第五話
その夜。
ガス灯は大通りにしか設置されていないので、一歩中へ入ってしまえば、そこは江戸と変わらぬ闇が広がっている。月明かりと提灯の灯りだけを頼りに、足を進めていった。
だが、その歩幅はいつもより狭く、動きもぎこちない。
「むぅー?」
頭の上に乗るむぅ太郎が、大丈夫か、とばかりに真ん丸な体を傾ける。それに生太郎は、溜め息で答えた。
その拍子に、顔に付けた白粉と、紅の匂いが、鼻を掠める。
……何故私は、このような格好で出歩いているのだろうか。
己の姿に目を落とす。
何度でも思う。
何故私は、このような姿で出歩いているのだろうか、と。
だが、既に答えなど分かり切っていた。
生太郎が囮役だからである。
だから
分かっては、いる。
だが、受け入れられるかと言えば、そうでもない。
「っと」
着物の裾が足に絡まり、たたらを踏んだ。
女性らしい所作を意識するせいで、非常に動き辛い。内股で歩くのは勿論、脇を締めるやら肩は落とすやら、着付けを手伝ってくれた
それではいざという時に戦えないと訴えるも、「その為に
つと、生太郎の肩口で、猫の鳴き声が上がる。
三毛柄の尻尾が、生太郎の頬を撫でていった。
……何故私は、頭にむぅ太郎を、肩にミケを乗せているのだろうか。
いや、こちらも答えは分かっている。
これに関しては全く理解出来ないし、当然受け入れてもいない。ミケが生太郎を女らしく見せてくれる、などと説明されても、納得いくわけがなかった。女らしく見せるどころか、女に見えているのかさえ怪しいのに。
それでも、断る選択肢は、ないのだ。
生太郎は、前を向いたまま辺りを探った。誰かがいる気配はない。だが実際は前方に
倉間の作戦は単純なものだった。女装した生太郎に襲い掛かる犯人を、祝と倉間で挟み打ちする。それだけだ。
だがその為には、一本道で襲われる必要がある。前後を塞がれたら逃げ場のない状況でなければ、挟み打ちは成功しない。仮に犯人が十字路や民家の門の傍で襲ってきたとしたら、そこから逃げられる可能性は十分あった。
その為のむぅ太郎である。
むぅ太郎の力で、たまたまこの場に現れた犯人が、女装した生太郎にたまたま一本道で襲い掛かるよう仕向けるのだ。そうすれば、至極単純な作戦でも十分捕まえられる。倉間はそう踏んだのだ。
……お陰で私は、女装をする羽目になったのだが。
寄せてしまいそうな眉を堪え、鼻から深く息を吐いた。
するとむぅ太郎とミケが、どうしたの? とばかりに生太郎の顔を覗き込む。
「……気にするな」
そうだ、気にする必要はない。これはれっきとした囮捜査なのだ。犯人逮捕に向けた作戦。そう考えれば、この状況も受け入れられる、ような気がしなくもない、と、生太郎は自分に言い聞かせる。そして気合いを入れるように、大きく息を吸い込んだ。
「むぅー」
その時。
背後から、生太郎以外の足音が微かに聞こえた。
吐息を押さえる気配もする。
興奮と愉悦の入り混じる音に、生太郎は緊張と、怒りを覚えた。相手に気付かれないよう、慎重に深呼吸をする。
生太郎は後ろを意識しつつ、前を見据えた。後十歩も行けば十字路に差し掛かる。そこを過ぎると、一本道が伸びていた。襲われるには絶好の場所だ。
「……頼むぞ。むぅ太郎」
任せろ、とばかりの鳴き声が上がる。
生太郎は乱れそうな歩を整えながら、十字路に踏みいった。背後の気配も続く。足音が徐々に早まり、距離を縮めてきた。
生太郎はさり気なく身構える。心臓の高鳴りを感じつつ、一つ唾を飲み込んだ――瞬間。
背後で、一陣の風が吹き抜けた。
「はあぁっ!」
ほぼ同時に、鈍い打音と濁声も、響き渡る。
咄嗟に振り返れば、真っ黒な着物と袴を纏う少年が、生太郎の目に飛び込んできた。
十字路の真ん中で、顔を押さえる大男の姿も見える。
「て、てめぇ、さっきの……っ!」
大男は、血走った目で少年――
それに答えるように、天生は両腕を胸の前で構える。体勢を低くしたかと思えば、そのまま大男に向かっていった。
「あ、ま、待てっ!」
しかし生太郎の制止も無視し、大男へ拳を突き上げる。
大男は首を傾け、寸での所で避けた。天生はすぐさま足を振り上げる。腰の入った攻撃は、またしても空気を切った。
天生は舌打ちを零し、一回転する。勢いを乗せたまま、更に一歩踏み込んだ。大男の顔目掛け、拳を振り被る。
だが、大男は天生の手首を掴み止めるや、大きく腕を振った。
天生ごと高々と掲げ、そのまま地面へ叩き付ける。
「が……っ!」
顔面から落ちた天生は、体を強張らせるとその場に蹲った。
痛みに固まる子供を見下ろし、大男は笑う。
足を持ち上げ、自分より遥かに小さな背中へ、下ろす。
「止めろっ!」
生太郎は慌てて走り出した。だが着物が足に絡まり、つんのめってしまう。
体勢を崩しながら、それでも目は天生を捉えている。受け身を取る事も忘れ、持っていた提灯を大男へ投げ付けた。
「むぅー」
その提灯を追って、生太郎の肩から、ミケが飛び立つ。
勇ましい唸り声を上げ、提灯を避けた大男へ、前足を振り被った。
鋭い爪が、大男の目元を切り裂く。顔を覆う大男の腕へ、ミケは更に噛み付いた。
「っ、大丈夫かっ」
大男の意識が逸れている間に、生太郎は天生の元へ急ぐ。血が垂れる鼻へ、着物の袖を押し当てた。そのまま小さな体を抱え、立ち上がる。
「ちっくしょ……っ」
つと、猫の悲鳴が上がった。
塀に叩き付けられたミケが、ぐたりと地面へ横たわる。
大男は荒い息を立て、血走った目で生太郎達を睨んだ。
「っ! お、お前、男……っ!?」
目を見開いて、生太郎の姿を凝視する。そんな、やら、小柄な女だった筈なのに、やら口の中で呟いた。
「大丈夫か
祝が道の奥から駆けてくる。大男ははっと顔を顰めると、急いで踵を返した。祝の声から遠ざかっていく。
「むぅー」
しかしその背中も、すぐに止まった。
十字路の真ん中に佇む巡査が、自分よりも遥かに大きな男を見据えている。
普段の柔和な雰囲気からは想像出来ない眼差しに、大男の額から、冷や汗が滲み出た。
「倉間さん……っ」
生太郎の口から、思わず安堵の息が零れる。反対に男の口からは、歯ぎしりが漏れた。
一つ、二つと後ずさり、大声を上げて反転する。もがきながら、倉間から逃げ出した。
戻ってきた男に、生太郎は身構える。塀に張り付き、天生を自分の体で包み込んだ。祝も腰から官棒を抜き、迎え討つ体勢を整える。
そんな中、倉間だけは至極冷静だった。
徐に愛用の扇を抜き取ると、何気ない仕草で、扇いだ。
途端、強烈な風が巻き起こる。
地面を叩き、跳ね返ったかと思えば、倉間の体ごと空へと舞い上がった。
「……は……?」
弧を描いて飛んでくる倉間を、生太郎は呆然と目で追い掛けた。塀よりも屋根よりも高い場所で、巡査服の裾が靡いている。
倉間は大男の頭上で宙返りをするや、一気に降下した。行く手を阻むように着地し、驚きに立ち止まった大男へ、扇を一閃する。
轟音と突風が、大男を巻き込み、吹き抜けた。
弧を描く事もなく吹き飛ばされる大男。かと思えば、地面へ二度三度叩き付けられ、転がっていく。
風が止んだ頃には、うつ伏せでぴくりとも動かなくなった。
「うっしゃあっ! さっすが鬼天狗だぜっ!」
祝は捕縛用の縄を取り出し、倒れる大男の元へと向かう。
男を縛り上げる祝を尻目に、生太郎は未だ動けずにいた。一体今のは何だったんだ。現実離れした光景に、頭が追い付かない。
そんな生太郎に、無表情の倉間が、近付いてくる。
あまりの迫力に、生太郎の体は勝手に震えた。
「あ、く、倉間さん……」
倉間は、何も言わない。
代わりに一つ瞬きをして、生太郎に抱えられた天生の胸倉を、乱暴に掴み上げた。
「天生」
冷たい声に、天生の体が跳ね上がる。
「何故、お前がここいるんだ。僕は、珠子ちゃん達の護衛を頼んだ筈だよ」
「も、申し訳、ありません。で、ですが、あそこには、既に珠子の手の者がおります。儂がいなくとも問題ないと判断したので、ならば小父貴の元へ行き、お手伝いしようと」
「で、勝手に飛び出して、僕達の作戦を台無しにして、挙げ句返り討ちにされ、吉瀬君に庇われたと、そういう事?」
「そ、それはっ」
「結果としては、そういう事だよね?」
「っ……そう、かもしれません。し、しかしっ、儂は、ただ小父貴のお役に立ちたかっただけなのですっ。天狗を散々馬鹿にされ、黙っていられなかったのですっ! あやつをこの手で捕まえてやりたかったし、そうしなければ儂の気が済まないのですっ!」
「返り討ちにあっておいて、捕まえるも何もないと思うけど」
「それは、その、た、たまたまです。あの時は、たまたま、儂の攻撃を避けられてしまって、たまたま、捕まってしまっただけなのです。儂だって、顔から叩き付けられなければ、すぐにやり返していました。そ、それに、別にそやつに庇われなくとも、儂は平気でした。寧ろ、いらぬ世話を焼かれさえしなければ、こうして小父貴の手を煩わせる事も……っ」
小さな体が、勢い良く塀へと投げられる。
辺りに、痛々しい音が響いた。
「……いい加減にしろ」
倉間の喉から、低い声が絞り出される。
「お前がいくら言い訳を重ねようと、起こってしまった事は変わらない。お前の甘い考えのせいで、珠子ちゃん達が危険に晒されたかもしれない可能性を自覚しろ。お前が油断したせいで、勝てる相手に勝てなかった事実を自覚しろ。お前が自惚れたせいで、吉瀬君がいらぬ世話を焼く羽目になったと自覚しろ」
堪え切れぬ怒りが、無表情に滲んでいった。
「お前の言うたまたまは、本当にたまたまだったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。だがそんな事はどうでもいい。結果として、お前は大きな失態を犯した。僕の役に立ちたいと言いながら、結果として、邪魔をしたに過ぎない」
ゆっくりと、天生へ近寄っていく。
「でも、それだって、別にいい。いや、よくはないが、情状酌量の余地はある。失敗から学び、二度と同じ事を仕出かさないようしっかりと考え、次に生かすべく努力すればいいだけの話だからね」
倉間は、塀に張り付く天生の前で、立ち止まる。
「なのにお前ときたらなんだ。言い訳ばかりで、己の仕出かした事を全く受け止めようとしない。更には他人のせいにする。僕は、それが何よりも気に入らない」
「で、でも、小父貴……っ」
「僕はね」
足を振り上げ、天生の顔面すれすれの場所へ、落とした。
「お前の事を、それなりに評価してたんだよ。だからお前を珠子ちゃん達の護衛に付けた。万が一何か起こったとしても、お前なら守り切ってくれるだろうと、そう思ったんだけどね。お前を預かったのも、僕なりの期待があったからだったんだけど……」
ふぅと息を吐き、倉間は踵を返す。
「ちょっと、見誤ったのかもしれないな」
天生が、はっと倉間を見る。
だが、倉間は一切目をやる事なく、吉瀬に近付いた。
「大丈夫、吉瀬君? 怪我は?」
「あ、は、はい。私は、大丈夫です」
「そう、良かった。じゃあ悪いけど、君は天生と先に派出所へ戻ってて貰えるかな? 珠子ちゃん達に、もう大丈夫だって伝えてあげて」
「分かりました」
「よろしく。むぅ太郎も、もう少しだけ吉瀬君を守ってね」
任せろ、とばかりにむぅ太郎は真ん丸な体を「むぅー」と揺らした。倉間は小さく微笑むと、祝に縛り上げられた大男の元へ向かう。
生太郎は、ゆっくりと塀を振り返った。俯いて座り込む天生を、見下ろす。
「……おい、行くぞ」
しかし、天生は微動だにしない。微かに肩を震わせて、鼻を啜っている。
生太郎は静かに溜め息を零した。
天生に近付くと、徐に足と背中へ腕を回す。赤子のように縦抱きで担ぎ、歩き出した。
肩口が、じわりじわりと濡れていく。冷たさも広がっていくが、生太郎は見て見ぬふりをして、足早に派出所へ向かった。
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