第二話
しばらくすると、待機場所に
「お、おかえり
「今は落ち着いたようで、うたた寝をしています。起きたら家まで送っていきたいのですが、少しだけ抜けてもよろしいでしょうか?」
「大丈夫だよ。こっちは僕と
「すみません。ありがとうございます」
生太郎は祝と
つと、沈黙が流れる。
「……ねぇ、吉瀬君」
「……はい、何でしょう」
「もし、答えにくいなら、答えなくてもいいんだけどさ」
倉間は、一瞬目を伏せた。
「
口籠りながら、生太郎を見やる。祝も、無言で答えを待った。
「……いえ。そのような事はありません」
生太郎は、首を横へ振る。
「――襲われたのは、千登世の姉です」
生太郎の声が、静かな派出所によく響いた。
また、沈黙が流れていく。
「……そっか……それは……辛いね」
倉間は、奥の宿直屋を振り返った。目を細めて、深く息を吐き出す。
「因みに、その時の犯人は?」
「既に捕まっています。刑も執行されたと」
「そっか……なら、今回も早く捕まえないとね」
すっと、口元だけに笑みを浮かべる。生太郎は顔を引き締め、頷いた。
「お。これはもしや鬼天狗のご降臨すっか? なら他の奴らにも教えといてやらねぇと」
「え、ちょ、ちょっとちょっと。止めてよ祝君。無駄に話を広めるのは」
「いやぁ、でも天狗さんが暴れるとなると、下手したら巻き込まれますからねぇ。避難勧告はしっかりしておかねぇと。あ、吉瀬も覚悟しとけよ? 鬼になった天狗さんは、本当に鬼だからな。どんな無茶を言われるか分かったもんじゃねぇぞ」
「えぇ? そうかなぁ。別に大した事は言ってないと思うけどなぁ」
眉を下げる倉間に、祝は垂れ気味の目を一層垂らして笑っている。
先輩二人の会話に、生太郎の肩の力も緩んでいった。
「しかし天狗さん。実際問題、どうします?」
「そうなんだよねぇ。巡羅の強化と聞き込みは既にしてるし、暗くなってからの一人歩きは控えるよう通達もしてる。後は、夕暮れ時になったら早く帰るよう声を掛けるとか?」
「被害は抑えられるかもしれませんけど、逮捕に繋がるかって言われたら微妙っすねぇ」
「だよねぇ」
三人は、眉間に皺を寄せて考え込む。
「いっそ囮を使うってのはどうっすかね?」
「囮って、具体的には?」
「例えば、天狗さんが女装してとか」
「えー、嫌だよ。それなら祝君がやればいいじゃない」
「俺じゃあ体格ですぐ男だって気付かれますって」
「僕だってすぐに気付かれるよ。この辺じゃあ結構顔知られてるんだから」
「じゃあ、間をとって吉瀬がやるって事で」
「……祝さん。それ、本気で言っているんですか?」
「そう睨むなよ吉瀬ぇ。冗談冗談」
両手を揺らして笑う祝に、生太郎は溜め息を吐き出す。
「まぁ兎に角、まずはこれ以上被害が出ないよう、丁寧な見廻りとこまめな呼び掛けを意識していこうか。出歩く人数が減れば、獲物を求めて犯人が姿を現すかもしれないし」
「そうっすね。それと、若い娘のいる家の周りは特に注意するようにしましょう。犯人も、その辺りを狙ってる可能性ありますし」
「呼び掛けの際、人気のない場所であったり、襲うに都合のいい場所や、その特徴なども教えてはどうでしょう。意識的に近寄らないようにするだけでも、犯行は防げるかと」
「うん、いいね。じゃあ早速、巡羅の経路確認と、危険そうな場所を挙げていこうか。吉瀬君。地図を出して貰えるかな?」
生太郎は、銀座周辺の地図を机の上へ広げる。互いに意見を出し合い、不安箇所の洗い出しと、新たな見廻り経路をいくつか提案していった。
「――じゃあ、これでどうかな?」
倉間は、地図上を指でなぞっていく。
「これと、これと、これの、三通りの経路を、日に一から二回巡るの。そうすれば今挙げていった箇所は網羅出来るし、上手く対応出来るんじゃないかと思うんだけど」
「いいんじゃないっすか。これだけ俺達が歩き回るだけでも効果はあるでしょうし」
生太郎も、そうですね、と頷こうとする。
その時、
「……あの、この辺りは行かないのですか?」
「そのつもりだけど、何か気になる事でもあった?」
「気になる、というか……ただ、この辺りは、昼間でもあまり
そうして犯人のいいように弄ばれてしまったら。生太郎は言外にそう臭わせる。
だが倉間は、あっさり手を横へ振った。
「大丈夫大丈夫。あの辺りでは、そういう物騒な事は絶対起こらないんだよ。ケサランパサランがいるからね」
あっけらかんと微笑む。
「彼らはね。富久住の人間が好きなんだ。悲しませる事も、ましてや傷付ける事もさせるわけがない。それに万が一犯人がやってきても、
「珠子さんの所の、ですか?」
「うん。富久住さん家の近くに住み着いてるでしょ?」
「えっと……すみません。ちょっと私は、存じ上げないのですが」
「え? あっ」
目と口を開け、合点と手を叩く。
「そうか、そう言えばそうだったね。いや、ごめん。うっかりしてたよ。えーと、そうだな。何て言えばいいんだろう、祝君?」
「そうっすねぇ。まぁ、タマの知り合いの、物凄ぇ武道家が、富久住さん家の近くに住んでて、物凄ぇ頼りになるから、俺達が見廻りしなくとも大丈夫だーみたいな、そんな感じっすかねぇ?」
「あ、うん、そう。そんな感じなんだよ、吉瀬君」
「はぁ……そうなんですか」
何ともぼんやりした答えだが、兎に角大丈夫という事なのだろう、と生太郎は納得する事にした。
と、唐突に、祝が「あっ!」と声を上げた。
「あー、でも、あれじゃないっすかぁ天狗さぁん。念の為ぇ、一日に一回位はぁ、この辺に足を運んでもぉ、いいんじゃないっすかぁ?」
そんな事を言う祝に、倉間は首を傾げる。
「そうかな? 別に必要ない気がするけど」
「いやいやぁ。世の中何が起こるか分かりませんからねぇ。そうやって油断してたら、まさかー、なぁんて事もあり得るでしょうよぉ」
「うーん。珠子ちゃんの所の子達に限って、見落としはないと思うけど」
「じゃあ、あれっす。巡羅でわざわざ行くんじゃなくて、誰かが帰り掛けとかにちらっと様子見てくるとかどうっすかねぇ」
「それこそ手間じゃないかな?」
「いいじゃないっすかぁ。別に天狗さんに行けって言ってるんじゃないんすからぁ」
「じゃあ誰が行くの? 祝君?」
「いや、俺はタマが心配なんで寄り道してる余裕ないっす。というわけで、ここは吉瀬が適任だと思いますよぉ。うんうん」
「……祝君、そうやって後輩に押し付けるのはよくないと思うな。僕は君にそんな事を教えた覚えはないよ?」
「いや、俺だって別に押し付けたいわけじゃなくてですねぇ」
「だったらどういう事なの?」
「だからぁ……あーもう、察しが悪いなぁ」
祝は倉間に近付くと、徐に耳打ちを始める。
始めは訝しげに聞いていたが、倉間は段々と顰めた眉を緩めていき、やがて「えっ!」と目と口をかっ開いた。勢い良く生太郎を振り返り、全く同じ勢いで祝に戻る。
祝は、意味ありげに頷いてみせた。
倉間は一層目を丸くし、口を手で覆った。もう一度、生太郎をじーっと見つめる。
そして、つと、目を弓なりにした。
「あぁ、そう。あーそうなんだ。へぇ、そっか。成程ねぇ。うんうん」
何度も首を縦に振り、口元から手を離した。
「ごめんね祝君。察しが悪くて」
「本当っすよぉ。ったく、こういう話は鈍感なんすからぁ」
妙ににやにや笑いながら、祝と倉間は互いを肘で小突き合う。
「でも、そっかぁ。まさかそんな事になってるとは。はぁー、知らなかったなぁ」
「俺も全然気付かなかったんすけどね? なんでもこの前の雨の日に、タマんとこの奴が見たらしいんすよ」
「あ、だからあの時一緒だったんだ。あー成程ねぇ。なぁんだ、うっかり騙されたよぉ」
倉間は大きく息を吐き出すと、生太郎を横目で見た。
「……何ですか?」
「あ、ううん。何でもない何でもない。ねぇ、祝君?」
わざとらしく笑う二人。生太郎は眉間に皺を寄せるも、それさえ可笑しいとばかりに口と目を緩ませた。
「じゃあ、そういう事なら、吉瀬君には一日に一回、富久住駄菓子店の様子を見てきて貰おうかな。あ、勿論、一回以上行ってくれても全然構わないけどね。ふふ」
「時間もお前の都合に合わせていいぞぉ。あ、でも最低限の立場は弁えてくれよぉ? あんまり公にしちまうと、巡査がなに腑抜けてんだーとか言われちまうからよぉ。くく」
これでもかと楽しさが押さえられない先輩を、生太郎はじとりと睨む。
「……質問をよろしいでしょうか」
「ん、うん? 何かな?」
「何故お二人は、先程から笑っていらっしゃるのでしょうか」
「それはほら、あれだよあれ。ね、祝君?」
「そうそう。あれだからなぁ、しょうがねぇんだよ吉瀬。うんうん」
あれって何だ。
生太郎の眉間に、一層深い皺が刻み込まれた。
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