第六話
それから一カ月程が経った、ある日。
「ごめんくださいませ」
派出所に、小柄な女性がやってきた。品良く微笑み、一人で留守番をしていた
生太郎も椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「これは
「えぇ。悪阻も納まりましたし、最近では気晴らしも兼ねて、お外へ出歩くようにしているんです」
「そうですか。あぁ、よろしければどうぞ」
近くにあった椅子を引き出し、珠子へ勧める。
「いえ、すぐに帰りますので。お気遣いなく」
「ですが、
「あぁ、いえ。本日は、
「では、
「いいえ、違いますわ」
珠子は、苦笑い気味に首を横へ振る。
「わたくし、本日は寿男さんでも
私に? と、生太郎は内心首を傾げた。
「寿男さんから聞きましたわ。お忙しい寿男さんに代わり、
珠子は、丁寧に腰を折る。育ちの良さが窺える所作に、生太郎は内心気後れしてしまう。
だが、こんなに淑やかな女性なのに、大の男も叩き飛ばす体術の達人なのだよな。生太郎は珠子と会う度、不思議な気持ちになった。
「いえ、そんな、お礼を言われる程の事はしていませんよ。寧ろあそこへ行ったお陰で空き巣を捕まえられたので、私が礼を言いたい位です」
「あぁ。例の
「いえ。猫の鳴き真似が上手い、ただの人間ですよ。尻尾が二股に分かれてもいなければ、幻術で姿をくらませる事も出来ません」
「そうでした。申し訳ありません。新聞に『泥棒猫遂にご用』と書かれていましたので、つい」
口元へ手を当て、珠子ははにかんだ。
「では、わたくしはそろそろお暇させて頂きますね」
「もう行ってしまわれるんですか? 祝さん達も、そろそろ帰ってくると思いますが」
「いえいえ。これ以上お仕事の邪魔をするわけには参りません。それに、この後にも寄る所がございますの」
目を弓なりにして、喉を鳴らす。
「わたくしが悪阻で苦しんでいた際、お世話になった方々の元へ、お礼と、元気になりましたと顔を見せに行くのです」
「そうですか。では、あまり無理はなさらないで下さいね」
「はい、勿論ですわ。わたくしの体は、わたくしだけのものではございませんからね」
そう言って、珠子は自分の腹を撫でた。掌に感じる膨らみに、母性の滲む笑みを零す。
「……因みに、珠子さんは、富久住駄菓子店にも行かれるのでしょうか?」
「えぇ。そのつもりですが」
「……こう言ってはなんですが、そちらはまた後日にしてもいいのではありませんか?」
「あら、どうしてです?」
「富久住駄菓子店は、遠回りをしなければ辿り着けません。いくら悪阻が納まったと言っても、まだ本調子でもないでしょうし、なにより、妊婦にあの狭い路地を通らせるというのも、どうかと思いまして」
すると、珠子は目を瞬かせた。
それから、胸元でぽんと両手を合わせる。
「あぁ、成程。ご心配ありがとうございます。ですがご安心下さい。そのような場所を通らずとも、大通りを曲がればすぐに到着しますわ」
「え? いや、ですが、私はここ最近、何度もあそこへ行っていますが」
「えぇ、分かっております。わたくしも、悪阻にかまけてうっかりしておりましたわ」
珠子はたおやかに微笑むと、生太郎の目を見つめる。
「では、吉瀬さんも大通りから行けるよう、あの子達に言っておきますね」
……言っておく? 不思議な物言いに、生太郎は眉を顰めた。
と、不意に、視界の端で、何かが動く。
細長い尻尾が二本、丁度珠子の尻の辺りから、飛び出していた。
「……っ!?」
生太郎は、思わず後ろへ仰け反った。
どう見ても猫の尻尾だ。それも、二つ。
目を見開いたまま、痛い程に跳ねる心臓を押さえた。
生太郎の脳裏に、猫又、という文字が、はっきりと浮び上がる。
まさか、と思う反面、心臓は未だ嫌な動き方をする。米神に冷や汗を滲ませ、ごくりと、喉を上下させた――瞬間。
「あら?」
珠子は振り返ると、頬を綻ばせた。
珠子の背後から、美人な三毛猫と、ずんぐりと大きな虎柄の猫が、顔を出す。
「まぁ、ミケとトラじゃない。久しぶりね。元気だった?」
その場にしゃがみ、猫達の頭を撫でる。猫達は気持ち良さそうに喉を鳴らした。他の猫も続々と姿を現し、尻尾を真っ直ぐ立てて珠子の元へと集まる。
「……なんだ……」
そうだよな。いくらなんでも、珠子さんが猫又なわけがない。
生太郎は、安堵の溜め息を吐き出した。次いで、勘違いしてしまった自分に恥ずかしさが込み上げる。珠子に気付かれないよう、そっと冷や汗を袖で拭った。
そんな生太郎を、猫達はどこか楽しげに眺めていた。
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