十話 飛跳 中

 その後、山頂までノンストップ。なけなしの体力を振り絞ってよじ登り、足を滑らせた時には助けてもらい。

 何度かみっちゃんとロウカくんの衝突も再燃しかけましたが、散々煽られてもロウカくんはぐっと我慢して事なきを得ています。偉いです。

 最後の方はほとんど道とも呼べない坂の連続でしたが、疲れ切った私は司書服が砂だらけになるのも構わず這って登り、段差に手をかけて身体を持ち上げると。


「わあ……」


 視界を遮るもののない、頂上の風景が私を出迎えました。村の広場くらいの大きさで、周囲は崖になっており、そこからは眼下の様子が一望できます。

 山を取り囲む青々とした森林地帯と、小さくなっているクヌギの里。南西の方角にはここよりもずっと大きいドングリ山が見えました。

 風は強いですが新鮮な空気を胸一杯に吸い、これまでの疲労感がすーっと抜けていくようで、清々しい気分です。


 図書館にいたら、こんな気持ちになる事は永遠になかったでしょう。その足で歩いて、その手で掴んで、その目で見てこその世界。ロランさんの言っていた通りでした。

 これだけ素晴らしい景色が世界のまだまだ一部分でしかないなんて、他にはもっと素晴らしいものがどれだけあるのでしょう。私は改めて本だけでは覗かせてくれない、この地平の雄大さに思いをはせるのでした。


「やれやれ、結局山頂まで手出しできなかったな。それもこれもあの番犬野郎のおかげで」


 私の隣では、みっちゃんが面白くもなさそうに足下の小石を蹴りつけています。そうでした。そもそも私の目的は、日記帳を取り戻す事。山を登ったり妖怪に怯えてたりでそれどころでなく、今の今まで、またしても忘れていたのです。私は足場の中央に佇むヒイラギさんをちらりと見てから、かがみ込んでみっちゃんに話しかけました。


「ど、どうしよう……今からでも間に合うかな?」

「へーえ。飛跳がいつやってくるか分からないこんな場所で、そんな大捕物に手を出すなんて、お前って結構大胆なんだな」

「うう……いじめないでよ」


 皮肉たっぷりに返されてうなだれてしまいます。みっちゃんはこうなったらヒイラギさんが飛跳と戦っている隙を狙うしかないとか呟いていますが、私にそんな度胸があるわけありません。


「あー、お前はもういいよ。私がやるから。あいつが飛跳を倒して気を抜いた直後に、さらっとかすめ取ってやらあ」


 ついに戦力外通知です。薄々期待されていないのではと思っていましたが、その通りでした。こうなったらもう、みっちゃんに任せるしかなさそうです。


「――ジェシカさん」


 名前を呼ばれ、私は振り返りました。いつの間にか近くにはロウカくんがいて、ヒイラギさんは一人でその場に立っています。


「ロウカを護衛につけるので、私があやかしを倒すまで、決して動かないように」


 おいおい、と声を上げたのはみっちゃんでした。


「ヒイラギおめー、いいのか? ロウカの力を引き出さないと、本領は発揮できないだろうが。飛跳は舐めてかかっていい相手じゃねぇぞ」

「必要ない」


 短く返されます。ロウカくんがみっちゃんへ冷ややかな視線を送りました。


「お前が里を出ている間に、ヒイラギ様は厳しい修練を積み、以前とは比べものにならない技量を手に入れたのだ。お前の不安など、余計な世話である事この上なかろうよ」

「はっ。ずいぶんな自信じゃねーの。そこまで言うならお手並み拝見ってところだぜ」


 舌打ちしてそっぽを向くみっちゃん。ロウカくんもそれ以上取り合わず、じっとヒイラギさんの背を見つめています。私も固唾を呑んで同じようにヒイラギさんを眺めながら、いくばくかの時間が過ぎました。


「あ、あの……」


 いつ、飛跳は来るのでしょう。そう誰にともなく質問しようとして、みっちゃんがぽつりと言いました。


「来るぞ」

「え……っ?」


 刹那、強烈なまでの突風が私達のいる頂上を襲い、思わず身をすくめてしまいます。風はどんどん激しさを増し、やがて羽ばたき音と、カラスの鳴き声のようなひどくいびつな雄叫びが響き渡りました。

 ヒイラギさんが待機している眼前の崖。その下から、黒い影が勢いよく飛び出します。その影はまるでこちらをあざ笑うように右に左にと上空を旋回し、やがて足場へと舞い降りて来ました。


 予想以上に巨大な、怪鳥です。はじめは全身が漆黒なのかと思いましたが、ところどころに斑点のような赤色が張り付き、私は理解しました。

 この怪鳥は元々、赤い翼を持っていたのです。ですが、全身を別の色で染め上げるくらい、獲物を狩った。すなわちこの黒は、乾いた血。浴びるほどの返り血なのです。

 翼、足、かぎ爪――身体を構成するパーツはごつく太く、羽毛で覆われていながら頑強さと、しなやかな強靱さを持ち合わせています。

 頭部に備わった切れ込みのような赤い眼がこちらを睥睨しました。そこにあるのははっきりとした食欲です。空を覆うあれほど大きな生物に、食べ物と思われる状況。

 私の心臓が破れそうに脈打ち、足は逃げだそうとしながらも本能的な恐怖に動けず、がたがたと震えるしかありませんでした。

 怪鳥――飛跳の目が、ぎょろつきながらヒイラギさんへと移りました。身体の向きを変え、空中でゆったりと翼を羽ばたかせています。どうやら、最初の標的を定めたみたいです。私に向けられる殺気が薄れた事で幾分か呼吸が楽になりましたが、本当にあんな怪物にかなうのでしょうか。

 これまでに見かけた妖怪達とは存在そのものが異なる、純粋な狩人。矮小な人間一人で戦う事ができるなんて、私には想像もつきません。


「……十年ぶりだな」


 ヒイラギさんが口を開きました。風が荒れ狂いながらも、不思議とその呟きは私の耳まで通ります。


「その傷……姉上がつけた傷。間違いなく、あの時の飛跳だな。今度は私が相手だ。今こそ、貴様の息の根を止めてやる」


 ヒイラギさんが腰にある太刀を引き抜いて、切っ先を飛跳へと差し向けます。見れば、飛跳の両眼のうち、片方には鋭利な刃物で斬りつけたとおぼしき傷痕が斜めに走っていました。それは目を潰すには至らなかったようですが、ヒイラギさんの言うところのあの傷はハヅキさんがつけたもので、十年後もこうして濃く残っていたのです。


 飛跳は唐突に、怪音波にも等しいわめき声を張り上げ、ヒイラギさんめがけて突っ込んで来ました。翼をはためかせての猛スピードの飛翔。あれほどの質量があの速度で体当たりをしてきたら、人体なんてすぐさま粉々です。

 それでなくとも、飛跳には湾曲した鋭いかぎ爪や、岩をも砕きかねない硬質なくちばしがあります。そのどれで料理されるにせよ、狙われた時点で獲物の運命は決まったようなものでした。

 しかし、飛跳が鼻先にまで迫って来ても、ヒイラギさんは慌てず騒がず――構えた太刀を横一線に薙ぎ払っていました。そのあまりの速さに、私の目には予備動作さえ映らなかったほどです。

 ヒイラギさんまで残り数センチ、というところで瞬間、飛跳は後ろから引っ張られたみたいに止まり、次いで額につけられた深い傷口から鮮血が吹き出しました。

 風圧にあおられてその血は飛跳自身の目に降りかかり、視界をふさぎます。そしてヒイラギさんは間髪入れず踏み込み、見上げんばかりの飛跳の巨体へと太刀を振り下ろしました。

 血が吹くのを待たず袈裟懸け、逆袈裟、さらに刀身を深々と突き入れると、執拗な斬撃を嫌がるように飛跳が無理矢理翼を上下させ、中空へと浮き上がります。ですがヒイラギさんは飛跳に突き入れた刀を引き抜きつつ、くるりと一回転。次の拍子には、空を飛ぶ飛跳の翼の上へと飛び乗っていたのです。

 戦いの場は空中へと移行し、飛跳は自分に取り付いたヒイラギさんを叩き落とそうと様々な軌道を描いて飛び回りますが、ヒイラギさんはものともせずに翼を掴みつつ、もう片手に握った太刀で飛跳を斬り裂きます。背中や翼、尾までも切り刻まれ、青い空に赤い血をまき散らしながら飛跳が苦悶の声を上げました。


 と、そこでようやくヒイラギさんが飛跳から手を離し、宙へと身を投げます。太刀は握ったままですが、これでは思うように身体が動けず、飛跳からはいい的でしょう。そもそもこの高度では、無事に足場へと着地できるかも定かではありません。


「ロウカくん、ヒイラギさんが……!」


 この窮地を救えるのは、ヒイラギさんの相棒であるロウカくんくらいしか思いつかず、私は傍らで戦況を見据えているロウカくんへと訴えかけました。でも。


「心配は無用。全てがヒイラギ様の掌の上だ」

「え……?」


 私が呆然とした直後、体勢を整えた飛跳が空にいるヒイラギさんへと急接近していきます。

 あれだけの攻撃を受けても、まだスピードに衰えは見られません。このままではヒイラギさんは捕まり、あのかぎ爪で引き裂かれてしまうでしょう。何もできない私は、その惨劇が目に見えるようで硬直するしかできません。

 けれども、ヒイラギさんは飛跳が襲って来るのに合わせて身をひねり、なんと紙一重でその突進を躱してのけたのです。のみならず太刀を振り回し、すれ違いざまに飛跳の翼を斬り落として見せました。翼を一つ失った飛跳は悲鳴を上げながら頂上の足場へと墜落し、その衝撃に揺さぶられた私は尻餅をついてしまいました。

 見上げれば、太刀を両手で握りしめたヒイラギさんが、飛跳の頭上から落下の重量も込めて振り下ろします。

 その一撃は飛跳に刻まれた古傷の上より眼球ごと斬り潰し、頭部から噴水のように血液を吹き出させました。ヒイラギさんは飛跳の頭を蹴って宙返りし、無傷のまま地上へと着地します。


「どうだ……これが里の術者の……私の力だ!」


 ひとしきり苦しみ、そしてじきに動かなくなり地へ伏せた飛跳へ吐き捨て、ヒイラギさんが私達の方へ向き直りながら刀を鞘へ収めます。そこでやっと、私はヒイラギさんが飛跳に勝ったのだと、実感が湧いて来ました。


 立ち上がりながらも、胸には安堵が広がります。ああ、良かった。飛跳を倒した事よりも、ヒイラギさんが無事な方が嬉しいです。

 ヒイラギさんもロウカくんもみっちゃんも、誰も傷ついて欲しくありませんでした。日記帳を求めてここまで頑張ってやって来て、心が洗われるような風景を見て。そんな思い出に、みんなの誰一人とて欠けて欲しくなかったのだと、私はその時気がついたのです。


「……みっちゃん」

「なんだよ」

「私……ヒイラギさんに全部話すよ。日記帳の事も、どうやってここに来たのかも――ハヅキさんの事も」

「あっそ。好きにしろよ」

「……ありがと」


 みっちゃんは不満そうでしたが、私もなんとなく抱き始めていた思いを宣言できた事で、決意が固まりました。

 ヒイラギさんを信じてみよう。今のあの人なら、きっと大丈夫――そう感じた、矢先の事でした。


「ん……? ――いや、待て、ヒイラギ! まだ殺ってねぇ!」


 みっちゃんが突如叫び、ロウカくんとヒイラギさんが怪訝そうな顔をした半瞬後。うつぶせになって横たわっていた飛跳が身じろぎしたかと思うと、残った一つの眼が、にわかにくわっと開かれたのです。

 身を起こすや否や、異変を悟って振り向いたヒイラギさんへ、巨体ごと叩きつけていきました。ヒイラギさんの身体が地面の上を跳ね、後方へと転がって力なくうつぶせに倒れ込みます。


「ひ――ヒイラギさん!」

「ヒイラギ様!」

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