第三章 天狗
第一話
昼の巡羅を終えた
そんな生太郎の背後に、忍び寄る黒い影。
「うぐっ」
突然、尻に衝撃が走る。
痛みによろめく生太郎は、何事かと振り返った。
袴姿の少年と、目が合う。この辺りでは珍しく、着物も袴も黒という出で立ちだ。
いつの間にか後ろにいたその少年は、何故か生太郎を睨んでいる。
「な――」
何か用か、と聞こうとした瞬間、少年は勢い良く足を振り上げた。生太郎の尻に蹴りを食らわせる。
先程感じた衝撃と、全く同じものだった。
「こらっ、
倉間が叱ると、少年は素早く踵を返した。捕まえる間もなく、人ごみに紛れて見失う。
「大丈夫かい、
「はい、まぁ」
尻を擦りながら、頷いてみせる。
「ごめんね、うちの甥っこが。まさかあんな事をするとは思ってなくて」
……あの少年が例の甥っこか。生太郎は内心納得する。
やんちゃ坊主に手を焼いた姉夫婦に相談されて、比較的懐かれている倉間が試しに預かる事になった、と数週間前に倉間から聞いていたのだ。
「最近は大分落ち着いてきたと思ったんだけどね。これはまだまだ時間が掛かるかな」
「……そのようですね」
「でも、前よりはずっと成長したんだよ? 特に、珠子ちゃんとの出会いが良かったみたい。僕がいない間はよく遊びに行ってるんだって。本人としては、珠子ちゃんとお腹の子を守ってるつもりらしいけどね。『天生君はいいお兄ちゃんですね』なんて珠子ちゃんにも言われちゃってさ。いやぁ、嬉しかったなぁ」
その時の光景を思い出したのか、倉間は肩を竦めて笑った。
「まぁ、あれだね。今は変わり始めたばかりなんだろうね。子供は勝手に大きくなるというし、僕達大人は見守るしかないかな」
「……倉間さん。差し出がましいようですが、最低限の躾けはすべきだと思います。少なくとも、見ず知らずの相手をいきなり蹴るのは止めさせた方がいいかと」
「う、うーん。それについては、申し訳ないとしか言いようがないんだけどね。でも、天生の気持ちも分からなくはないからなぁ。複雑な男心の表れと言うか何と言うか」
不可解な物言いに、生太郎は眉を顰める。だが倉間は苦笑いを浮かべるばかりで、これ以上話す素振りは見せない。止めていた足を動かし、さっさと行ってしまう。
すっきりしない思いを抱えつつも、生太郎は倉間に続いた。
しばらくすると、派出所が見えてくる。
「――ちょ、落ち着け――。な?」
「これが――られますかっ! ――は悔しく――ですかっ、――書かれてっ!」
甲高い怒鳴り声が、派出所から聞こえてきた。
生太郎と倉間は顔を見合わせ、入り口から中を窺う。
「これはどう考えても、倉間さんを貶しめようとしてるじゃないですかっ!」
派出所には、
「お、おー、吉瀬、天狗さん。見廻りご苦労さんっす」
祝は、わざとらしく大きな声を出す。
「ほら、ちぃちゃん。天狗さんが帰ってきたぞ」
「え、嘘っ!」
勢い良く振り返った千登世は、生太郎と倉間を見るや、慌てて何かを背に隠した。
「こ、こんにちは倉間さん。
「うん。ありがとうね、千登世ちゃん」
「……何だお前。また邪魔をしにきたのか」
「じゃ、邪魔なんてしてないわよっ。私はただ、ちょっと言いたい事があっただけで」
「言いたい事? 何?」
倉間は腰に差した扇を広げ、穏やかに首を傾げる。
「あ、い、いえ。そんな、倉間さんに聞かせる程の事では、ありませんから。本当、全然、ぜーんぜん、気にしないで下さい」
空笑いを浮かべる千登世。倉間は困ったように微笑み、祝へ視線を送る。祝も苦笑いを浮かべ、千登世の背後を顎でしゃくった。
すると生太郎が、千登世の隠しているものを素早く奪い取った。
「あっ! ちょ、何するのよ生兄っ。か、返してっ! 返してったらっ!」
しかし、生太郎は腕を高く持ち上げ、千登世から遠ざける。
生太郎の手に握られていたのは、新聞錦絵だった。そこには『夜道は天狗にご用心』という文字と、禍々しい顔をした大きな天狗が、扇片手に女性へ襲い掛かっている絵が描かれている。
「……お前が騒いでいた原因はこれか」
千登世は顔を青くさせて、恐る恐る倉間を振り返る。
だが倉間は、「あぁ」と至極あっさり頷いた。
「く、倉間さん。もしかして、ご存じ、でしたか?」
「うん、まぁね」
苦笑する倉間に、千登世は唇を噛む。
「……『昨今の銀座には、天狗が現れる。その者、闇より出で、善良なる臣民に牙を剥く。狙われし臣民は哀れ、人外なる力の前に屈するのみ。だが何より哀れなるは、天狗に弄ばれる者は、見目麗しき婦女子に限る事なり』」
生太郎は、余白に書かれた文章を読むと、眉を顰めた。
「……くだらないな」
新聞錦絵を屑籠へ捨て、帽子を脱いだ。
「千登世。まさかとは思うが、お前、こんな記事を信じているわけではないよな?」
「あっ、当たり前じゃないっ! 馬鹿にしないでっ!」
「そうか、それは良かった。私はてっきり、お前がまた妖怪がいるかもなどと言って、変な事をしでかすのではないかと思ったぞ」
「何言ってるの生兄っ! 妖怪なんているわけないでしょっ! もうっ、こんな時にふざけないでよっ!」
……今まで散々
生太郎はじろりと己の妹分を睨むも、千登世は全く気にせず、屑籠から新聞錦絵を引っ張り出す。
「そうじゃなくて、ここっ。ほら、銀座と天狗がこれみよがしに書いてあるでしょっ? しかも、天狗は普段人間に化けてるとか、それはそれはいい男だとか、携帯してる扇で空を飛んで逃げるとか、もう好き勝手書いてあるでしょっ? これってどう考えても倉間さんの事言ってるでしょっ? ねぇっ、そうでしょっ!」
「……いや、倉間さんだとはっきりとは書かれていないぞ」
「でもっ、銀座で天狗って言ったら、倉間さんを指すじゃないっ!」
「それでも、倉間さんだとは明言されていない。いくら特徴が似ていようと、周りが倉間さんを想像しようと、通り魔と倉間さんが明確に繋がっているという内容ではない限り、そうだとは断言出来ない。少なくとも、これを書いた記者はそう言い逃れるだろうな」
「っ、生兄は悔しくないのっ!? 自分の先輩が貶されてるっていうのに、何でそんなに澄ました顔をしてられるのよっ!」
千登世は眉をつり上げ、生太郎に掴み掛かる。
「まぁまぁ、落ち着いてよ千登世ちゃん」
「でも倉間さんっ」
「うん、そうだね。言いたい事があるのは分かるよ。けど、だからと言って吉瀬君に八つ当たりするのは、違うんじゃないかな」
穏やかな声と微笑みに、千登世の眉は徐々に下がっていく。唇を噛み締め、俯いた。
「……ごめん、生兄」
「……別に構わない。私だって、お前の気持ちが分からないわけではないからな」
新聞錦絵を摘まみ、絵が見えぬよう折り畳む。
「だが、当の本人が気にしていないんだ。ならば周りがとやかく言うわけにもいかないだろう」
「でも……倉間さんは、それでいいんですか?」
「まぁね。ありがたい事に、僕よりも先に怒ってくれてる人達がいるからねぇ。そういうのを見てると、何だか怒る気も起きなくて」
「天狗さんは昔っからそうっすよねぇ。その癖身内が貶されると、鬼天狗のご降臨っすよ。あっという間に相手を叩きのめしちまう。それがまた格好いいのなんのって」
「ちょっと祝君。鬼天狗とか恥ずかしいから止めてよ」
「何言ってんすか。普段天狗って呼ばれてる癖に」
「天狗と鬼天狗は違うでしょう? 鬼天狗じゃあ、鬼だか天狗だか分からないじゃない」
暢気な会話に、派出所の空気が緩やかなものへと変わっていく。
千登世の体からも、ゆっくりと強張りが鎮まっていった。
「ま、そういうわけだからよぉ。天狗さんはこの通り、ちぃちゃんの心配が無駄になる位図太い神経の持ち主だ。しかも滅法強いときた。きっと近い内に件の通り魔を捕まえて、何の気なしに汚名返上しちまうだろうよ」
「それに、この記事を書いた
「で、大貫の思惑通り、ちぃちゃん含め皆さん買っていったと」
「そういう事。こう聞くと別段大した話でもないでしょ? まぁ、予想よりも反響は大きかったみたいだけど」
「大貫がそう言ってたんすか?」
「うん、僕に助けを求めながらね。なんでも、ご婦人の集団に追い掛けられたんだって」
「またっすか。あいつも懲りねぇなぁ」
そう言って笑う祝と倉間を、千登世は複雑な面持ちで窺っている。唇をきつく結んだまま、また顔を俯かせた。
「……千登世」
つと、生太郎が口を開く。
「倉間さんだけでなく、私や祝さんも、これ以上被害が広がらないよう巡羅を増やし、不審な人物を見なかったか聞き込みをしている。祝さんの言うように、近い内に解決するだろう。いや、してみせる。必ず」
俯く千登世を、見つめた。
「だから、頼むから馬鹿な真似はするなよ。いいな」
千登世は少しだけ顔を上げ、生太郎の視線を受け止める。
「……でも、生兄……私、倉間さんがあんな奴と同じに見られるのが、許せないの……例え売上の為だったとしても、本当に悔しくて、許せなくて……」
くしゃりと、顔が歪んだ。
「だって、倉間さんは巡査なのよ? 私達を守ってくれてるのよ? あいつとは全然違うの。違うのに、なのに……っ、こんなの可笑しいじゃない……っ」
千登世は、顔を覆ってしまった。鼻を啜る音が、派出所に小さく響く。
生太郎は、徐に立ち上がった。
千登世の頭を撫でると、背中に手を添える。
「すみません。奥の部屋で、こいつを休ませてもいいですか?」
「うん。どうぞ」
生太郎は倉間へ礼を言い、千登世の背を押す。自分の体で隠すようにしながら、宿直室へ連れていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます