第二話


「あれ、吉瀬きせさん?」


 仕事を終え、富久住ふくずみ駄菓子店へと向かう生太郎しょうたろうは、唐突に声を掛けられた。


 見れば、若い娘が笑顔で頭を下げている。その右手には風呂敷包みと傘が、左手には、真っ白い毛玉が携えられていた。


「君は確か……可愛えのさん、だったか?」

「はい、そうです。富久住駄菓子店の娘の可愛です。こんにちは」

「むぅー」

「むぅ太郎も、こんにちはって言っています」


 可愛は声を顰め、左手をそっと差し出した。

 掌の上で真ん丸な物体が飛び跳ねる。白い毛から覗く円らな瞳が、ぱちくりと瞬かれた。


「吉瀬さん、今日はお一人なんですね。もしかして、お休みだったんですか?」

「いや。先程仕事を終えた所だ」

「そうなんですか。お疲れ様でした」


 愛嬌たっぷりに笑う可愛。むぅ太郎も「むぅー」と楽しげに揺れている。

 暢気というか平和というか、何とも力の抜ける光景に、生太郎は頬を掻いた。


「可愛さんは、これからどこかへ出掛けるのか?」

「はい。入院しているお婆ちゃんのお見舞いに」


 生太郎は、成程、と頷き、次いで首を傾げた。



「しかし……何故傘を?」



 空を見上げても、雨雲らしきものはない。周りの通行人も、傘を持っている者は一人もいなかった。


「あぁ。これは、むぅ太郎がどうしても持って行けって言うので」


 生太郎は眉を顰めて、可愛に抱かれるケサランパサランを見下ろす。


「まぁ、こんな天気に傘を持っているなんて変ですよね。私も、本当はちょっと恥ずかしいんですけど」

「むぅーっ」

「分かってるよ。むぅ太郎がそう言う時は、大抵雨が降るんだもんね。だから恥ずかしくても、持っていた方がいいんだもんね」


 その通りだ、とばかりに毛玉が上下に動く。


「そういうわけで、吉瀬さんもまだ外を出歩くようなら、傘を用意するか、早めにお家に帰った方がいいですよ。私が帰る頃には降っていると思うので。多分、夕方位かな?」

「はぁ……そうか。忠告、感謝する」


 とは言っても、生太郎は左程信じていなかった。どう見ても、雨どころか曇る気配さえない。それに駄菓子を買ったらすぐ派出所へ戻る予定だ。夕方まで出歩くつもりはない。


「むぅー」

「あ、そうだね。じゃあ、私達はそろそろ行きますね。呼び止めてしまってすみませんでした」


 可愛は「失礼します」と頭を下げ、生太郎の脇を通り過ぎる。

 足取り軽く遠ざかる背中を見送り、生太郎も歩き出した。今回は妙な場所からではなく、普通の道を使って富久住駄菓子店へと進んでいく。



 だが、いくら歩いても目的地に辿り着かない。



 道を間違えたのかと引き返してみるも、それらしき店はない。


「……可笑しいな」


 生太郎の記憶では、確かにこの辺りにあった。

 その証拠に、先日鎌鼬かまいたちと呼ばれるかっぱらいを捕まえた場所を発見した。近くの店の店主に確認しても、確かにここで人力車とかっぱらいが激突している。ならばこの先に富久住駄菓子店がなければ可笑しい。


 なのに、何故かない。看板も見当たらない。


 正太郎は唸り声を上げ、眉間に皺を寄せた。




 すると不意に、生太郎の左腕を、何かが撫でていく。




 何となく左を振り向けば、目線の先に、先日いわいと通った狭い路地があった。


「……仕方ない」


 ここは一つ、最初に案内された通りに進んでみよう。そう考え、生太郎は建物と建物の間にある路地へ入っていった。


「すまない、通るぞ」


 寛いでいた野良猫達を、生太郎はゆっくりと跨いでいく。

 猫達は鳴き声を上げ、生太郎をじっと見つめた。かと思えば、尻尾を揺らして路地の端に寄る。


 反対側に抜け、生太郎は先程通ったばかりの道を歩いていく。角を曲がれば、真っ直ぐ進んだ先に先日かっぱらいを捕まえた場所がある。これも先程見たばかりの景色だった。


 ……という事は、このまま歩いても、先程同様、ただ通り抜けるだけなのではないか。いや、寧ろ遠回りしただけかもしれない。

 生太郎は溜め息と共に、眉間に深い皺を刻む。




 瞬間。


 生太郎の左腕を、何かが撫でていった。




 生太郎は思わず立ち止り、左を振り返る。



 そこには、小さな店があった。掲げられた看板には、富久住駄菓子店と書いてある。



 先程探した時は、決して見つからなかった看板だ。



「…………何故だ……」


 看板を見上げたまま、しばし立ち尽くした。かと思えば、素早く辺りを見回す。

 左右に伸びる道の端からは、生太郎がここにくる為に通ってきた道が見える。駄菓子屋を探して歩いた道がある。立ち並ぶ民家も、見間違ってはいない筈だ。


 なのに、何故、見つけられなかったのだろう。



 まるで、この店だけ隠されていたかのようだ。



 そこで生太郎は、つと千登世の言っていた言葉を思い出す。



『猫又が、幻術を使って姿を見えないようにしているのかもしれない』



「……まさかな」


 いくらケサランパサランという妖怪が実在するからと言って、そんな作り話のような事、あるわけがない。


 きっと見落としてしまっただけだろう。そう結論付け、生太郎は左腕を軽く撫でた。駄菓子屋の中へ、足を踏み入れる。


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