第二章 猫又

第一話


 休日の銀座ぎんざ煉瓦街れんががいは、特に賑やかだった。十五間もある通りは洒落た格好の老若男女に溢れ、水や菓子を売り歩く者や、大道芸人も現れる。

 お陰ですりやかっぱらいの被害に合った者が、派出所へ多数やってくる。人力車の通行量も増えるので、衝突や転倒、更にはそれに巻き込まれたという連絡も、度々入った。


 しかし本日は珍しく、これと言った事件もなく正午を迎えられた。


 昼飯を済ませると、いわい倉間くらまは巡羅へ向かう。現在派出所には生太郎しょうたろうが残り、一人で留守番をしていた。




 筈、なのだが。




「猫ちゃーん、出ておいでー。一緒に遊びましょー」


 袴が汚れるのも構わず、千登世ちとせは床へ這い蹲っている。ぺんぺん草と籠を手に、棚の影や机の下を覗き込んだ。


「……千登世。いい加減にしろ」


 生太郎の眉間へ、皺が刻まれていく。


「お前には、年頃の娘らしい恥じらいはないのか」

「恥じらいなんかより、猫ちゃん達の姿を確かめる方がずっと大事よ」


 ぺんぺん草を揺らして、千登世は屑籠の中を確認する。


 生太郎は溜め息を吐き、先程千登世が持ってきた新聞錦絵を見下ろした。


 そこは『これが本当の泥棒猫』という文字と、風呂敷包みを背負う猫が描かれている。尻尾は二股に分かれており、幻術を使って姿を眩ませているらしい。人間の目の前を、堂々と逃げていく。


「……千登世。何度も言うが、ここの猫は猫又ねこまたではない。安心しろ」

「そんなの分からないじゃない。しょうにいが気付いてないだけかもしれないでしょ?」

「いくらなんでも、猫の尻尾が二股に分かれていたら気付くに決まっているだろう」

「でも生兄ったら、私が髪型を変えても、新しいリボンを付けても、一度だって気付いてくれた事ないじゃない」


 頬を膨らまし、ぺんぺん草を指で回した。


「この前なんか、私がこっそり生兄の背中に張り紙張ったら、そのまま見廻りに行っちゃったしさ」

「あれはお前の仕業だったのか」


 千登世の顔面を鷲掴み、思い切り握り込む。

 千登世の悲鳴が、派出所に響き渡った。


「お前のせいで、私はいい笑い者にされたんだぞ。一時期は『唐変木の巡査』と後ろ指を差されたんだ。お前の悪ふざけが、どれだけ私に迷惑を掛けた事か」

「ごめんごめんっ。ごめんって生兄っ。許してよ痛い痛い痛いっ」


 正太郎の手を何度も叩き、千登世は悶え転がった。

 正太郎は深く息を吐いて、千登世の顔面を解放してやる。


「うぅ、生兄ったら酷い。乙女の顔を握り潰す気なの?」

「私の知る乙女は、床に這い蹲ってまで猫をおびき出そうとはしない」

「生兄女の子に夢見すぎ。今時の乙女はね、床に這い蹲りもすれば、生兄達の為に猫捕獲作戦だって決行するんだから」


 生太郎は、またしても溜め息を吐く。


「……大体お前、妖怪なんて信じていないんだろう。ならばここにいる猫が猫又かどうか、確認するまでもないんじゃないのか」

「それは、そうかもしれないけど、で、でも、万が一っていう事もあるじゃない。万が一ここの猫ちゃんが猫又で、万が一、今話題の泥棒猫だったら、生兄だって困るでしょ? 臣民を守る巡査の可愛がってる猫が犯人なんて、目も当てられないしさ」

「……言っておくが、あれはただの空き巣だぞ。必ず猫の鳴き声が聞こえると言うのも、単に近くに猫がいたか、犯人が鳴き真似でもして誤魔化しているだけだろう。妖怪は一切関係ない」

「そ、そんなの、分からないじゃない。生兄がそう思ってるだけで、実は本当に猫ちゃん達が猫又で、幻術とか使って姿を見えないようにしてさ。ささっと家に忍び込んで、ささっと金目のものを頂いちゃってる可能性も、無きにしも非ずだと、お、思うけどなぁっ」


 拳を握り締めて頷く千登世。異様な力強さに、正太郎の目は胡散臭そうに細まっていく。


「……お前、ただここの猫達を見たいだけだろう」

「そ、そんな、私は、別に」


 生太郎の視線が、容赦なく突き刺さる。


 千登世はしばし唇を蠢かせたが、やがて泳がせていた目を、きつくつり上げた。


「だって、しょうがないじゃないっ。猫ちゃん達、全然出てきてくれないんだもんっ」


 持っていたぺんぺん草ごと、腕を振り乱す。


「何度も何度もきてるのにさっ、姿どころか鳴き声一つないってどういう事っ? そんなに私と会いたくないのっ? ねぇっ、どうなの生兄っ!」

「……少なくとも、そうやって騒いでいる奴の前には出てこないぞ」

「私だって好きで騒いでるわけじゃないもんっ! 静かにして出てきてくれるなら、とっくの昔にしてるもんっ! でもそうじゃないんでしょっ? ならもうとっ捕まえるしかないでしょっ!」

「何でそうなるんだ。そもそもあいつらは、野良なだけあって警戒心が強い。私だって、最近ようやく姿を見る事が出来たんだぞ。たまにしかこないお前が見れるわけないだろう」

「なによっ。自分は猫ちゃんに触れるからって偉そうにしちゃってっ。どうせ私は猫ちゃんに嫌われてますよっ。えぇそうですともっ。なのに必死でぺんぺん草を振る姿はさぞ滑稽だったでしょうねっ。ほらっ、笑いなさいよっ。好きなだけ笑えばいいじゃないっ」

「おい、自棄になるな。別に私は、偉そうにもお前を笑ったりもしていない」

「でも馬鹿だとは思ってるんでしょっ!」

「…………いや、別に……」

「なによその微妙な間はっ! 否定するなら、せめてもう少ししっかりしなさいよぉっ!」

「……お前は一体何がしたいんだ」

「煩い馬ー鹿っ! この唐変木っ!」


 ぺんぺん草と籠を生太郎に叩き付け、千登世は派出所を飛び出そうとする。


「おい、千登世っ」


 生太郎は、すかさず千登世の腕を掴んだ。



 すると。



「触らないでっ!」



 その手を、掴み返される。



 生太郎の懐に入りながら腕を抱え、同時に足を後ろへ振り上げる。以前生太郎が護身用にと教えた、背負い投げの体勢に入った。


 生太郎は素早く構えを外し、足を掬い払われぬよう、その場から飛び退いた。


 その隙に、千登世は目の前を駆けていく。生太郎もすぐさま派出所を出るも、妹分の姿は人ごみに紛れ、見失ってしまった。



 辛うじて「生兄のつるっぱげぇぇぇーっ!」という声が、どこからともなく聞こえてくる。



「ぶはっ、な、何だあれ」

「祝君。笑うなんて失礼だよ」

「だ、だって天狗さん。ちぃちゃんが、吉瀬きせの事、つるっぱげって……っ」


 千登世と入れ換わるように、祝と倉間が派出所へ戻ってくる。


「……お帰りなさい、倉間さん、祝さん。見廻りご苦労様です」

「うん。ただいま、吉瀬君」

 

 祝は腰に差した扇を抜き、軽やかに開いた。


「お、おう、ただいぶはぁっ!」


 祝は生太郎から顔を背け、肩を震わせる。

 正太郎はむっと眉間に皺を寄せるも、無言で千登世が投げたぺんぺん草と籠を片付ける。


「千登世ちゃんがきてたみたいだけど、どうかしたの?」

「……ここに住み着く猫が猫又かどうか、確認しにきたようです。ですがそれは建て前で、本当はここの猫達と遊びたかっただけみたいですよ」

「あはは、そっか。まぁ、慣れない相手がいると、この子達は全然出てこないものね」


 倉間が振り返れば、棚の影から美人な三毛猫がそっと顔を覗かせる。椅子の下や木箱の裏からも猫が現れた。各々お気に入りの場所で寛ぎ始める。


「し、しかし、ちぃちゃんのあの様子を見る限り、目的は達成出来なかったみたいだなぁ?」

「えぇ。尻尾が二股か確認する以前に、こいつらを見つける事が出来ませんでしたから」

「それで癇癪起して、吉瀬を、つ、つるっぱげ呼ばわりしたと」

「……まぁ、そういう事です」

「な、成程なぁ。よっぽど悔しかったんだなぁ」


 祝は目に浮かぶ涙を拭いて、自分の席へ腰を下ろす。倉間もサーベルと官棒を壁掛けに戻し、椅子へと座った。


「僕達がいない間、何か変わりはあった?」

「いえ。千登世がきた以外は、特に何もありません」

「そっか。こっちも特にはなかったかな。例の空き巣も、泥棒猫っていう名前が有名になっちゃったせいか、大人しくしてるようだよ」

「猫の鳴き声っていう特徴がありますからねぇ。住民も、可笑しな物音と猫の声がしたら、もしや、って警戒するみたいですし」

「でもだからって、『猫なんか箒で追っ払ってやる』って息巻かなくてもいいと思うんだけどなぁ。無茶をして怪我なんかして欲しくないのに」

「それ、天狗さんが直々にお願いすれば、少なくともこの辺りの姐さん達は皆言う事を聞いてくれると思いますよ? なんせ銀座で一・二を争う色男っすからねぇ。ちょっと困った顔で微笑めば、あっという間にころっといきますって」

「ちょっと祝君。ころっとだなんて人聞きの悪い言い方しないでよ」

「しょうがないでしょう。本当の事なんすから」

「じゃあ今度珠子たまこちゃんに会ったら、試しに困った顔で微笑んでみようかな」

「残念っすが、うちのタマはころっといきませんよ。なんせ俺にべた惚れっすから」


 祝の顔が幸せそうに緩む。

 そうして始まった恒例の惚気話を、倉間は苦笑いで、生太郎は呆れ気味に聞き流した。特に最近は、まだ腹の中にいる我が子の事まで饒舌に語るものだから、誰かが遮らない限り話は一向に終わらないのだ。



「――でもなぁ……」



 つと、祝は溜め息を吐く。


 いつもと違う様子に、生太郎と倉間は顔を見合わせた。


「でもなぁって、どうしたの祝君?」

「いや、実はうちのタマなんすけど、どうにも悪阻が酷くって」

「あぁ、そういえば、珠子ちゃん大変なんだって言ってたね」

「そうなんすよ。でも、食べねぇと腹の子が育たねぇってんて、どうにかこうにか食べるんすけど、そうするとまた吐いちまって。もう見てて可哀そうなんす」

「あれ? でも確か、富久住ふくずみさんの駄菓子は食べられるんじゃなかったっけ?」

「一応は。それでも沢山は無理で、様子見ながらちょこちょこ口にしてるって感じっす」

「そっか。まぁ、こればっかりは代わってあげる事も出来ないしね。少しでも奥さんが楽になるよう、色々気を付けてあげるしかないよ」

「ですよねぇ……」


 溜め息を吐く祝を慰めるように、猫達が集まってくる。


「でも、やってやれる事なんて本当にちょびっとしかないんすよ。今ほど己の無力を感じた事ぁねぇっすわ。どうにか食える駄菓子も買ってきてやれねぇし……本当、駄目な旦那だよなぁ、トラ?」

 

 祝は、ずんぐりと大きな虎猫を撫でる。


「うーん、別に無力ってわけでもないと思うけどな。祝君は頑張ってるよ。珠子ちゃんも自慢してたし。ねぇ、ミケ?」


 机に乗る美人な三毛猫の喉を擽った。三毛猫は目を細め、鳴き声を上げる。


「祝君は考え過ぎなんだよ。そりゃあ珠子ちゃんが心配なのは分かるけどね。でも、女性は案外強いんだよ。いざという時は、そこらの男なんかより余程逞しいんだから」

「……まぁ、確かにタマは、あんななりして大の男を叩き飛ばすような奴っすけど」

「いや、そういう逞しさじゃなくて」

「けど本当は甘えたで、寂しがり屋なんすよ。皆の前じゃあ気を張って強くみせてるけど、中身は極々普通の女なんす。昼寝と甘いもんが好きな、どこにでもいる女なんすよぉ」


 惚気混じりの嘆きに、倉間は笑うしかなかった。生太郎も頬を掻いて、何とも言えぬ顔をしている。


「……そう言えば、祝さん。『駄菓子も買ってきてやれない』とはどういう事ですか?」

「あーそれがなぁ。買いに行く暇がねぇんだよぉ。ほら、駄菓子屋は子供がそとてる間しか開いてねぇだろ?」

「あぁ、成程。祝君、ここ最近は昼番が多かったもんね」

「そうなんす。まぁ、そのお陰で夜はタマの傍にいてやれるから、それはそれでありがたいんすけどねぇ」


 祝は黒い子猫を抱き上げ、背中を撫で擦る。


「ですが、駄菓子を買いに行く時間がないというのも問題ですよね」

「そうなんだよぉ。家にある分もそろそろ無くなりそうだし、買い足してやらねぇと」

「因みに、珠子さんが買いに行くのは難しいんですか?」

「んー、ちっと難しいかもなぁ。悪阻が酷い分、体力も落ちてるみてぇでさぁ。家の周りを散歩するのが精一杯で、駄菓子屋なんてとてもとても」


 深い溜め息を吐く。


「タマの実家を頼るってのも考えたけど、家からだとちょっと遠いし、かと言ってこっちにこさせるのも悪ぃし、そもそもタマが大丈夫だって言うもんだから、その気持ちを無碍にも出来なくて」

「じゃあ、どうするの?」


 倉間は小首を傾げる。


「まぁ……最悪富久住さんに事情を説明して、夜にちょっとだけ店開けて貰おうかなと思ってます。そんでささっと買うもん買って、ささっと帰ろうかなって」

「それはそれで、珠子ちゃんに怒られるんじゃない?」

「まぁ、そうなんすけど……でも、俺だってそこは譲れねぇっすから」


 はは、と小さく笑い、軽く帽子を被り直した。


「……なら、私が代わりに買ってきましょうか?」


 生太郎は、徐に手を挙げる。


「そろそろ仕事もあがりますし、この後は予定もありませんから」

「でも、いいのか?」

「はい。祝さんには、いつもお世話になってますから」

「……どうしよう、天狗さん。俺達の後輩が凄ぇいい奴だ」

「本当にねぇ。こんないい後輩を持てて、僕達は幸せ者だね」


 にこにこと微笑む倉間。祝も、これでもかと垂れ目を垂れさせる。


 あまりの褒めっぷりに居た堪れなくなった生太郎は、そっと帽子の鍔を下ろし、眉間に皺を寄せた。

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