第三話
仕事を終えた
いつものように狭い路地へ入ろうとして、そう言えば、と以前派出所へきた
……試しに行ってみるか。
生太郎は、大通りを進んでいく。いつぞやに
珠子用の駄菓子を買いにきて以来の景色が、目の前に広がる。特に変わった様子はない。
今回は、果たして無事辿り着くのだろうか。疑問を覚える半面、辿り着かないなら着かないで構わないとも思っていた。ならばいつもと同じように、野良猫を跨いで狭い路地を通ればいいだけの事。特に苛立ちも覚えはしない。
それに、僅かでも時間を掛けた方が、心の準備も出来るというものだ。
あの雨の日以来、生太郎は富久住駄菓子店へ行こうとすると、毎回足が重くなった。
別に買い出しが嫌なわけではない。
ただ、
図らずとも相合傘をしてしまった事。
すぐ傍に感じる体温や、どうにもむず痒い感覚。
なにより、よろめく可愛を受け止めたお陰で、半ば抱き合ってしまった事。
何とも言えぬ感情に苛まれ、どうしても平静を保てなかった。
それは、可愛も同じだったようだ。
だがこちらは、生太郎よりも立ち直るのが早かった。二・三度会った後は、今までと変わらぬ様子で接している。
可笑しな態度なのは、自分だけ。その事実が生太郎を焦らせ、結果、未だに悶々と悩む羽目になってしまったのだ。
「はぁ……」
自分の情けなさにほとほと嫌気が差す。そしてその度、自身に言い聞かせる。
別に深く考える事はない。あれはただの事故だ。何の意味も思惑もない。だから恥ずかしがる必要も、可愛を意識する必要もない。極々普通に、
そうだ、そうなんだ。生太郎は、何度も深く頷いた。
と、不意に、左腕を何かが撫でていく。
生太郎は咄嗟に足を止めた。左を振り返る。
そこには目的の店があった。少し後ろに、富久住駄菓子店という看板が見える。
「……あぁ、行き過ぎる所だったか」
自分の左腕を擦り、数歩戻る。出入り口の前に佇んで、一度深呼吸をした。
よし、行くぞ。
気合いを入れてから、生太郎は戸へ手を伸ばした。
瞬間、生太郎と戸の間を、突風が吹き抜ける。
生太郎は思わず目を瞑った。伸ばした腕を引っ込め、顔を庇う。
数拍すると、風がゆっくりと納まる。
生太郎は顔を顰めたまま、目を開けた。
「……ん?」
戸の真ん前に、いつの間にか少年が立っていた。
この辺りでは珍しい黒い着物と黒い袴姿で、腕を組みながら生太郎を睨んでいる。
「……すまないが、そこを退いて貰えるか?」
しかし、少年は動かない。
「……すまない。中へ入りたいのだが」
「帰れ」
可愛くない態度で、少年は無下なく突っぱねる。
「……それは出来ない。私も仕事でここへきているのだからな」
「嘘吐け」
「嘘ではない。
少年の眉が、ぴくりと跳ねる。
一層目付きを鋭くし、生太郎を見据えた。
「……そうやって小父貴の名を出せば、儂が引き下がるとでも思ったか」
……小父貴? 生太郎は、微かに眉を顰める。
「お前のような輩はこの場所に相応しくない。早々に立ち去れ。でなければ、また痛い目を見る事になるぞ」
そう言うと、少年は片足を引き、腰を落とした。両腕を持ち上げて攻撃の構えを取る。流れるような動きに一切の隙はない。
生太郎は、場違いにも感心してしまった。これで頭も良ければ、是非警察官になって貰いたいものだ。威嚇する少年を見下ろし、深く頷く。
「あれ、巡査のお兄さん?」
不意に、別の子供の声が聞こえた。
見れば、以前かっぱらいを捕まえた際、人力車に乗っていた洋装の少年がいた。
「あ、やっぱりそうだ。こんにちはー」
「あぁ、こんにちは。お前は確か、
「はい、そうです。
太一は顔を綻ばせると、生太郎達の元へ近付いてくる。
「あ、
「……天生君ではない。天生様と呼べ」
「はいはい。こんにちはー天生様ー」
天生と呼ばれた黒い袴姿の少年は、「うむ」と満足気に頷き返した。
そこで、生太郎も思い出す。
こいつ、尻に蹴りを食らわせてきた倉間の甥っこだ、と。
「なぁに? 今日も通せんぼしてるの?」
「通せんぼではない。儂は不埒な輩が入ってこぬよう、見張っておるだけだ」
「それを通せんぼって言うんだよ。ほら、退いて退いて。僕、ぼーろを買いにきたんだから。ね、お願い天生様」
「む……仕方ないのぉ」
天生は、渋々横へずれる。
「わぁ、ありがとう」
太一は頭を下げると、生太郎の手を握り、天生の脇を通り抜けようとした。
「おい待て」
天生は素早く行く手を遮る。
「何故こやつまで連れていこうとする」
「え? だってお兄さん困ってるみたいだから」
「儂が許可したのはお前だけだ。よってこやつを通すわけにはいかん」
「別にいいじゃない。お兄さんは、ほら、あれだよ。僕の連れだよ。だから一緒に入らなきゃいけないんだ」
「そんなわけあるか。お前らは先程ここで会ったばかりだろうが」
「もう、細かい事気にするんだから。器が小さいなぁ」
「なっ、き、貴様っ。この倉間一族分家筆頭の嫡男である儂を愚弄するつもりかっ」
「ほら、そうやってすーぐ自分の肩書き振りかざすんだから。天狗さんにまた怒られるよ?」
「えっ、そ、それは、困る」
「なら通っていいよね」
太一はにっこり口角を持ち上げるや、天生を無視して戸を開けた。生太郎を引っ張り、店へと入る。
「こんにちはー」
「はーい、いらっしゃいませー」
店の奥から、とたとたと足音が近付いてくる。
中の間と繋がる戸が開き、可愛が顔を出した。その手には、真っ白い毛玉が乗っている。
「あ、太一君だ。いらっしゃい。
愛嬌のある笑みを浮かべる可愛。
生太郎は、思わず目を逸らしてしまった。
「あのねお姉さん」
太一は生太郎の手を掴んだまま、可愛の元へ向かう。
「このお兄さん、何かご用があるみたいだよ。でも天生君が通せんぼして、中に入れないで困ってたんだ」
「だからっ、儂は通せんぼなどしておらんと言っただろうがっ」
後からやってきた天生が、太一の頭をぽかりと叩く。
「もう、駄目よ天生君。お友達を叩いたりしちゃ」
「べ、別に、こいつは友達などでは……」
「それに、お店の前で通せんぼするのもいけません。お客さんが困っちゃうでしょう?」
「だが、こ、こやつは客ではない。仕事にかこつけて、厭らしい事を考えておるのだ。そうに決まっておるっ」
「そんなわけないでしょ。吉瀬さんは巡査で、倉間さんの後輩なのよ? 倉間さんの後輩が、そんな事を考えるわけないじゃない。ねぇ、吉瀬さん?」
生太郎の脳裏に、一瞬あの雨の日の出来事が過ぎった。
けれどすぐさま振り払い、やや大げさに「その通りだ」と頷いてみせる。
「はい。じゃあ話も解決した所で、天生君と太一君は駄菓子を選んできて下さい。私は吉瀬さんとお仕事の話をしますから」
「む、儂も同席するぞ。こやつと二人になるなど危険だ。何が起こるか分かったものでは」
「はいはーい。あっち行こうねー」
太一は強引に天生を連れていってしまう。何やら文句が聞こえるも、戻ってくる気配はない。
「すみません、吉瀬さん。天生君も悪い子じゃないんですよ。ただ、ちょっと不器用なだけでして」
「いや、大丈夫だ。気にしていない」
首を振る生太郎に、可愛はほっと胸を撫で下ろした。
「それで、ご用とは何でしょう? お仕事の、という事は、こちらの関係ですか?」
可愛は、むぅ太郎を持ち上げてみせる。
むぅ太郎は「むぅー」と一つ飛び跳ねた。
「いや、そういうわけではない。今回はただの様子見だ」
「様子見、ですか?」
「あぁ。近頃、この界隈で起こっている連続通り魔事件を知っているか?」
「はい。あの、あれですよね。天狗がどうのこうのっていう」
「……言っておくが、今回の事件と天狗は、何の関連性もない。どこぞの記者がでっち上げたほら吹き話だ。安易に信じると恥を掻く事になるから、止めた方がいい」
「あ、それは大丈夫です。私も、私の周りも、皆信じていませんから。でも、かなり話題になっていますよね。倉間さんの事も含めて」
「……あぁ。嘆かわしい限りだ」
溜め息を吐く生太郎。可愛も苦笑いを零した。
「だが、通り魔が出没しているのは事実だ。これ以上被害を出さない為にも、どうか十分注意して欲しい。具体的には、人気のない場所へは行かない。暗くなる前に家へ帰る。安易に一人で出歩かない、などだな」
「はい、分かりました」
「それで、様子見についてだが、こちらは倉間さんの要請によるものだ。一日に最低一度は、富久住駄菓子店へ顔を出すようにと。この店には、その、あれがいるから、大丈夫だろうとはおっしゃっていたんだが、念の為に、とな」
「まぁ、そうなんですか。わざわざありがとうございます」
可愛が頭を下げると、むぅ太郎も「むぅー」と真ん丸な体を前に曲げる。二人の息の合った動きに、生太郎の眉間は僅かに緩んだ。
「そういうわけだから、他の家人にも私が来る事を伝えておいてくれ」
「はい、分かりました」
「それで早速だが、何か変わった事はあっただろうか? この店以外の事でもいい。身の回りで妙な事が起こったり、噂を聞いたりなどは」
「何もないわ」
不意に、つっけんどんな声が割って入った。
塩煎餅を持った天生が、足取り荒く近付いてくる。その後ろから、ぼーろ片手に太一もやってきた。
「変わった事もなければ身の回りで妙な事も起こってはおらぬ。分かったか。分かったならばさっさと帰れ。目障りだ」
「ちょっとちょっと、天生君が答えてどうするのさ。お兄さんはお姉さんに聞いたんだよ?」
「儂は今日、ずっとここで可愛といた。可愛の返事は儂も知っておる。よって儂が答えても問題はない」
尊大に言い切ると、じろりと隣を睨む。
「それと太一。天生君ではなく、天生様だ。物覚えの悪い奴だな」
「はいはい、ごめんね天生様ー。あ、お姉さん。これ下さーい」
太一は軽くあしらい、持っていたぼーろを可愛に差し出す。
「……可愛さん。こいつの言った事は本当か?」
「誰がこいつだ。この無礼者」
「こら、そんな口の利き方しちゃ駄目でしょう」
可愛が眉をつり上げてみせれば、天生も眉をつり上げそっぽを向いた。懐から取り出した小銭を可愛へ押し付け、無言で塩煎餅を齧る。
「もう……ごめんなさい、吉瀬さん」
「いや、私は気にしていない」
可愛は申し訳なさそうに微笑み、新聞紙で作った紙袋へぼーろを入れる。
「今日は、特に変わった事はありませんでした。いつも通りです。この後も出掛ける用事はありませんから、何事もなく一日を終えると思います」
「……仮に何かあったとしても、儂がいるから問題ない。きちんと守ってやるから、安心するがいい」
「ふふ、そうだね。ありがとう天生君」
天生は小さく頷き、塩煎餅に齧り付く。豪快に音を立てながら、つと生太郎を睨んだ。
「おい、いつまでここに居座る気だ。もう用は済んだのだろう。ならば早々に立ち去れ。お前もだぞ太一。ぼーろなど食ってないで、家の手伝いでもするが良い。そら、そら」
見た目にそぐわぬ力で、生太郎と太一を押していく。店の出入り口まで連れてくると、あっという間に外へ放り出した。
「二度とくるな」
一つ鼻を鳴らし、さっさと戸を閉めてしまう。
「……何だあれは」
いくら子供でも、流石に態度が悪過ぎやしないか。本当に倉間の親戚なのか。呆気に取られ、しばし戸を見つめた。
「まー、しょうがないよお兄さん。天生君のあれは、複雑な男心の表れだから」
「……それ、倉間さんもおっしゃっていたが、一体何なんだ?」
「えっ。お兄さん、分からないの?」
目を丸くする太一に、生太郎は戸惑う。分からなければ可笑しな事なのだろうか。
「はぁー、そう。分からないんだ。まぁお兄さん、唐変木なんだもんね。しょうがないか」
「……悪かったな、唐変木で」
罰が悪くなった生太郎は、ずれてもいない帽子を被り直す。
「それで、結局どういう事なんだ?」
それはねぇ、と太一は小さく手招きする。
生太郎は身を屈め、太一の口元へ耳を向けた。
「天生君はー、駄菓子屋のお姉さんの事がー、だぁい好きなんだよー」
「…………は?」
生太郎は、目と口をかっ開く。かと思えば、勢い良く駄菓子屋の戸を振り返り、全く同じ勢いで太一に戻った。
太一は、意味ありげに頷いてみせる。
生太郎は一層目を丸くし、口を手で覆った。もう一度、駄菓子屋の戸を見やる。
戸の隙間から、可愛と天生の姿が見えた。天生は可愛の隣へ座り、塩煎餅を齧っている。
その姿は、どことなく照れ臭そうでもあり、嬉しそうでもある。
まるで、倉間を前にした千登世のようだった。
「……成程」
生太郎は、内心大きく頷いた。
そして、つと、目を弓なりにする。
太一と顔を見合わせ、にやけそうな頬を堪えつつ、互いを肘で小突き合った。
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