第三話
「……本当に、こいつの力を借りれば、例の
「お、ようやくその気になったかぁ?」
「……そういうわけではありませんよ」
眉間にきつく皺が寄る。
「ですが、それで事件が解決するならば、私は巡査として、出来る事をするだけです」
迷いのない眼差しに、
「……それで、一体どうすればいいんですか?」
「取り敢えずは、そこでじっとしてりゃあいい」
正太郎の周りを、むぅ太郎は飛び跳ねながら回る。円らな瞳も、観察するようにくるくる動いた。それから陳列棚を伝って、生太郎の顔へと近付いていく。
「むぅー……むぅーっ」
そして大きく飛び上がり、正太郎の頭の上へ着地した。
しばし真ん丸な体を揺らすと、その場に落ち着く。
「ぶはっ。よ、よりによって、頭かよっ」
「わぁ、むぅ太郎可愛い」
「た、確かに、可愛いっちゃあ可愛いなぁ。うんうん、可愛い可愛い」
「……随分と楽しそうですね、祝さん」
「いや、悪ぃ悪ぃ。そうだよな。別に笑い事でも何でもねぇよな。ただむぅ太郎が、
素早く顔を背け、腹を抱えて体を揺らす。
正太郎は溜め息を吐き、頭に乗ったむぅ太郎を掴んだ。退けようと腕を持ち上げるも、何故か剥がれない。頭を傾けても、振っても、落ちない。ならばと帽子を脱いでみれば、すぐさま頭の上へ舞い戻った。
正太郎の眉間に、一層深く皺が刻まれていく。
「お、怒んなよ吉瀬ぇ。ほら、そんな怖い顔してると、えっちゃんが怖がるじゃねぇか」
「……なら、早くこいつを退かして下さい」
「そう言われてもなぁ。むぅ太郎がそこを選んだんなら、お前はそこにむぅ太郎を乗せるしかねぇんだって。じゃなきゃ、こいつの力は貸しちゃ貰えねぇぞ?」
「……せめて、肩や手の上に」
「むぅーうー」
「嫌だそうですよ?」
と、可愛が苦笑いを浮かべる。
生太郎はむっつりと黙り込み、唇をひん曲げた。
「ま、こればっかりは諦めるしかねぇなぁ。ケサランパサランは、人によってくっ付く場所を変えるんだ。多分、一番自分の力を発揮しやすい場所ってのが、人それぞれなんだろうなぁ。それが吉瀬は、頭の天辺なんだろうよ」
その通り、とばかりにむぅ太郎は「むぅー」と縦に揺れる。
「でも、それで犯人を捕まえられるんなら安いもんじゃねぇか。それに大抵の人間は、むぅ太郎の姿を見る事が出来ねぇ。だからむぅ太郎を乗せたまま練り歩いた所で、傍から見りゃあ巡査が見廻りしてるとしか思われねぇよ。大丈夫大丈夫」
「…………そうですか」
込み上げた気持ちごと、深く息を吐き出す。
「……それで、この後はどうすれば?」
「いつも通り仕事をこなせばいい。そうすりゃ向こうから勝手にくるからよ」
……そんな事が、本当にあるのだろうか。生太郎は疑念の視線を隠そうともしない。だが祝は気にせず、踵を返す。
「んじゃあ、えっちゃん。しばらくむぅ太郎を借りてくなぁ」
「はい、どうぞ。むぅ太郎頑張ってね。吉瀬さんも頑張って下さい」
「……あぁ、ありがとう」
手を振る可愛に軽く帽子を持ち上げてから、生太郎は祝を追い掛ける。
「むぅー、むぅー」
「……こら。あまり動くな」
しかし、むぅ太郎はご機嫌に揺れ続ける。生太郎に片手で押さえられても止まらない。
正太郎は溜め息を吐き、このよく分からない生き物から手を離す。祝の後に続き、富久住駄菓子店から、一歩外へ踏み出した。
「むぅー」
瞬間。
目の前を通り掛かった老婆が、後ろから駆けてきた男に、突き飛ばされた。
男は倒れた老婆を助ける事なく、この場を走り去っていく。
その腕には、直前まで老婆が持っていた風呂敷包みが、抱えられていた。
「っ、吉瀬っ!」
「はいっ!」
正太郎は、逃げていくかっぱらいを追い掛ける。祝は老婆へと駆け寄った。
「待てっ!」
正太郎の声に、男は後ろを振り向く。巡査の姿を見るや舌打ちし、一層足を速めた。正太郎も速度を上げるが、中々距離は縮まらない。
気付けば、人力車と行き合った通りは、すぐそこまで迫っていた。
このままでは、周りの人間に紛れて逃げられてしまうかもしれない。
「くそ……っ」
正太郎は、腰に差した官棒を抜き取った。大きく腕を振り被り、男の背中へ投げ付ける。
「むぅー」
すると、背後から突如強風が吹き抜けた。その勢いに押され、正太郎の体は前へ進む。
官棒も、風に押されて飛んでいく。
鋭さを増した官棒は、かっぱらいの頭へぶつかった。鈍い音を立て、空高く跳ね上がる。
男は呻き声を上げ、前へつんのめる。しかし歯を食い縛り、縺れそうな足をどうにか堪えた。
盗んだ風呂敷を抱え直し、人の行き交う通りへ、転がるように駆け込んだ。
「むぅー」
直後。
「うおぉっ!?」
たまたま通り掛かった人力車と、衝突した。
かっぱらいの体が、弧を描いて飛んでいく。そのまま近くの店の前に積み上げられていた木箱へ、突っ込んでいった。
痛々しい音が辺りへ響き渡る。
「て、てめぇっ、危ねぇじゃねぇかっ! いきなり飛び出してきやがってっ! どこに目ぇ付いてんだこの野郎っ!」
人力車を引いていた車夫は、眉をつり上げて怒鳴る。しかしかっぱらいは、目を回すばかりで返事をしない。辛うじて意識はあったが、それも先程跳ね上がった官棒が偶然額に落ちた事で、完全に動かなくなった。
正太郎も、目と口を丸くして、思わず動きを止める。
「自分からぶつかっといて詫びの一言もねぇのかっ! おいっ、何とか言えってんだっ!」
「っ、ちょ、ま、待てっ! 落ち着けっ!」
いきり立つ車夫の前へ、正太郎は慌てて立ちはだかる。
「止めねぇでくれ旦那っ! こういう礼儀知らずはなぁっ、びしっと言ってやらなきゃ分かんねぇんだよっ!」
「相手はもう気絶しているっ! これ以上言った所で聞こえてはいないぞっ!」
「なら叩き起こすまでだっ! そんで自分の不注意をきちっと反省させてやらぁっ!」
「あいつが悪い事は私もよく分かっているっ! だからここは私が預かろうっ! こちらで然るべき対応を取るから、お前は一旦下がるんだっ! いいなっ!」
「だが旦那っ!」
「ほらっ、仕事に戻れっ! 客を放っておく車引きがあるかっ!」
渋々車へ戻る車夫を見送り、正太郎は溜め息を吐いた。倒れるかっぱらいをうつ伏せにして、後ろ手に縛っていく。
「大丈夫ですかい、奥さん、坊ちゃん。怪我はありやせんかい?」
「えぇ、私達は大丈夫よ。
「へい。この通りぴんぴんしてまさぁ」
車夫は自分の胸を叩き、笑い飛ばしてみせる。
「あの、壱朗太さん」
洋装の少年が、おずおずと車夫を見やる。
「ごめんなさい。僕が忘れ物なんかしなければ、こんな事にはならなかったのに」
「そいつは違ぇやすよ。ありゃあどう考えても向こうの不注意だ。坊ちゃんが気に病むこたぁありやせん」
「そうよ。巡査さんもそうおっしゃっていたじゃない」
落ち込む息子を撫で、母親らしき上品な女性は息を吐く。
「でも、本当に驚いたわ。今まで何度も人力車に乗っているけど、ここまで盛大にぶつかったのは初めてよ」
「俺もでさぁ。しかもぶつかった相手が、たまたま近くにあった木箱に突っ込んじまったんだ。その上巡査の旦那まで現れるなんざ、いやぁ、こんな偶然、あるんですねぇ」
……そうだろうか。かっぱらいを縛りながら、正太郎は内心首を傾げた。
たまたま正太郎が店から出た時、かっぱらいと出くわした。
たまたま強風が吹いたから、投げた官棒が勢い良くかっぱらいに当たった。
たまたま子供が忘れ物をしたから、引き返してきた人力車が、かっぱらいとたまたま衝突した。
吹き飛ばされたかっぱらいは、たまたま近くに積み上げられていた木箱へ突っ込み、そして落ちてきた官棒がたまたま額に当たって、気絶した。
その結果、正太郎はこうしてかっぱらいを捕まえる事が出来た。
こんな偶然、最早神掛かっているとしか言いようがない。
……いや。
この場合、妖怪掛かっている、と言った方がいいのだろうか。
「……まさかな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
正太郎の頭の上で、真ん丸な物体が「むぅー」と揺れる。明らかに目立つだろうに、通行人は誰一人足を止めない。男を捕縛する巡査へは目を向けるも、その頭に乗る不自然な毛玉を気にする者は、いなかった。
「……よし」
かっぱらいの手を縛り終え、正太郎は近くに転がる官棒を掴んだ。腰に下げたサーベルの隣に差し込む。
「むぅー」
不意に、かっぱらいの袖口から、銀色に光る何かが顔を覗かせた。
何気なく手を伸ばせば、正太郎は、息を飲む。
それは、小さな包丁だった。先端には、ほんのり赤い血が付いている。
正太郎は、男が盗んだ風呂敷包みを引き寄せた。結び目の部分が切られている。これでは掴む事が出来ず、小脇に抱えなければ中身が零れてしまう。
その風呂敷にも、乾き切らぬ血が少量付いていた。
正太郎の脳裏に、このような手口を使うかっぱらいの名前が、浮かび上がる。
「……鎌鼬……」
呆然とする正太郎の頭上で、その呟きを肯定するかのように、むぅ太郎は声を上げた。
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