人魚姫

昔、そのまた昔のお話しです。

南の海は束の間の凪、人魚姫は波間にたゆたっていました。

「昨日はひどい嵐だったけれど、すっかり晴れたわ」

昨晩の轟々という雨音、背丈の10倍もある波が嘘のように、空は青く、そよとした風が心地よく吹きます。

人魚姫は海獣、ヒトにはマナティと呼ばれる海に生きる動物です。人魚姫、とはいうものの、魚ではないのでした。

「あれ、あれは何かしら」

見ると、海面には木っ端が浮かんでいます。

「お船でも壊れたのかしら。あ、あれはヒトかしら」

大きめの板に、ヒトが掴まっているではありませんか。

「どうしよう、助けた方がいいかしら。でも、お父様が、ヒトは怖くて嫌な動物だから、近づいてはいけないって」

人魚姫が考えあぐねていると、そのヒトは力尽きたのか、板から落ちて沈んでしまいました。

「あっ」

考える暇などありません。気づいた時には人魚姫は、ヒトを背中に乗せて海面に浮上するところでした。

「げほっげほっ、げぼぼっ」

ヒトは水を吐き、呼吸をひとつ。

「ここは…わたしは、助かったのだろうか。そうか、お前が助けてくれたんだな。礼を言う」

赤道直下の暖かな海だったので、生きていられたのでしょう。ヒトは、人魚姫の背中の上で、人魚姫の背中を撫でました。

人魚姫が陸地の近くまでヒトを乗せてくると、見たこともないほど大きな船が停泊しています。

「おお、我が国の旗だ。お父上が私の捜索に来てくれたのに違いない」

ヒトは、船に向かって手を振りました。

「王子!王子があそこに!」

「海獣に襲われておるぞ!」

船の上で、たくさんのヒトがなにやら叫んでいます。

「王子をお助けしろ!」

「ボートを出せ!」

人魚姫が近づいてくる小さな船に近づいていくと、ガァン、ガァンととても大きな音がしました。人魚姫は思わず背中のヒトを落としてしまいます。

「やめろ!お前たち、やめるのだ!あれは、わたしを助けてくれた獣だ!」

ヒトは小舟に泳いでいくと、船に乗っていたヒトから黒い棒を取り上げました。

人魚姫は怖くなって、泳いでいこうとしました。

ポチャン。

水飛沫がたって、何かキラキラと輝く輪が人魚姫の首にかかりました。

「すまぬ、獣よ!それはせめてもの礼じゃ!お前には役に立つものではないだろうが…しかしわたしの気持ちなのだ、受け取ってくれ!」

背中にいたヒトが、叫んでいます。それは他のヒトと違って、怖いものではありませんでした。


棲家に戻ってきて、人魚姫が考えるのは、あのヒトのことばかり。

「ヒトって、とても大きな音を出したり、あんなに大きな船に乗ったり、でもあんなに優しく撫でてくれたり。いったいどんな獣なんだろう。怖いヒトだけじゃないのかも。きっと素敵な獣でもあるんだわ」

人魚姫は、ヒトという獣に、とても興味を持ちました。人魚姫はお父様の言いつけを、ちょっとだけ破って、冒険したくなったのです。

「ちょっと、ちょっとだけ見るだけなら、いいわよね」

人魚姫は夜の陸地にそっと近づいてみます。するとあの大きな船が、夜中だというのに、ちょうど陸地を離れたところでした。船の上では、ヒトがとても慌てているように見えます。

「ああ、あのヒト、どこか遠くに行ってしまうんだわ」

人魚姫は、ちょっぴりさみしくなりました。

そんな時、陸地のずっと奥の方で、雷のような音が聞こえてきたのです。

「なにかしら」

人魚姫がそちらを見ると、遠くが昼間のように明るくなっています。そして、キラキラと光るものが、人魚姫のいる海にまで降ってきました。

気づいた時、人魚姫は、ヒトのような手足をもつ姿になっているではありませんか。

(これは…どういうこと?ああ、声が出ない。私、どうしてしまったのかしら。この手、この足。まるでヒトのよう」

人魚姫がどうしていいかわからずに波間を漂っていると、大きな船からヒトが飛び込んできました。

「大丈夫か、お嬢さん。其方もあの火山から逃れてきたのだね」

それは、人魚姫が助けたヒトでした。

すぐに船から幾本ものロープが垂らされ、水夫たちが降りてきました。そうして、人魚姫と王子は、船の上に引き揚げられたのです。

「其方は声が出ないのだね。しかしそれでも有り余る美しさだ。むう?その首飾りはどうしたのだ?それはわたしが、ある獣に授けたものなのだが…」

しかし人魚姫は話すことができません。

「では、文字を書くことは」

それもできない、人魚姫なのでした。

それでも、王子は人魚姫との間に不思議な縁を感じ、またその美しさに魅入られていましたので、時間を見つけては人魚姫の部屋に馳せ参じるのでした。


船が到着したのは、人魚姫が暮らしていたのとは違う、寒い海でした。

人魚姫は招かれるままに、王子の城に部屋を頂き、住まうようになりました。

それは夢のような日々でした。今まで見たこともないものを見、聴いたことのない音を聴き、食べたこともないものを味わい、そして優しい王子にいだかれる。人魚姫は、幸せでした。

けれど、そんな日はいつまでも続くものではありません。王子の父、国王の目こぼしは

終わり、王子が隣国の姫と結婚することになったのです。そこに愛情などなくとも、それが王子の大きな役目なのでした。

そんな折、人魚姫も身体の異変を感じていました。

「悪阻、ですな。妊娠でしょう」

王室付き医師の診断でした。王子が結婚相手以外の女との間に子を成すこと自体は珍しいことではありません。けれど、出自もわからぬ人魚姫ですし、王女との結婚を控えた時期です。出産はひっそりと行われました。

人魚姫は赤子を抱いて王子に微笑むと、やおら起き上がると、王子が伸ばす手を振り切って城から海へと身を投げたのです。

王子が軍隊に命じて探させましたが、海からは人魚姫の遺体すら見つかりませんでした。


人魚姫は、わかっていたのです。もう、ヒトとしての生命は終わるのだと。

我が子に星の記憶を受け継いだ人魚姫は、再びマナティの姿になっていました。

「もう、十分に幸せになった。私は、もうこれで、この思い出だけで生きていけるわ」

そして、人魚姫は泳ぎだします。遠い、遠い南の海。人魚姫のふるさとの海へと。

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獣人伝奇ーむかし語りー 油絵オヤジ @aburaeoyaji

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