十一話 飛跳 下

 ロウカくんが叫び、駆け出します。瞬く間に白銀の炎が立ち上り全身を覆い込んだかと思うと、そこには銀色の毛並みを震わせた犬が疾走し、飛跳へ突撃していきました。あれが恐らく、ロウカくんの真の姿なのでしょう。

 本来の姿へと変じたロウカくんの咆哮と飛跳の喚声が重なり、一瞬の後に吹き飛ばされていたのはロウカくんの方でした。その鋭い爪で飛跳を裂こうとしたのですが、死にもの狂いの飛跳は攻撃を受けつつも残った翼をばたつかせ、逆にはじき飛ばしてしまったのです。

 ロウカくんは素早く一回転し体勢を立て直しますが、ヒイラギさんとの距離は離れてしまっています。

 一方で飛跳は翼を使わずその太い両足で地を駆け、ヒイラギさんへと肉薄していました。


「ちっ……」


 ヒイラギさんがいまだ倒れたままなのを見て取り、みっちゃんがいきなり飛び出します。その小さな身体には力が入り、髪や四肢からは赤金色に輝く光を纏い、火の粉が舞っています。

 きっとみっちゃんも同じように変身しようとしているのでしょうが、ここから急行したとして間に合うでしょうか。私は息もできず立ち尽くし、突き進む飛跳ともがくヒイラギさんを見つめていました。

 その時です。私達の側を、旋風のように何かが駆け抜けていきました。風をも置き去りにするあまりの勢いに私はよろめきかけ、そうしてすでにかなり先にいるその何かを目にして、あ、と声が漏れます。


 あれは。あの後ろ姿は。


 ヒイラギさんと飛跳の間へ割って入り、すかさず抜刀。簡素な白木に覆われた白鞘から引き抜かれた刀が日の光を照り返し、飛跳へと一閃します。


「――はっ!」


 飛跳の猛突進はぴたりと停止し、天を仰ぐように悲鳴を上げました。新たにつけられた刀傷は鮮やかで、噴出する血の量からもこれまでとは一線を画す威力を誇っているのだと分かります。

 よたよたとたたらを踏む飛跳と相対し、何者かは自然体のまま正眼に刀を構え直しました。その様子を見て、止まっていた時が動き出したみたいに私は声を上げます。


「……ハヅキさん!」


 この場に乱入して来たのは誰あろう、日記帳に触れて以降行方知れずになっていたハヅキさん、その人でした。


「ミツビ」

「あぁ……?」

「行けるか?」

「……当たり前だろ」


 今までどうしていたのか。なぜここに来たのか。そういった諸々の疑問を全てすっ飛ばして、みっちゃんへちらりと一瞥だけ向けたハヅキさんが問いかけます。対してみっちゃんも多くは語らず、にぃっと口角を歪めました。


「行くぞ……我らの力を解き放つ!」


 ハヅキさんが刀を真横へと振り抜くと、光り輝くみっちゃんが上空へ舞い上がり、炎そのものへと溶けるように変わっていきます。続けざまにハヅキさんめがけて隕石が着弾するかの如く急降下し、包み込みました。

 炎は幾本もの帯となり花が咲くようにほどけて、中からハヅキさんが現れます。しかし彼女が把持する刀には、大きな変化が現れていました。

 火焔を灯し、飛躍的に伸びた刀身。そして幅も広がっています。ぱちぱちと火の粉を散らし、さながらみっちゃんの闘志がそのまま目に見える形になったようでした。

 柄頭からはオレンジのオーラが実体化したみたいに、ふさふさとした尻尾が伸びています。ゆらゆらと蝋燭のように揺らめくその数は――八本。


「我が弟を傷つけた罪。その身であがなってもらおうか」


 燃えさかる刀を握り込み、それだけ告げたハヅキさんが踏み出しました。心なしか飛跳は尻込みしたように後ずさりましたが、けれども叫声を上げて掴みかかります。

 人の頭をたやすく砕けるであろう豪腕から繰り出されるそのかぎ爪はしかし、ハヅキさんへと届く事はありませんでした。

 敵の抵抗の一切を無為とする、圧倒的なまでの振り下ろし。ハヅキさんと、そしてみっちゃんの作り上げた刀が残像を残して飛跳の正面から通過し、炎が衝撃波とともに巨躯を突き抜けて空へと消えていきました。

 刀から、炎がふっと消えます。残り香もなくあっさりと。直後、彫像のように佇立していた飛跳の正中線がぱっくりと割れて――その先からごうと音を立てて燃え尽きていきました。

 ハヅキさんの斬撃は肉体を断ち割ったのみならず、刀に宿るみっちゃんの炎までもが飛跳の肉体を食い破り、焼き尽くしていたのです。


「急に出て来たかと思えば、おいしいところを持っていきやがってこいつ」

「はは、私にぴったり呼吸を合わせられたお前が言えた事ではないだろう」


 一刀のもとに飛跳を葬り去ったハヅキさんが刀を鞘へ収めると、その傍らの空間から小さな火が点火され、そこからくるくると回りながらみっちゃんが姿を現しました。尻尾も元の三本です。私もほっとして、ハヅキさんへと声をかけます。


「ハヅキさん、無事だったんですね……! それに、助けて下さってありがとうございます。ハヅキさんが来てくれなかったら、どうなっていたか」

「礼には及ばない。正直なところ、私もいつ出て行ったものか逡巡していたところなんだ」

「え……それって」

「君とミツビがドングリ山にいたように、私も少し離れたところで気がついてね。運良く二人を見つけられたのはいいものの、クヌギの里へ行くようなので密かに窺っていたんだ」

「なんでだよ。私らが里に入ったんだから、お前だって合流したら良かったじゃねーか」


 いや、とハヅキさんはかすかに面を伏せて。


「無断で出て行った身上ゆえ、皆に合わせる顔がなくてな……」


 その負い目があるから、突然の事態である事も手伝いハヅキさんは踏ん切りがつかなかったのでしょう。本当はもっときちんとした機会に、胸を張って帰って来たかった――そんな思いが、ハヅキさんの態度からはくみ取れて。

 私もみっちゃんもそれ以上何も言えず、静かに瞑目しているハヅキさんを見つめていました。


「――お見事でした、ハヅキ様」


 と、そこで人型へ戻ったロウカくんが、ヒイラギさんを助け起こしながらハヅキさんへ目線を送ります。


「……驚くほどにたくましく、そして強くなられた……再びお顔を拝見できて嬉しく思います」

「私もだ、ロウカ。変わりなく息災であるようだな。この十年、お前は姿も子供のままか」


 ハヅキさんも頷き返して、それから立ち上がったヒイラギさんへと目を留めます。ヒイラギさんはしばし、うつむいていましたが――前兆なく顔を上げて、ハヅキさんを見据えました。


「……姉上」

「久しぶりだな、ヒイラギ。こう言うのも何だが……元気だったか」


 ハヅキさんは口調に少しばかり茶目っ気を込めましたが、ヒイラギさんは唇を引き結んだままで空気は重く、不穏さが堆積していくみたいでした。二人の距離はさほど離れていないのに、その間に断崖が口を開けているかのように感じます。


「十年ぶり……ですか。あなたが里を出て行って、それほどに。ようやくお会いできましたね」

「そうだな……お前もずいぶんと、雰囲気が変わった。背丈も、しゃべり方も、その身に秘めた力も……はじめに見かけた時は、別人かと疑ったぞ」


 ふっ、と懐かしむような、苦みの籠もった笑みを浮かべるハヅキさんですが、次にヒイラギさんが放った言葉を受けて、真顔に戻ります。


「どれだけ……私がどれだけ、あなたを恨んでいるか、理解しているのでしょうか。あなたが姿を消したあの日、私がどれほど嘆き悲しんだか。ほんの少しでも、考えた事はあるのでしょうか」

「……もちろんだ。自分がした事はよく分かっている。お前の憤りももっともだ。しかし――」

「いいや、分かってない!」


 ふいにヒイラギさんが大声を張り上げ、ハヅキさんを指弾します。


「あの日から、あの時から、俺は姉さんの帰りを待ち続けた! 幾日も何日も、何ヶ月も! だけど、ある時気がついた……もしかしたら、戻ってこないんじゃないかって。その瞬間から俺の心は死んだんだ。そしてその代わりに、怒りがこみ上げて来た――あんたへの途方もない怒りがな!」


 語調は激しく乱れ、歪んだ形相から狂気めいた光を双眸から放ち、ヒイラギさんはこれまでの鬱積した感情をぶつけるように、ハヅキさんを睨み付けます。その剣幕に私はたじろいでしまいましたが、ハヅキさんもみっちゃんも、じっとヒイラギさんの叫びを受け続けていました。


「あんたはどんな願いも期待も何もかも無視して忘れて、どこか遠くへ行ってしまった! 残された俺は、あんたが捨てたものを背負っていかなきゃいけなかった――たった一人で! なあ、分かるか? 分かるはずだ、あんたが俺と同じ立場に立たされたら、この気持ちが!」

「ヒイラギ、聞いてくれ」


 唾を飛ばしながらまくし立てるヒイラギさんが呼吸を置くのに合わせて、ハヅキさんが毅然として言葉を重ねます。


「確かに私はただのハヅキとして世界へ出て行ったが、いつか必ず里へ戻るつもりだった。……守るためにふさわしい力をつけてから、必ずな。お前一人に、最後まで重責を背負わせる気は毛頭ない。もしもお前が望んでくれるなら、こんな私でももう一度――」

「のこのこと、おめおめと里へ戻るというのか? 臆病者の裏切り者めが。守るための力だと? いい加減にしろよ、一人で逃げ出しておいてそんなうまい話が今さらあるとでも……!」

「いい加減にするのはお前だぜ、ヒイラギ」


 鋭く遮ったのは、みっちゃんでした。思わぬ横やりにわずかに怯んだヒイラギさんへ、みっちゃんは畳みかけるように告げます。


「さっきから聞いてりゃ、口から出るのは自分の都合ばかりじゃねぇか。そりゃあそうだよな、里から出てもなんとか生き延びていたハヅキと違って、お前は親父の背中におんぶにだっこ、ただ姉を恨んでりゃそれで良かったんだもんな?」

「なんだと!」

「図体ばっかでかくなって、心の方は昔とまるで変わりゃしねぇ。何の成長もなく何かっちゃあ姉さん姉さんと駄々をこねる。こりゃモクヨウだってハヅキに戻って来て欲しいって思うわけだ」

「ミツビ、もういい、よせ」


 ハヅキさんが止めても、みっちゃんはお構いなしで続けます。


「ハヅキは弟にゃ甘いが、私はそうはいかないぜ。まったく十年も経っておいて顔を出してみれば、失望させられたのなんの。今回の飛跳退治にもたった一人で来たのは、里の事なんか関係ねぇ、そうすればハヅキと同じ――ハヅキよりも優れているって優越で己を満たしたいがためだろうが。ジェシカを守るのだって、ただハヅキならそうするってだけだと思ったからだろ」


 そこで一度息を吸い込み、正面からヒイラギさんを怒鳴りつけます。


「――いい年こいていつまでも依存してんじゃねえ、さっさと姉離れしやがれ!」


 ロウカくんが吼え、再び犬へと変化します。いつでも飛びかかれるように前足を踏ん張り、みっちゃんを睨み据えます。その鬼気迫る状態からは普段のじゃれ合いみたいなやりとりとは異なる、本気の怒りを感じました。

 けれども、みっちゃんはやめません。十年越しの再会。理由も分からずハヅキさんがいなくなり、やり場のない鬱屈に囚われたヒイラギさんを前に、言わずにはいられなかったのでしょう。


「過去には手も足も出なかった飛跳を、実力を抑えて圧倒する事で姉を超えようとした……だがそのせいで倒したと思い込み隙を突かれた。さっきの窮地はお前の未熟さが招いたんだ。違うか、えっ?」

「……ああ、そうかも知れない」


 ヒイラギさんの声音は低く、さっきまで興奮していたのが嘘のようです。しかし。


「どれほど努力しても、俺は未熟だ……あんたという大きな壁がいて、そこにいつまでも手は届かないという諦めがあった。そんな自分も、自分を見下げる周囲も、何もかも嫌いだ。ああ、もう許さない。駄目だというなら変えてやる」


 ヒイラギさんが太刀を引き抜いて――剣先を、ハヅキさんへと突きつけました。


「……あんたを殺して、こんな惨めさを払拭ふっしょくしてやる。死んでくれ。そして俺を解放してくれよ、姉さん」

「ひ、ヒイラギさん、やめて下さい……!」


 背筋が冷たくなった私はとっさに声をかけましたが、聞こえていないかのようにヒイラギさんの視線はハヅキさんへと張り付き、刀が下ろされる気配もありません。ロウカくんも変身を解いて、同じようにヒイラギさんを制止します。


「ヒイラギ様、姉弟で殺し合うなど許される事ではありません! どうかお気を確かに」

「黙っていてくれないか、ロウカ。次に何か抜かせば、お前でも容赦しない。下がって見届けろ……どちらが真に里の長に選ばれるべきなのかを」


 殺気は鋭利な冷気のようで、紛れもなく本物で――それを間近で受けたロウカくんは、くっと歯を食いしばります。自分では手に負えない、止められないと言いたげに、表情は悔しげです。


「ハヅキ様、お逃げ下さい。ここは私が命に代えてでもヒイラギ様を食い止めてみせます。ですから……!」

「んなもんは必要ねえよ、犬」


 みっちゃんが短く吐き捨てて、ハヅキさんを見やりました。


「悪いな、ハヅキ。頭にきたもんだから説教がましく、うっかりあいつを殺る気にさせちまったよ」

「いや……本来なら、ああしてあいつを叱るのが、姉の役目なのかもな。だが私には、そんな真似はできそうにない……だから礼を言うよ、ミツビ」


 苦笑するようにかぶりを振って、自らも抜刀します。美しい白刃が、次第に夕暮れの迫る空の斜光を返して、きらめきました。


「ミツビ、分かっているだろうがこの戦いは私に任せてくれ。私一人で、ヒイラギを止めなければいけないんだ」

「へーへー、まあ私も多少は責任を感じるからな。この甘ったれを矯正すんのはお前に任せるぜ」

「姉さんは旅に出た。そしてどこぞでのたれ死んだんだ。そういう事だ。そういう事にしてやる。俺自身の手で」

「ハヅキ様、ヒイラギ様……どうか思い直しを。せっかくもう一度会えたというのに、その結末がこれでは……!」


 四人ともそれぞれ向き合い、私は完全に眼中になくなっているみたいです。もちろん私にこの決闘を止められる力なんかないので、食い入るように見守る、しかないのですが。

 本当に、これでいいのでしょうか。このままではハヅキさんは、実の弟であるヒイラギさんと斬り合う羽目になってしまいます。ハヅキさんもヒイラギさんも、きっとお互いを愛しているのです。でも、いろんなしがらみが気持ちを凝り固まらせて、取り返しの付かない方へと転んでしまっている。

 どちらが勝っても、もう片方が生きていられるのか――あるいは、二人とも死んでしまうかも知れません。

 そう思うと、身体の芯から震えが走りました。飛跳を倒して、これでハッピーエンド。そうなるはずだったのに、こんな残酷な状況になるなんて、そんなの絶対嫌です。

 どうしてこんな事になってしまったのでしょう。ハヅキさんとヒイラギさんが出会ってしまう前に、私に何かできる事があったのでしょうか。


 ……いえ、まだ遅くはありません。ここで私が飛び込んでいっても何にもならないでしょうが、他にも方法はあります。

 先ほど、ヒイラギさんが飛跳の不意打ちを受けて倒れた時。吹き飛ばされた拍子に懐から飛び出したのでしょう、その近くにはなんと、あの日記帳が落ちているのです。

 だったら日記帳さえあれば、二人の戦いが始まってしまう前に、恐らく送還する事ができるはずです。ヒイラギさん本人はまだ気がついていないようですし、私が何をしようとしているかもまず分からないに違いありませんが――それでも、今のあの満身から障気を発するヒイラギさんへ接近するのは、相当の勇気が要ります。

 近づいた瞬間に斬られるかもしれない、それともロウカくんに組み伏せられてしまうかも。何も持たない、できない私が突っ込んでいくのは、もはや勇気ではなく蛮勇に等しいでしょう。

 けれど――すぐそこに悲劇を回避できるための手段があって、何もせず見なかった事にするのは、きっと冒険家のする事ではありません。


 私は、二人に仲直りして欲しい。その見たい情景のために、命を賭けるのです。


「……そうですよね、ロランさん」


 胸中にいる記憶のロランさんへ問いかけると、ああ、と笑みと共に力強く返されます。冷え切った心が沸き立ち、私はぐっと拳を握りしめ、その一歩を踏み出しました。

 ハヅキさんもヒイラギさんも、みっちゃんもロウカくんもお互いに睨み合っていて、こそこそ動く私に勘づいた様子はないです。何だか存在が忘却されているみたいで悲しいですが、それはそれで都合が良いでしょう。もし誰か一人にでもばれたら、他の人達にも芋づる式に発覚してしまうでしょうから。

 姿勢を低くし、ヒイラギさんの背後から忍び寄ります。ハヅキさん達との空間は一触即発でぴりぴりし、ひょっとしたら闘気をぶつけあったりしてすでに戦いは始まっているのかも知れません。どのみちそれほど猶予はなく、私は生唾を喉に押し込めながら、さらにかがみ込んで手を伸ばしました。

 かじかんだようにぎこちない指が、日記帳の固い表紙へ触れます。そのままつまみあげるように引き寄せ、私は抱き込むように日記帳を持って後ずさりました。


「ん……? おい、お前何して」


 みっちゃんが声を上げ、他の三人の視線が一様に集まって来ますが、私は気にせずにページを手繰りました。すると、うまくいくのだろうかという懸念とは裏腹に本はあっさりと開き――ひとりでにぱたぱたとめくれるや、あるページで止まって、内容が私の目に飛び込んで来ました。



 ――あの日、私達は妖怪の襲撃を受けた。飛跳。空を舞い人を食う怪鳥だ。

 そいつはこれまでに触れあった、滑稽だけれど愉快なドングリ山のあやかし達とは比べるべくもない害意に満ちた存在で、弟と遊んでいた私はいち早く察知し、すぐに弟を逃がそうとした。だが、どちらかが逃げれば多分、弱い弟の方が狙われる。肉食獣のように獰猛な飛跳の目を見た瞬間そう悟った。

 私は弟を背に戦った。武器もなく、無手に等しい無謀な戦いだったが、どんなに怖くても守らなければいけなかったのだ。未来の術者だから。……姉だから。

 何度薙ぎ払われても、叩きつけられても食い下がり、ついに撃退に成功した。五体満足なのが不思議なほどだったが、私と弟は生き延びたのだ。

 だが、おかげで私は自分の力不足を痛感した。里を守るには、これからもあのような危険な敵を相手にしなければならない。私はもっと、強くならなければいけなかった。

 そのために、外の世界へ目を向けた。父や大人達にかばわれ安全な場所で過ごしていては、いずれ限界が来る。特に私の才を鍛えるには、驕りでも何でもなく里の訓練では不足なのだ。だからまだ見ぬ力を求め、旅立とう。

 どれくらいかかるか分からない。五年、十年、いやもっと。けれども、私は必ず戻る。長としての務めを果たすため、強い力を得て立派になって、里へ帰ろう。それまでにくぐるあらゆる試練を、乗り越えて。

 父や弟を残し、たった一人で行くのにはやはり後ろ髪を引かれ、決意も鈍る。私だけでやっていけるのかという恐れもある。里の外は右も左も分からない。でも、ミツビがついてきてくれたから、なんとかなるだろう。こいつは意外と、やる時はやるのだ。

 大陸に向けてはじめて乗った船は、感無量の一言だった。海を越えた先には何があるのか、この目で見ていこう。暴力的で豪快な私の相棒とともに。



「これは……ハヅキさん、の」


 理知的でしっかりした読みやすい筆跡。やっぱりこれは、ハヅキさんの日記なのでしょう。書物自体は私の日記帳なのに、なぜかロランさんだったり、ハヅキさんの日記が書かれている。二人がこれらを記す時間なんてなかったはずなのに、私の頭には疑問符ばかりが浮かびます。

 と、読み終わった日記の隣、にじむようにして新たな文章が浮かび出てきました。この現象も、迷宮でロランさんの日記を読んだ時と酷似しています。私は息を詰めて、その部分へと素早く目を走らせました。



 ――嘘だ。嘘、嘘。全部嘘っぱちだ。私は強くなんてなりたくなかった。ただ怖かっただけだ。

 あの日、あの時。私は油断した。一度は飛跳を倒したと思い、気を抜いてしまった。

 それがいけなかった。奴は死んだふりをしていて、背を向けた私の首をもぎ取ろうと、音もなく接近していたんだ。

 助かったのは、弟のおかげ。あいつが私をかばってくれたから、私は生きている。でも代わりに、弟が大怪我をした。死ぬか生きるかの瀬戸際。命だけは助かったものの、それから私には消えない恐怖がつきまとうようになった。

 もしもまた飛跳に出会ったら、次も勝てるのだろうか。今回は運が良かったのかも知れないが、次は、またその次は。生きられるのか、守りきれるのか。

 それだけじゃない。敵は他にもいくらでもいる。それら全ての脅威から、私は今度こそ弟を守れるのか。怖い。弟を失うのが怖い。どれだけ力をつけても、いずれ手のひらからこぼれ落ちていくような……そんな悪夢が夜ごと私を苦しめる。

 里を守る。長にふさわしい力を持つ。どちらもどうだっていい。ヒイラギ。私の弟。私はあいつから離れたかった。目の前で死んでしまう、そんな事にだけはなりたくなかったんだ。

 私は……弱い。何度そう言って、ミツビを遠ざけようとしたか。だが、それすらかなわなかった。今さら一人になりたくない、側にいて欲しい。だから自らの弱さを告白さえできない、臆病者。それが私なんだ。ミツビという頼もしい相棒と組み、命を預け合う信頼関係を結ぶ。外面はそんな風にしていても、内実はこんなもの。

 私は恨まれているだろう。もしも里に戻り、ヒイラギ、お前と出会う事があって、私を許さなかったなら。

 ……その時は、甘んじて罰を受けるつもりだ。命が欲しいなら、くれてやろう。元々あの日に奪われていてもおかしくなかったんだ。心が決まるまで、あと少し。ほんの少ししたら、帰るから。それまで、待っていてくれ。



「……なに……これ」


 私は声もなく読み終わりました。前述の勇ましい文章とは正反対の、苦悩や後悔に蝕まれ、そして弟への思いが自罰的に綴られています。とても同一人物の書いた内容とは思えませんでした。なのに不思議と、私はこちらの日記の方がハヅキさんの本心なのでは、と思ってしまいます。幾多の本を読んでその真贋しんがんを見極めてきた目、というよりも、直感のようなものですが。

 しかし、これが本当だとしたら、今のハヅキさんは――まさか。


「は、ハヅキさん……っ」


 言いかけた私に、横殴りの風が吹き付けました。飛跳の羽ばたきとも違う、ある意味慣れすら覚え始めた、日記帳もろとも吹きすさぶ強風です。本からページが次々飛ばされ、山頂に集うハヅキさん達をも包み込み始めました。

 これは、もしかして。戸惑う私に負けず劣らず、みっちゃんやロウカくんが困惑の声を上げるも、たちまちその姿はページの向こうに消えてしまいます。

 わずかにだけ、ヒイラギさんの後ろ姿が見えました。刀を下ろし、片腕で風を防ぎながら、もう片手をぐっと伸ばして、あらん限りの叫びを上げて。


「ね……姉さん!」

「――ヒイラギ!」


 その時に聞こえたハヅキさんは悟ったような声調をかなぐり捨て、今までになくむきだしの、感情が露わになったものでした。

 ヒイラギさんを迎えるように髪を振り乱し、がむしゃらにページを振り払い突っ切って――私の視界は白く塗りつぶされていきました。

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