる倉間を、生太郎は呆然と目で追い掛けた。塀よりも屋根よりも高い場所で、巡査服の裾が靡いている。


 倉間は大男の頭上で宙返りをするや、一気に降下した。行く手を阻むように着地し、驚きに立ち止まった大男へ、扇を一閃する。




 轟音と突風が、大男を巻き込み、吹き抜けた。




 弧を描く事もなく吹き飛ばされる大男。かと思えば、地面へ二度三度叩き付けられ、転がっていく。

 風が止んだ頃には、うつ伏せでぴくりとも動かなくなった。


「うっしゃあっ! さっすが鬼天狗だぜっ!」


 祝は捕縛用の縄を取り出し、倒れる大男の元へと向かう。


 男を縛り上げる祝を尻目に、生太郎は未だ動けずにいた。一体今のは何だったんだ。現実離れした光景に、頭が追い付かない。



 そんな生太郎に、無表情の倉間が、近付いてくる。

 あまりの迫力に、生太郎の体は勝手に震えた。



「あ、く、倉間さん……」


 倉間は、何も言わない。

 代わりに一つ瞬きをして、生太郎に抱えられた天生の胸倉を、乱暴に掴み上げた。


「天生」


 冷たい声に、天生の体が跳ね上がる。


「何故、お前がここいるんだ。僕は、珠子ちゃん達の護衛を頼んだ筈だよ」

「も、申し訳、ありません。で、ですが、あそこには、既に珠子の手の者がおります。儂がいなくとも問題ないと判断したので、ならば小父貴の元へ行き、お手伝いしようと」

「で、勝手に飛び出して、僕達の作戦を台無しにして、挙げ句返り討ちにされ、吉瀬君に庇われたと、そういう事?」

「そ、それはっ」

「結果としては、そういう事だよね?」

「っ……そう、かもしれません。し、しかしっ、儂は、ただ小父貴のお役に立ちたかっただけなのですっ。天狗を散々馬鹿にされ、黙っていられなかったのですっ! あやつをこの手で捕まえてやりたかったし、そうしなければ儂の気が済まないのですっ!」

「返り討ちにあっておいて、捕まえるも何もないと思うけど」

「それは、その、た、たまたまです。あの時は、たまたま、儂の攻撃を避けられてしまって、たまたま、捕まってしまっただけなのです。儂だって、顔から叩き付けられなければ、すぐにやり返していました。そ、それに、別にそやつに庇われなくとも、儂は平気でした。寧ろ、いらぬ世話を焼かれさえしなければ、こうして小父貴の手を煩わせる事も……っ」



 小さな体が、勢い良く塀へと投げられる。



 辺りに、痛々しい音が響いた。



「……いい加減にしろ」


 倉間の喉から、低い声が絞り出される。


「お前がいくら言い訳を重ねようと、起こってしまった事は変わらない。お前の甘い考えのせいで、珠子ちゃん達が危険に晒されたかもしれない可能性を自覚しろ。お前が油断したせいで、勝てる相手に勝てなかった事実を自覚しろ。お前が自惚れたせいで、吉瀬君がいらぬ世話を焼く羽目になったと自覚しろ」


 堪え切れぬ怒りが、無表情に滲んでいった。


「お前の言うたまたまは、本当にたまたまだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。だがそんな事はどうでもいい。結果として、お前は大きな失態を犯した。僕の役に立ちたいと言いながら、結果として、邪魔をしたに過ぎない」


 ゆっくりと、天生へ近寄っていく。


「でも、それだって、別にいい。いや、よくはないが、情状酌量の余地はある。失敗から学び、二度と同じ事を仕出かさないようしっかりと考え、次に生かすべく努力すればいいだけの話だからね」


 倉間は、塀に張り付く天生の前で、立ち止まる。


「なのにお前ときたらなんだ。言い訳ばかりで、己の仕出かした事を全く受け止めようとしない。更には他人のせいにする。僕は、それが何よりも気に入らない」

「で、でも、小父貴……っ」



「僕はね」


 足を振り上げ、天生の顔面すれすれの場所へ、落とした。



「お前の事を、それなりに評価してたんだよ。だからお前を珠子ちゃん達の護衛に付けた。万が一何か起こったとしても、お前なら守り切ってくれるだろうと、そう思ったんだけどね。お前を預かったのも、僕なりの期待があったからだったんだけど……」


 ふぅと息を吐き、倉間は踵を返す。




「ちょっと、見誤ったのかもしれないな」




 天生が、はっと倉間を見る。


 だが、倉間は一切目をやる事なく、吉瀬に近付いた。


「大丈夫、吉瀬君? 怪我は?」

「あ、は、はい。私は、大丈夫です」

「そう、良かった。じゃあ悪いけど、君は天生と先に派出所へ戻ってて貰えるかな? 珠子ちゃん達に、もう大丈夫だって伝えてあげて」

「分かりました」

「よろしく。むぅ太郎も、もう少しだけ吉瀬君を守ってね」


 任せろ、とばかりにむぅ太郎は真ん丸な体を「むぅー」と揺らした。倉間は小さく微笑むと、祝に縛り上げられた大男の元へ向かう。


 生太郎は、ゆっくりと塀を振り返った。俯いて座り込む天生を、見下ろす。


「……おい、行くぞ」


 しかし、天生は微動だにしない。微かに肩を震わせて、鼻を啜っている。


 生太郎は静かに溜め息を零した。

 天生に近付くと、徐に足と背中へ腕を回す。赤子のように縦抱きで担ぎ、歩き出した。


 肩口が、じわりじわりと濡れていく。冷たさも広がっていくが、生太郎は見て見ぬふりをして、足早に派出所へ向かった。

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