十二話 相克の姉弟
「……えっ?」
気がつくと、私は図書館の三階に突っ立っていました。山頂から見える光景も、身を切るような風も、抜けるような青空も、夢か何かのように消え失せています。夢と違うのは、はっきりとそれまでの経緯を記憶していて、身体にはずっしりと疲労感が残り、服も汚れきっている点でした。
「……ヒイラギ! ……ヒイラギ……っ」
と、私の後ろからハヅキさんの絶叫に近い涙声が上がり、仰天して振り返ると、すぐに近づいてきたみっちゃんがハヅキさんの側頭部を蹴り上げました。
「馬鹿、もういねえよ。ちっとは落ち着けや」
そのいらだたしげで遠慮のない一撃にハヅキさんはよろめき、吹き抜けの柵に寄りかかるようにしながら叫ぶのをやめて、うろたえたようにあたりを見回しました。
「こ、ここは……ヒイラギは……?」
「図書館だっての。戻って来たんだよ、私ら。……ヒイラギと、ロウカを除いてな」
言われてみれば、この場には私とハヅキさん、みっちゃんの三者がいるだけで、ヒイラギさん達の姿はありません。日記帳によって送られたなら、戻って来るのも元の三人だけなのでしょうか。みんなあんなに近くにいたのに、やっぱりよく分からないです。
「……ああ。……そうか」
ハヅキさんは徐々に呼吸を落ち着かせ、お腹に手を当てながら深呼吸をします。目を閉じ、ゆっくりと上げると、そこには元の、飄然としたハヅキさんがいました。
「ヒイラギ……あいつには、まだ色々と言う事があったのにな」
「言えばいいだろ、里帰りしてさ。また私にだけ任せて雲隠れしたら許さねーぞ」
分かってる、と笑ったハヅキさんですが、私にはその笑みがまだ、張り付いたもののように感じて、知らず踏み出していました。
「あの……ハヅキさん」
「ああ、ジェシー。何やら恥ずかしいところを見せてしまったね。私とヒイラギの姉弟喧嘩に巻き込んでしまったみたいで、済まないと思っている」
「いえ、それはいいんです。――でも」
怪訝そうな表情をするハヅキさんに、私は思いきって言葉をぶつけました。
「……もし次にヒイラギさんと会っても、決して死んだりしない、と約束して下さい」
「な……」
ハヅキさんの顔色が変わり、ぴくりと指先が震えるのを私は見逃しませんでした。思いもしない虚を突かれた。そんな反応で、一気に手応えを得ます。
「死ぬ……? おい、どういう事だよ、説明しやがれ」
「……どうしてそれを」
詰め寄るみっちゃんには応じず、ハヅキさんが呆然と漏らします。私は戻って来てから抱えていた日記帳を、突きつけるようにして。
「ここに、書いてあったんです。あなたの日記……が……あれ?」
そこで気がつきましたが、表紙の名前はまた私のものに戻っていました。驚き、思わずページまで開いてしまいましたが、どこにもハヅキさんの綴った内容はありません。
「な、ない……あ、で、でも本当に、さっきまではあったんです。あなたがずっとヒイラギさんを大切に思っていた事、それで葛藤していた事が……!」
私とみっちゃんの視線を浴びて、ハヅキさんは床へ目を落としていましたが、やがて顔を上げ、達観したように語り始めます。
「日記を書いた覚えはないが……確かに私は、ヒイラギとの邂逅がそういった結末を迎えるだろう事態を、想定していた。あちらで目が覚めた時から、覚悟はしていたんだ」
「ハヅキ……お前」
「済まないな、ミツビ。お前に知られる事が恥ずかしくて、情けなくて……隠していた。私が里を出て、様々な経験を経て来た事で、なるほど術者としての腕は高まっただろう。……だが弱いままであるよりも、もっと罪深い事をしてしまったんだ。だったら私は、せめてその弱さから逃げたくはなかった。自分のした事の尻ぬぐいは、いずれするつもりだったから」
訥々と紡がれる、ハヅキさんが隠していた本音。道を同じくするみっちゃんにすら打ち明けなかった、心の深奥にある聖域。きっとそれは墓の中まで持っていくような悔悟で、実際ハヅキさんはそれほどに思い詰めていたのでしょう。みっちゃんは一度言葉に詰まり、それからくぐもった声で吐き捨てました。
「この……馬鹿野郎。なんにも分かってないのは、おめーの方もじゃねえか……」
「そうだな……」
「あーあ、そうだとも。お前にヒイラギの奴を叱り飛ばす資格なんてないわな。こんだけ長く旅して、遠くまで来て、ちっとはましになったかと思えば、これだろ。お前ら姉弟には呆れちまってものも言えねぇ」
ハヅキさんの決心は固いでしょう。みっちゃんもまだ混乱しているようで、考えがまとまっていない様子です。
だったら、私が言うしかありません。直接ハヅキさんの本心と触れた、私が。
「ハヅキさん、思い直していただけませんか? 自ら命を捨てるような真似なんて、ヒイラギさんも絶対望んでいません」
「そうだろうか……ヒイラギも言っていただろう。私は償うべきだと。その代価が自分の命とするなら、それを捧げる事にためらいを感じる方が、おかしいんじゃないか」
「――違います!」
語調を強めると、どこか遠くを見るようだったハヅキさんの目が、すっと私へ移りました。その無力に苛まれる悲しげな眼差しを、私は正面から見つめ返します。
多分、私が日記で見た内容はここにいるハヅキさん自身も、把握できていない事なのです。彼女が自身の内奥から目を背けないように、全て叩きつけなくてはいけません。
「ハヅキさんはヒイラギさんを守りたかったはずです。なのに、自分からそれを放棄してしまうなんて……おかしいですよ」
「私には、できないんだ。十年前、私の油断が原因で弟に大怪我をさせてしまった……その悔恨とヒイラギの憎悪がある限り、あいつを守る事は二度とかなわない」
「守れたでしょう。あなたは間違いなく、里の裏山の山頂にまで来て、その手で飛跳からヒイラギさんを守ったんです!」
それは、とハヅキさんが一瞬答えに窮しますが、さして間を置かず反論します。
「あれは……私の自業自得だ。逃がしてしまった飛跳に、とどめを刺したに過ぎない。それとこれとは無関係なんだ。現に、ヒイラギはすぐに私へ敵意を向けてきた……」
「そうでしょうか……本当に? ハヅキさんはまだ、大事な事を忘れています」
「私が、か……? 姉の私が、まだ弟について知らない事があると」
「あなたは先ほどから、ずっとヒイラギさんが自分を憎んでいると主張してますけど、そんな事はないと思います。確かに、山頂では剣を向け合うような事になってしまったけれど……ハヅキさんがヒイラギさんを思っているように、ヒイラギさんだってハヅキさんを愛しているんです!」
ジェシー、とハヅキさんの目つきが鋭くなり、声音が低くなりました。戦士としての凄みを醸し出す気配に背筋が震えそうになりますが、私も目を逸らしません。
「あまり、適当な事を言うものじゃない……ヒイラギのどこが、私を愛しているというんだ。あいつの双眸は、暗い殺意に満ちていた……あんな目をさせたくないから、私は」
「その前提が間違ってるんです。ハヅキさんは絶対、ヒイラギさんから大事に思われていました。一日たりとも忘れた事はなかったはずです! その証拠に……」
私は思い出していました。裏山へ入る前、切り株の上でヒイラギさんがハヅキさんの日記を読んでいた事を。まるきりでたらめかもしれない、その中身を。一ページたりとも余さず、目に焼き付けたかった。ハヅキさんの過ごした日々を、思いを。
「ヒイラギが……私の日記を?」
「私も見たぜ。ついでに言えば、山の中腹で別行動してる時、ちらりと見えたんだよ。ヒイラギの野郎が、出発ぎりぎりまでその日記を読んでるのをさ。きっと、時間が空けば空いたでいつまでもあれを読んでたかったんだろ」
みっちゃんが証人として、援護射撃してくれます。私の話が真実と分かっているハヅキさんなら、その意味するところも理解してくれるはず。
「だが……それで事実、ヒイラギの心にまだ私がいると決まったわけじゃない。あいつは解放されたいんだ。今の役目から、人生から……私から。だったら姉らしい事を何もしてやれなかった私が、最後にしてやれる事といえば、それくらい……」
「それも違いますよ、ハヅキさん。あなたは覚えているはずです。よく思い出して下さい。ここに戻ってくる、その直前。ヒイラギさんはどうしていましたか」
ハヅキさんの両目が、見開かれました。本当に、今の今まで意識からなくなっていたのかと思うくらい、その反応は劇的だったのです。やっぱり、と私は確信しました。
「ヒイラギさんは……助けを求めていました。他の誰でもない、ハヅキさんにです。あふれんばかりの憎しみだけしかないなら、そんな事をするでしょうか。ロウカくんだって側にいたのに、助けを求めたのは……声を上げたのは、あなたにだけなんです」
「私……私は」
「そして、ハヅキさんも同じように……ヒイラギさんを助けようとしていました。――だから、そういう事なんです」
私は口調を緩め、柔らかに告げました。
「気持ちは、変わってなんていませんでした。二人ともお互いを、ずっと大事に思っていたんです。……これでもまだ、ヒイラギさんが心の底まで変わってしまった、なんて言うつもりですか?」
ハヅキさんは声もなく立ち尽くし、ややあって、重く色々なものを吐き出すように、張っていた肩を緩めながら吐息をつくと。
「……ああ、分かったよ。私の負けだ。認めよう……いや、認めたくなかったのかもな、これまでは」
「それは、ハヅキさんの言う自分の弱さがあるから……ですよね。弱い弱いと自分を責め続けて、いつしかそれをヒイラギさんにも投影してしまっていた。自分がこんなに弱いから、きっとあいつも……って」
「そうだな……その通りだ。ヒイラギと対峙した時、その変わりようには愕然としたが、同時にやはり、という気持ちもあった。……やはり、こうなってしまったか、お前の中にはもう、私はいないのだな、と」
しかし、そうではなかったのです。ヒイラギさんはハヅキさんの予想に反して、思い出を大切にしていました。でも、ハヅキさんと同じように苦しんでいて、向き合う事ができていなかった……。
「教えてあげて下さい。次こそ必ず、ヒイラギさんを守ってみせるという意志を。ヒイラギさんだって待っているはずなんです、ハヅキさんの帰りを」
あんな殺し合いじゃなくて、ちゃんと話し合って、誤解を解いて。それでこそ、二人とも一緒に、もっと強くなれると思います。ハヅキさんは私の言葉に頷いて、ふっと笑みを見せました。
「途中で早抜けしてしまったようで、今はたいそうおかんむりだろうがな……ヒイラギの奴」
「あはは……私も真っ赤な嘘をつくだけついて、雲隠れしちゃってますし」
「だが、君の言う通りだ。私だって、あいつとは仲直りしたい。共に、里を守っていきたい……」
「じゃあ……!」
「約束しよう。今一度クヌギの里に戻ったら、ヒイラギとよく話し合おう。まあそううまくはいかないだろうし、反抗されるだろうが、その時はちょっと仕置きして、それからゆっくり、とな」
「あ、あんまり手荒な事はしてあげないで下さいね……」
分からないぜ、とみっちゃんも口を出して来ます。
「こいつ、こう見えてスパルタだからな。いちいち荒行に付き合ってる私の身も持たないくらいさ。ヒイラギの野郎、今頃はハヅキを仕留め損ねてぶるぶる震えてるかもなあ?」
「だったら、最初は優しくしてやるか。それで案外ころっと甘えてくれるかもしれん」
私を含めて、楽しげな笑いが上がります。ハヅキさんの表情に曇りはどこにもなく、どうやら起こってしまうだろう悲劇は回避できたのだと、私は嬉しくなっていました。
すると、おい、とみっちゃんが私の横にまでやってきて、肩のあたりを小突きます。
「お前……ジェシカ。今日から私の舎弟にしてやるよ」
「え……ええっ?」
突拍子もないセリフに、素っ頓狂な声が出てしまいました。みっちゃんにはにやにや笑っていますが、舎弟、舎弟って、そんな。
「ちょっと待ってよ、みっちゃん。私そんなの……」
「いいだろ、お前の事気に入ったんだよ。このミツビ様の子分第一号にしてやるから、ありがたく思え」
どうも冗談じゃなさそうです。みっちゃんに好かれるのは私も嫌じゃないですけど、別に上下関係を強制されたいわけじゃないです。だってそもそも、普段からめちゃくちゃ振り回されてるんですから。
けれども、ハヅキさんがくすり笑いながら助け船を出してくれました。
「などとこいつは、君の前では格好をつけていたろうが、昔は村のお年寄りや子供達によく甘味をもらって喜んでいたものだよ」
「え……本当ですか? みっちゃんが?」
十年前、村の子やハヅキさん達と輪になってはしゃいでいるみっちゃんを想像した私がほほえましさとともに吹き出すと、みっちゃんは頬をちょっぴり赤くして尻尾を逆立て、ハヅキさんへ掴みかかります。
「お、おいっ。余計な事言うなよ! お前だってジェシカのお守りを私に任せて自分だけ楽をしやがってよ!」
「その割にはいやに楽しそうだったが、ふふっ」
「ぬかしやがれっ! くっそ、こんな事ならヒイラギ達に協力してさっさとお前を捜し出せば良かったぜ……!」
「――だが私からもありがとう、ジェシー。おかげで目が覚めた。君がああ言ってくれなかったら、私はいつまでも弟の思いを勘違いしたままだったよ」
みっちゃんを片手でいなしながら、ハヅキさんが私へ真摯な視線を送ります。
「い、いえ、私だって日記さえたまたま読まなきゃ分からなかったですし、偶然ですよ」
「それでも、礼を言わせて欲しい。何か贈れるような物があればいいのだが、あいにく私の持ち物はこの一振りの刀と、生意気で乱暴な狐一匹しかいなくてな」
「誰が生意気で乱暴だよこらー!」
お返しなんていらないのですが、実直なハヅキさんの心境を鑑みれば、その気持ちも分からなくないです。私だって同じ立場だったら、と思い、ふと。
「……なら、何か困った事があったら力になって欲しいです。ハヅキさんが手伝ってくれたら、大抵の問題はあっさり解決しちゃいそうですけど」
「そんな事でいいのなら、一度や二度と言わず喜んで。ジェシーのためなら、いくらでもこの力を振るおう。約束する」
穏やかに微笑むハヅキさんの純粋な瞳に見つめられ、ちょっと顔が熱くなりました。ヒイラギさんも気取り屋というか、ナチュラルに歯の浮くような言葉をかけて来ますし、やっぱりこの二人は姉弟なのだと思わせます。
「……日記の話が出たところで何だが。私もその本については気に掛かっていてね」
表情を真剣なものへと引き締め、ハヅキさんが私の抱える日記帳を指します。つられて私と、みっちゃんの目も向きました。
「よければ私にも教えてくれないか。助けになれるかも知れない」
「あ、は、はい」
ハヅキさんは私とみっちゃんを尾行していたそうなので日記帳の事は知っているみたいですが、ちゃんと説明しておかなければいけません。そもそも迂闊に近くへ日記帳を置いておいた私の責任とはいえ、ハヅキさんが協力を申し出てくれるのは心強いものでした。
日記帳を昨日、一時預かりという形で入手して、それから起きた事件の経緯を話すと、ハヅキさんは思案するように視線を日記帳へと注ぎます。
「私も旅の途中で様々ないわくつきの品を目にしてきたが、それは特別面妖な代物のようだ。経験から言って、手元に残してただ愛でていていいものじゃない」
「そう……ですね」
「私としては、教会へ持っていって調べてみるのを勧める。そこならものの真贋を見極めるのに秀でた学者や、危険な魔法や呪いを解く術を身につけた神官もいるだろう」
それは、私もクヌギの里についたあたりから考え始めていた対処法でした。
教会とは、神を信仰し人々の魂を救済する事を至上目的とする神官様がたが中心となって設立された宗教組織で、同時に優れた医療技術を備える機関でもあり、そして神の加護と呼ばれる人智を越えた様々な奇跡を起こす秘儀を会得しています。
神官様がたは皆敬虔で慎ましく高潔な方々で、大陸の人々、国家の信用を得てあちこちに支部を持っているのです。もちろんこのフォレスにも支部となっている教会はあり、連日お祈りや観光に来る人達であふれていますが、それでも秩序や静謐さを保っているのは、ひとえにそこで働く神官様がたの尽力によるものでしょう。
この日記帳に何かしら、常人には手の余る仕掛けがされているとしたら、いっそ教会へ提出すべきなのかも知れません。そのように、神官様がたは災厄を呼ぶ武器、防具、道具といった品を解呪や浄化する方策を心得ています。きっと、悪いようにはしないでしょう。元の持ち主は、この本が安全になった後にじっくり探せばいいのです。
「詳しく分析してみないとまだ判断はしづらいが、一連の騒動の原因がその日記帳で、正体を特定するなら教会が確実だろう。この王立図書館にはない智恵が、彼らにはある……」
司書という仕事柄、時にはこういったトラブルに見舞われる事だってあります。どうすればいいかなんてマニュアルにはないですけど、何をすべきかは理解しているつもりです。
けど……。口には出しませんが、私はわずかに逡巡していました。
この日記帳は確かに不気味で、危ないというのは承知しています。だというのにいざ手放すと考えると、なんとなく名残惜しく感じてしまうのです。
いわくつきだからとか、珍しいからとかじゃなくて、何か自分の大切なものまで捨ててしまうような――うまく表現できない、漠然とした不安でした。理性のもっと奥の方にある何かが、日記帳を強く求めているような、不思議な感覚で。
……ううん、迷っている場合じゃないです。これ以上他の方に迷惑をかけるわけにはいきませんし、私一人ならともかく、王立図書館の存続にも関わります。本を集めるのは大切ですが、盲目に囚われ過ぎて他の事が見えなくなってしまうのは、司書失格でしょう。私は心の中がささくれるようにざわめくのを無理に押し殺し、ハヅキさんへ頷きました。
「私、近々にでも教会へ行って、この日記帳を見てもらいます」
「そうだな……それがいいだろう」
「んなまどろっこしい事しなくても、捨てちまえばいいだろうが。何ならこの場で私が焚書してやろうか?」
一際意志を込めて宣言したのに、みっちゃんがそんなデリカシーも配慮もない事を言うものだから、私はついかちんと来てしまいました。
「捨てるといったって、もしも誰かが拾ってしまったらどう責任を取るつもりですか? それにただ日記を開くだけであんな事が起きたのに、軽々しく燃やそうとしたらもっとひどい事が起きるかもしれないって、考えが及ばないの? その上まだ本当の所有者も判明していないのに、本に傷をつけるような暴挙をするなんて、あなたは一体本をなんだと思っているのですか」
「お、おいおい……そんな怒るなよ。ちょっと言ってみただけだって……お前なんか、口調が怖いぞ」
固い声色で問い詰めるとみっちゃんはたじろいだように後退し、ハヅキさんの後ろへ隠れてしまいます。それでもまだ私は許せなくて、射貫くような視線を送り続けていました。
「……まあまあ、ミツビも反省しているようだし、私に免じて許してくれないか、ジェシー。同じ理由で、私もただちに日記帳を破棄するのには反対だ。詳しい調査が必要だと思っている。そうだろう?」
「……はい」
ハヅキさんに優しく諭され、頭に昇っていた血が急速に引いていきます。昔からの悪い癖でした。本を手荒に扱うような人がいると、つい一言もの申したくなってしまうのです。
みっちゃんを怖がらせるつもりはなかったのですが、悪い事をしてしまいました……私は顔と耳だけを覗かせるみっちゃんへ、誠意を込めてすまなそうに語りかけます。
「ごめんね、みっちゃん。強く言い過ぎちゃったかな……ほんと、ごめん」
「い、いや? こんなもんちょっと小動物に吼えられたようなもんだしな、別に気にしてねーから。うん、マジで」
そわそわとしつつも、みっちゃんが出て来てくれます。私がほっとして微笑を浮かべると、ハヅキさんも言葉を続けます。
「これからは人の手が届かないよう厳重に管理すべきだな。教会へ行くにしても予定があるだろうし、すぐ明日から……というわけにはいかないだろう?」
「それならうってつけの場所がありますし、その点は大丈夫だと思います」
私は脳裏で日記帳を安置できそうな場所に当たりをつけつつ、相談に乗ってくれたハヅキさんへお礼を言いました。おかげで私も、教会へ行くという決断ができたのですから。
しかし、とハヅキさんが大時計を確認して呟きます。
「これだけの事があってまだ一刻も経過していないとは、まるで時間の流れが違うようだ」
「そうですね。針が全然進んでいないし、夢でも見ていたみたいな気分になります」
「あんな濃い夢があってたまるかよ。私ゃもうくったくただぜ」
「実を言うと、私もだ。肉体的というより精神的なものだが……」
「ハヅキさん達は、いつまでフォレスに滞在される予定なんですか?」
尋ねると、ハヅキさんはじんわりと夕暮れの迫る図書館の窓を見上げながら答えます。
「特にこれといって決めていないな。元よりあてのない旅だ、この図書館のみならず、他の場所も巡ってみたい」
「せっかく来たからには、名所やらを全部しゃぶり尽くしてみたいしな!」
それなら、と私は営業モードでハヅキさんにもマップナビを渡します。パンフレットをなぜかきょとんとした目で眺めていたハヅキさんは、少し苦笑がちに私へ言いました。
「地図はありがたいんだが……なんというか、君は変わっているな、ジェシー」
「え……? 何がでしょうか」
「……いや、なんでもない。それより、本格的にフォレスを探索するならどこか拠点が必要になりそうだね」
「それなら、フォレスの高台亭がいいと思います。ロランさんって人がいて、その方もハヅキさんと同じように外国から来た旅の方なんですよ。おおらかで優しい人なので、きっと話も合うかと思います」
「そうか、私の他にも、この図書館の噂を聞いてやって来た者がいるのか」
「物好きな奴だな、そいつ。遠路はるばるこんなとこまで……」
「その言い方はひどいよ、みっちゃん。そりゃ、こんな高いところまで坂を登るのは大変だけどさ……」
とにかく、ハヅキさんもフォレスの高台亭で休む事に決めたみたいです。早めに宿泊するためか、今日はこのへんで図書館を後にする様子。明日もまた来てくれると言ってくれたので、また一つ楽しみが増えました。
ハヅキさん達が立ち去った後にはロランさんが来てくれて、また本を案内しながらたわいもない話を楽しみました。もちろんあの日記帳を巡る騒ぎも説明して、近いうちに教会へ行く事を伝えると、ロランさんは。
「それなら、俺もついていってやろうか?」
「いいんですか?」
「ああ。堅苦しい場所だろうけど壮観だろうし、ぜひとも探訪してみたいしな」
私を心配して~、とかいう口実でないのはちょっと残念でしたが、ロランさんが同伴してくれるなら心強いです。
一人になった私は日記帳を慎重にしまい込みながら、いまだ迷わせ、あわよくば日記帳をかき抱かせようとざわつく心の声を鎮めるように、小さく呟きました。
「行こう。……教会へ」
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