第四話
それから
大抵は
変わりはないか確認し、軽く世間話をしたら生太郎はすぐ帰るのだが、その際可愛は必ず「いってらっしゃい」や「お仕事頑張って下さい」と声を掛けた。
何気ない一言だが、生太郎はいつもむず痒い気持ちに襲われた。
決して嫌ではないのだが、何とも言えぬ感覚に困惑し、結果毎回大した返事も出来ず、ただ帽子を持ち上げて頷くだけだった。
そんな自分が情けなく、次こそはきちんと礼を言おうと意気込むも、未だ成功には至っていない。
例の通り魔も、未だ捕まっていなかった。
注意を呼び掛けたお陰で、若い女性だけでなく犯人も隠れてしまったらしい。
被害が広がるよりはましだが、このままではみすみす取り逃がしてしまうかもしれない、という不安が、生太郎達に過ぎり始めた。
そんなある日の夕方。
派出所に、
「千登世っ!」
派出所の奥にある宿直室へ、千登世の母、
「大丈夫っ? あぁ、こんなにほっぺが腫れて……っ。もうっ、何でもっと早く帰ってこなかったのっ。生ちゃんにも気を付けるよう言われてたでしょっ! あんたにまでもしもの事があったら……っ、お母さんとお父さんはどうしたらいいのよぉ……っ!」
目に涙を湛えて震える母に、千登世は「……ごめん」と俯くしかなかった。
「千登世さんのお母様」
珠子は、すっと居住まいを正す。
「どうか叱らないであげて下さいませ。千登世さんは、わたくしを心配して家まで送って下さったのです。わたくしがきちんとお断りしていれば、大事なお嬢様が怪我をする事はなかったでしょう。大変申し訳ございませんでした」
「ち、違うのよお母さん。悪いのは、大丈夫だって言い張った私なの。いざという時は、
「最終的に応じたのはわたくしです。それに千登世さんが帰る際、信頼の置ける方に頼んで送り届けて頂くべきでした。判断を誤ったのはわたくしですわ」
「でもっ、最初に我が儘を言ったのは私でっ」
「――双方、一旦落ち着きましょう」
不意に、手を叩く音が響く。
壁際に控えていた生太郎へ、視線が集まった。
「それぞれ思う事はあるでしょうが、私から言わせて頂くと、どちらにも非はありません。悪いのは千登世を襲った犯人であり、千登世は被害者であり、珠子さんは千登世の悲鳴に気付いて駆け付けて下さった恩人です」
冷静に語る生太郎に飲まれたのか、この場の雰囲気は徐々に落ち着きを取り戻す。
「……おばさん。千登世は無事だ。少し休んだら、すぐ家に帰れる」
「……本当に?」
喜久乃の視線が、生太郎から千登世へ移る。千登世は、血の滲む口角を持ち上げ、出来る限りの笑顔で頷いた。
喜久乃は唇を歪め、それから、珠子を振り返る。
「……娘を助けて下さって、本当に、本当にっ、ありがとうございました……っ」
床へ、水滴が点々と垂れ落ちた。千登世も涙を浮かべ、母の手を握り締める。
邪魔をしないよう、生太郎は静かに部屋を後にした。
派出所の待機室では、千登世の父である
「……止めてくれよ、旦那。旦那が謝る事でもねぇし、ましてや旦那の嫁さんが悪いわけでもねぇんだから」
「ですが、俺の妻に付き添ってくれたせいで」
「千登世は、ちょいと運が悪かっただけだ。そういう時は誰にだってあるだろ」
「幸坂さん」
「頼むよ旦那、どうかそういう事にしてくれ。俺にあんたを殴らせないでくれ。そんな事したら、俺はまた千登世に怒られちまう」
寅吉はぎこちなく口角を上げると、生太郎に気が付いた。
「おぅ、生ちゃん。千登世の様子はどうだ? 大丈夫なのか?」
「あぁ、今は大分落ち着いている。けれど、もしかしたらやせ我慢をしているだけかもしれないから、しばらくは注意してやってくれ」
「そうか、分かった。それで、その……」
つと、目を逸らす。
「千登世は、どん位怪我を……」
「……顔を殴られたらしい。頬が腫れて、口の端を少し切っている。擦り傷もいくつかあるが、それ以外に大きなものはない。祝さんの奥様が確認して下さったから、間違いない」
「じゃあ、傷は」
「しばらくすれば、綺麗に消えるだろう」
「……そうか……そうかぁ……っ」
腹の底から息を吐き出す虎吉。抜けていく肩の力に、生太郎も胸を撫で下ろす。
「さぁ、千登世に顔を見せてやってくれ。こういう時は、家族が傍にいてくれるだけで心強いものだ」
「あぁ、ありがとうな生ちゃん。旦那も、ありがとうございました」
虎吉は頭を下げると、奥の宿直室へ向かった。
戸の閉まる音が、部屋に小さく響く。
「……本当に、ちぃちゃんは大丈夫なのか?」
徐に、祝が口を開いた。
その顔には、いつも浮かべている笑みなどない。
「えぇ」
「心もか?」
「……それは、分かりません。ですが、千登世は珠子さんに付き添った事を後悔していませんよ。寧ろ、珠子さんが襲われなくて良かったと思っている筈です」
迷う事なく、言い切った。
「そういう奴なんですよ、あいつは」
生太郎は、宿直室の戸を見つめた。奥から、千登世と父の声が微かに聞こえてくる。
祝は俯き、拳を握り締めた。
「……ですが、それでも責められないのは、辛いですよね」
はっと祝は目を見開き、顔を上げる。
「守れたかもしれない時は、尚更きつい」
宿直室を向いたまま、生太郎は静かに瞬きをした。
何かが撫でていった左腕を、ゆっくりと擦り返す。
「……そうだなぁ……お前の言う通りだ」
祝は溜め息を零し、握り込んでいた拳を開いた。帽子の鍔を摘まんで、被り直す。
不意に、派出所の出入り口が開いた。
巡査服と黒一色の袴姿が、ガス灯の灯りに照らし出される。
「おぉ、天狗さんか。お帰んなさい。
「……誰が天生だ。天生様と呼べ、この馬鹿者」
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。それで、天狗さん。どうでしたか。犯人の目星は付きましたか?」
「うん。一応はね」
おぉ、と生太郎達から声が上がる。
「現場には足跡と血位しか残ってなかったけど、珠子ちゃんと天生の目撃証言から推測するに、相手は五尺八寸の大男。しかも、天生に投げ飛ばされても逃げる元気があるような人物だ。かなり特徴的だから、絞り込むのは左程難しくなかったよ。天生にも確認して貰ったし、そいつが千登世ちゃんを襲った犯人と見てほぼ間違いないだろう」
「流石は天狗さん。んじゃあ、早速捕まえに行きますか」
「所が、そういうわけにもいかないんだよねぇ」
眉を顰める生太郎と祝に、
「まぁ簡単に言えば、お偉いさんの息子なんだよ。相手が。だからたかが目撃証言だけじゃ、しらばっくれられる可能性が大いにある。場合によっては、こちらが悪いって事にもされかねない」
諭すように優しく語り、肩を竦める。
そして。
「――だから、現行犯逮捕しようと思うんだ」
迫力のある微笑みを、浮かべた。
待機室の空気が変わり、一瞬、沈黙が落ちる。
「……それは、囮を使って誘き出す、という事ですか?」
生太郎の問いに、倉間は頷く。だが、一体誰が囮役をやるというのか。相手は並大抵の者ではない。下手をすれば、囮が人質になる可能性もある。
生太郎が疑問に思っていると。
「大丈夫。僕に考えがあるから」
そう言って、一つ手を叩いた。
「さて、そういうわけで君達にも協力して欲しいんだけど、いいかな?」
「いいかなって、それ、断る選択肢はあるんすか?」
「んー、ないかな」
「だと思いました。ま、いいっすけどね。最初から断るつもりありませんし」
「ありがとう。じゃあ早速だけど、祝君は、珠子ちゃんの所の子を少し借りてもいいか、珠子ちゃんに確認してきて貰える? もし了承を得られたら、そうだな。十から十五名を連れてここに戻ってきて。吉瀬君は、富久住さんの所に行って、むぅ太郎かぷぅ助を借りてきて貰えるかな?」
祝は「了解っす」とすぐさま宿直室へ向かう。生太郎も出掛けるべく、念の為壁に掛かったサーベルと官棒を腰へ差していく。
と、今まで大人しくしていた天生が、倉間の元へ駆け寄った。
「小父貴っ。儂は? 儂は何をすれば良いのですか?」
「天生はことが終わるまで、ここで珠子ちゃん達の護衛をしていて」
えっ? と天生は、与えられた役目に目を見開き、固まった。
「珠子ちゃんも身重だし、千登世ちゃんのご家族は普通の人だからね。万が一の事もないよう、しっかり守ってあげるんだよ」
「で、ですが、小父貴。護衛ならば、そこの者がやれば良いのでは?」
と、生太郎へ視線を向ける。
「その者も、一応武術の心得があるようですが、所詮は凡人程度。小父貴のお役に立つとは思えません」
「そんな事ないよ。吉瀬君はとても頼りになる。それに強いよ」
「儂の方が強いです。必ずや小父貴のお役に立ってみせますっ」
「うん、ありがとう。でも、天生にはここに残って貰う」
「っ、何故ですっ。何故儂を使って下さらないっ」
「使ってるよ。僕は天生に、珠子ちゃん達の護衛を頼んでるじゃないか」
「儂はそんな事がしたいんじゃないっ! 小父貴と共に戦いたいんですっ! そうしてあの憎き犯人をこてんぱんに――」
「天生」
つと、倉間の声質が、変わった。
反射的に天生は口を止める。
生太郎も、息を飲んだ。
「僕は、さっき言ったよね。『断る選択肢はない』って」
口角を持ち上げ、優しく語っていく。
その眼力に、天生の体が小さく跳ねた。
「天生」
「……っ、は、はい」
「僕は君に、ここへ残って、珠子ちゃん達の護衛を頼みたい。やってくれるね?」
「…………はい……」
天生は、ゆっくりと俯いていく。唇を噛み締める甥を、倉間は静かに見下ろした。
「……ん? あれ、どうしたの吉瀬君? 何かあった?」
「あ……いえ」
「そう。じゃあ悪いけど、出来るだけ早く富久住さんの所に行ってきて貰えるかな?」
「はい」
生太郎は頭を下げ、すぐさま踵を返す。
そんな生太郎の背中に、「あ、そうだ」と倉間は手を伸ばした。
「ついでに、可愛ちゃんから借りてきて欲しいものがあるんだけど、いいかな?」
「は、はぁ、分かりました。それで、そのものというのは?」
首を傾げる生太郎に、倉間は微笑み掛ける。
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