第三章 十三話 鬼才、レイトリス
翌日も、私は仕事に精を出していました。書架を押して本棚を縫い、本の抜けや別のブロックの本が混入していないか確認し、必要ならば整頓していきます。地味な作業ですが毎日している事であり、一日でも怠ればたちまち図書館の機能に差し障りが出ると言っていいくらい重要な務めなのです。
一冊一冊見ていって、最後にもう一度見上げると頭のすぐ上くらいのところの本が、棚から突き出て今しも落ちそうです。書架は遠くの方にあり、ここまで持って来るのは少しばかり面倒で、対してその本は背伸びすればなんとか手が届きそうでした。
私はその場でつま先立ちになり、腕をぴんと張って指で本の背を押し込もうとしますが、中々うまくいきません。
「よっと……」
すると、背後の私よりも高い位置から突然腕が伸びてきて、私がこれだけ苦戦していた本をあっさりと押し入れてしまいました。驚きながら振り返ると、そこにはすっかり見慣れた人が。
「ロランさん!」
「よっ。大変そうだから手伝ったけど、余計だったか?」
「い……いえいえ、すごく助かりました! これで筋肉痛になっちゃったらどうしようかななんて思い始めてたところだったので!」
そっか、とロランさんが快活に笑い、私も自然と笑顔になりました。今日も楽しい一日になりそうです。
「まだ仕事は長引きそうか? だったら俺も付き合うぜ」
「ええ……そんな、悪いですよ、来館者の方に、それもロランさんにそんな」
「気にするなって。それとも、来館者が仕事に手を貸しちゃいけない規則でもあるか?」
「ない……ですけど」
だったらいいだろ、とロランさんに押し切られてしまいます。私を慮っての事か、単に自分がお仕事を体験したいだけか難しいところでしたが、前者だったらいいと思います。
「そ、それじゃ、お願いしますね」
「おう。……けど、このへんも懐かしいよな。いや、まだ三日くらいだけどさ」
「このへん、って……?」
「ほら、初日にジェシーが書架から落っこちたところ。あの時は本のお化けかと思ってさすがの俺もびびったぜ」
「き、記憶力いいですね……」
やっぱり冒険家をしてると、記憶力も鍛えられるのでしょうか。私としては早く忘れて欲しいところです、あんな醜態……。
「あれだけの本がばらばらに上から落ちたのに、よれや傷の一つも見当たらないときた。これも司書さんの努力のたまものってか?」
そういえばそうですね。打ち所が良かったのでしょうか。私はたんこぶを一つこさえちゃいましたけど。
ともかく私はその後もロランさんと一生懸命整理をこなし、いつもより手早く片付けて司書机のある広間へと戻っていきました。
「あ……ハヅキさんにみっちゃん!」
読書用机の一つにはなんと、すでにハヅキさんとみっちゃんの姿があります。読書中なのか、側には何冊かの書籍が積まれていました。
「ごめんなさい、仕事に集中していてお二人をずっと放っておいてしまって……」
「いや、こっちはこっちでゆったりさせてもらっているよ。なあ、ミツビ」
「ん? ……あー」
見れば、みっちゃんは本棚から持って来た本を立てて、その内側に座っています。ハヅキさんの言葉にも上の空。思わず私とハヅキさんは目を見交わし合い、苦笑しました。
「みっちゃん、何の本を読んでいるんでしょう?」
これだ、とハヅキさんが手近の一冊を手に取り、表紙をかざして来ます。それは子供向けの可愛らしい風景や動物たちの描かれた、どうやら絵本のようでした。
「へえ……なんだか意外ですね。ハヅキさんもみっちゃんに付き合ってあげているんですか?」
「まあ、たまにはな。さすが王立図書館というだけあって絵本の内容も含蓄があり、時折はっとさせられるくらいには深い。子供向けとはいえ侮りがたしだな、楽しいよ」
「それは良かったです。娯楽のための絵本もいいですけど、こうやってお勉強にもなるような絵本も、ちょっと頑張って取りそろえてみたんですよ」
「そんなにすごいなら、どれどれ、俺も一つ」
と、ロランさんも机に近づき、適当に積まれた本へ手を伸ばすと。
「おらぁ!」
「うぎゃあ!」
突如として飛び出したみっちゃんに指の付け根辺りを蹴り上げられました。
「お、お前っ……いきなり何しやがる!」
「そりゃこっちのセリフだコノヤロー! 何勝手に取り上げようとしてんだぁ!」
手を押さえて悶絶し、痛みに表情筋をひくつかせるロランさんと、顔を真っ赤に染め上げたみっちゃんが至近距離で睨み合いました。
「こんなにあるんなら一冊くらいいいだろうが!」
「これが終わったら読む予定なんだよ、私の本に触んじゃねー!」
「お前のじゃねぇし! 図書館のもんだし! いいからどれか一つ寄越せ!」
「バーカバーカ! やなこった!」
みっちゃんは机に積まれた本を纏めて抱え上げ、空中へ逃亡。しかしロランさんも意地になったみたいに跳ねながらその後を追いかけ、二人とも子供みたいに図書館を駆け回り始めてしまいました。
「あ、あああ……駄目ですよ、喧嘩しちゃ」
「ミツビには後で私から灸を据えておくとして……あのロランという彼、中々闊達な人だね。ミツビとも相性が良さそうだ」
おたおたするばかりの私と違い、相方であるハヅキさんは椅子に腰掛けたまま、落ち着き払ってその様子を楽しんでいるようです。
「そ、そうですか……? 現在進行形で仲が悪くなっているような」
「いやいや、ああ見えてミツビは案外、人見知りだから。傍若無人ではあるが、ほぼ初対面の相手をあそこまでおちょくるような真似はしない。やるとしたら……」
そこで一旦、ハヅキさんは言葉を切り、机の前で手を組みながらにやりと笑って。
「その相手をとてつもなく気に入ったか、不倶戴天の敵と認識したか、どちらかだ」
「あ、あはは……」
そういえば、私もみっちゃんにはからかわれた口です。ハヅキさんの言葉が本当なら私は多分――前者であったらいいな、と思います。でも、このロランさんの場合は……。
「待てこのチビ狐! お前は昨日も俺の部屋を散々荒らしやがって、訴えてやる!」
「そのセリフをそっくり返してやらぁ、せっかく忍び込んだらてめー半裸で爆睡してやがって、ひでぇもん見せられたこっちの身にもなりやがれっ!」
「……仲、良いんですかね」
「昨日から顔を合わせればあの調子だし、恐らくね……喧嘩するほど、とも言うだろう」
わいわいとした騒ぎがひとしきり過ぎて、みっちゃんから本を何冊か奪い取ったロランさんが、這々の体で一階へ戻って来ました。
「あの、ロランさん。お疲れでしょう。良かったらどうぞ」
私が休憩室で煎れたお茶をティーカップで差し出すと、ぜえぜえと息を切らせたロランさんはジェスチャーで礼を述べつつ、一気飲みしてしまいます。
「あー……疲れたぜ。悪いなジェシー、図書館でうるさくしちまって」
「い、いえいえ、次から気をつけていただければ……」
ふう、とロランさんが机に本を置きます。どうやらみっちゃんとの追いかけっこで体力を使い果たし、読書という気分でもなくなっちゃったみたいですね。
「……と、そういやジェシー。教会にはいつ行くんだ?」
「え……?」
「遠出になるからな。準備はちゃんとしてけよ。俺はいつでも出られるけどな」
最初、私はロランさんが何の事を言っているのか、よく分かりませんでした。ティーカップを片付けようとした体勢のまま一瞬固まり、ぽけっと口を開けてしまいます。
「――教会って、お前らいつの間にそんな約束取り付けてやがったんだよー」
と、それまでハヅキさんに頬をつねられてお仕置きされていたみっちゃんがするりと抜けだし、ロランさんを肘で小突きます。
「なんだよ、何か文句でもあるのかよ」
「男女二人で教会って、まるで結婚でもするみてーじゃねえか! やい、私にも一枚噛ませろよ、そんな面白そうな事独り占めすんな」
「って、言われてもな……これはジェシーのためだし」
「要するに、ミツビも連れて行って欲しいようだな。ひねくれ者だから、分かりづらくて済まない」
なんだ、という顔で笑うロランさんと、むっと頬を膨らませるみっちゃん。再び小競り合いが始まろうとしかけていますが、私だけが一人、取り残されたみたいに話題へついていけないままでした。
「あ、あの……ごめんなさい、ちょっと何のお話なのか、私よく分からなくて……」
「……え? い、いや、つい昨日、別れ際に言ってただろ? それで俺も、一緒に行くからって」
「ロランさんが、私と……? えっと、どこに……」
「だから、教会」
……?? ますます頭が混乱して来ました。教会という単語を耳にしたのも今日が初めてで、昨日にロランさんとその話をした、というのも初耳です。
「……おいおい、なんか様子が変だぞ。ロランお前、まさか私の舎弟に何かしてないだろうなっ!?」
「何かってなんだよ、何もしてないって!」
「じゃあこいつが知らんふりしてるってのか? それならそれで、お前かなり嫌われてるんじゃねーの」
がーん、と硬直するロランさんに申し訳なくなりました。知らないふりなんてしてません。私は額に手を当てて昨日の出来事をしきりに思い出そうとしますが、教会という言葉を口にしたのも聞いたのも、やっぱり今日が初です。ハヅキさん達と図書館へ戻って来た後、ロランさんと何事か談笑していたのは、覚えているのですが。
「ジェシー、大丈夫か?」
「あ、は、はい……」
ハヅキさんにそっと尋ねられ、私は慌てて頷きます。多少物忘れしていたくらいで心配されては情けないというか、みなさんに悪いでしょう。
「そもそも、ロラン。なぜ君とジェシーは教会へ行く必要があるのかな」
「そりゃあ、日記帳のためだよ。あれをどうにかしないとジェシーが大変だし、来館者から行方不明者が続出したら図書館の評判も厳しいものになっちまうだろうし」
日記帳……そうでした。日記帳! 今の今まで念頭から失せていたその存在を思い出すと、記憶野から引っ張られるように教会へ行く予定の事も浮かび上がって来ます。
「あ……思い出しました! そ、そうですね、教会に行かないと……ああ、どうして忘れてたのかな、昨日あんなに強く決心したのに!」
「その歳で健忘症とか洒落にならねーぞ、マジで大丈夫かお前」
よりによってこんな大事な事をど忘れしているなんて……。日記帳というキーワードがなかったら、そのままずっと思い出せなかったような気がします。私が本気で落ち込んでいるのを目にして、さすがのみっちゃんも口撃で追撃してくる事はありませんでした。
「ジェシーも仕事で忙しいだろうし、そういう事もあるさ。ともあれ思い出せたのなら何よりだ。はじめに教会へ行くよう勧めたのは私だから、予定がついたら同行しよう」
「はい、ありがとうございます、ハヅキさん……」
ハヅキさんが気遣うように声をかけてくれます。温かく心強い言葉に私も少し元気を取り戻して、改めて教会へいつ出向くか考えようとした、矢先でした。
図書館の扉が開き、かつ、こつ、と床を踏みしめる足音がします。その気配に、私を含めた一同の視線が玄関へと逸れると。
そこには、一人の男性が立っていました。引き締まった長身痩躯。黒ずくめのスーツに身を包み、ツバの広い帽子をかぶっています。後ろにまで垂れた長い髪は鈍い鋼色に輝き、そこから覗く毛先からエメラルドの瞳がこちらを向いていました。
来館者の、方でしょうか。私が思わず疑ったのは、その男性の放つ研ぎ澄まされた一種異様な雰囲気と、私達がいるにも関わらず、妙に気取ったポーズで佇んでいる事です。
腕を斜めに持ち上げ、指先を帽子へ触れさせながら半分ほど傾かせて睨むような視線を送りつつも、もう片方の手が添えられた腰は大きくねじられ、足はそれぞれ身体の正中線を交差させつつ直角に折れ曲がっています。さらに旅行用鞄を右手に下げた一目見てかなり全身に負担がかかりそうな立ち姿なのですが、男性はぴくりとも表情を動かしていません。
……ええと。どうしよう。話しかけたくありません。ロランさんやハヅキさんも一般の方と比べて個性の濃い人達なんですけれど、この男性はまた一風毛色が違うというか、第一印象からしてとっつきにくそうというか。
い、いえ。ここで怖じ気づいたり、見て見ぬ振りをするわけにはいきません。私は王立図書館の司書です。来館者であればどのような方にも等しく、図書館の案内や本の紹介を行うのが責務というもの。自分自身に言い聞かせながら、私は意を決して進み出ました。
「あ、あの――」
「レイトリス」
言いかけた私のセリフをぶった切るようにして、男性の方はだしぬけに口を開きました。
「私はレイトリスだ」
「……は? 誰?」
反応したのは私ではなく、机にあぐらをかいて座っていたみっちゃんです。レイトリスと名乗った男性をうろんな三白眼で睨み上げました。
かたやレイトリスさんも、視線をみっちゃんへとずらします。ですがみっちゃんの小さな風体に驚くでもなく、無機質な口調で。
「なんだこの、けったいな生物は」
「ああ……っ? 喧嘩売ってんのか!」
がばっと立ち上がり、飛行しながらレイトリスさんへと向かっていきます。しかし。
「あ、あの……!」
二人の間に割って入り、レイトリスさんと向かい合ったのは私でした。この人の唐突な自己紹介に面食らっていたのは確かですが、でも今は、それ以上に。
「その……レイトリスさんって、本当にあの……レイトリスさんなんですか!」
「ど、どうしたんだよジェシカ、いきなり熱くなって……」
「ちょっと待てよ、聞いた事あるぞ、その名前……」
後ろではみっちゃんやロランさんが何か喋っていますが、私の意識は目の前へ注がれていました。返答を待ち望む私の気持ちを知ってか知らずか、レイトリスさんは帽子を少し傾けさせながら頷きます。
「いかにも。私はレイトリス。世界にただ一人しかいない偉大なるレイトリスだ」
「ほ……本当に……!」
脳髄で歓喜と驚きが沸騰したみたいにないまぜになって立ち上り、反射的にさらに詰め寄りながら叫ぶように言いました。
「レイトリスさん……! ああ、そんな、まさか生きている内にこうして会える日が来るなんて……っ」
打ち震えるあまりに涙声になり、胸の前で祈るように手を組む私に、みっちゃんをはじめ背後からは唖然としたような空気が流れています。
「そうだ……思い出したぞ。レイトリスって言えば、世界的に有名な小説家じゃないか! 若くしてデビュー作であらゆる賞を総なめにして、今も次々と新作を出しているっていう」
そうです! と私はロランさん達が引くのも構わず、振り返りざまにまくしたてました。
「芸術界に彗星のように降臨した鬼才、レイトリスさんは、老若男女年齢問わずあらゆる読者をたちまち虜にしました! その天才ぶりから神のペン、運命を綴る者など幾多の異名で呼ばれ、出版社のみならず作詞家、オペラといった文学界はもちろん、新聞社や教会からも作品の執筆、あるいは展示させて欲しいとオファーが来るほどなんです! 現在は著書が第千百十六巻まで刊行されて、その全てがベストセラー。最新刊が届くや否や翻訳されるのを世界各国が生唾飲んで待つくらいで――」
「ま、待った、待った」
息継ぎさえもどかしい私にロランさんが辟易したように手で制止しますが、気が昂ぶるあまり止まりようにも止まれません。湯水の如く早口で語り続けます。
「代表的な人気作はドラゴン滅亡記ですね。架空の生物ドラゴンがかつて世界を支配していた世界観なんですが、物語が始まった時点ですでに彼らは滅亡しているんです。なのでドラゴン装備が一山いくらで売られていたり駄目な人はまるでドラゴンと批判されたり、ドラゴン食やドラゴン料理が世界でブームを湧き起こしていたりととにかく竜をディスる内容で、一話に一回は滅んでいるにも関わらずドラゴンがけなされているんです、それもけちょんけちょんに! けれども意外にも人気投票では第1話に登場する種族が絶滅寸前のストレスから胃潰瘍で死んだラスト・ドラゴンが初期から不動の一位でした。実は私も投票しちゃったんですよね」
「ね、熱烈なファンなんだな……俺も名前くらいは知ってたけど、そんな有名人とは」
「本が好きだったり、作家を志した人なら誰でもあこがれるに決まってます! 当然私もレイトリスさんの作品は全巻そろえていて読破済み! 字が読めるなら一度は読まなきゃ人生の九割九分を損してますね、ええ!」
私は感極まってレイトリスさんへ向き直ります。
「あの、私はこの図書館で司書を務めています、ジェシカです!」
名乗ると、ロランさん達もレイトリスさんへ屈託なく声をかけます。
するとレイトリスさんは鞄を置きながら、私からロランさん、ハヅキさんへと流し目を移していき。
「……司書はともかく。他は我が世界を到底理解しそうにない下賤な俗物ばかりだな。王立図書館といえど、そこを利用する者達にまでそれなりの感性を期待するのは、酷というものか」
「これは……手厳しいな」
「おい! 黙って聞いてりゃなんだよ、よく分かんないが何か私らを馬鹿にしてるだろ!」
微苦笑するハヅキさんとは対照的にすぐさまみっちゃんが噛みつきますが、レイトリスさんはそよ風を受けるかのように涼しい表情です。
「ジェシカとか言ったな。こんな連中に構っている時間が惜しい、さっそく案内してもらいたい」
私はその、唯我独尊といった風情のレイトリスさんに気圧され、勢いをなくしてこくこく頷きました。近頃図書館を訪れる人は一風変わった方達ばかりですが、世界的著名人であるレイトリスさんもまた、かなり癖の強い人物みたいです。
「どのような本をお探しなのでしょうか……」
「ひそかに闇の淵へ潜り込む、人の目に触れぬ、この世の裏側へ通じる……そういった書物を探している」
「え……えっと……?」
「この図書館にならあるはずだ。忌まわしき探求の標が。人の底に眠る、暗黒の記された一冊が。私はそのためにここまで来たのだ」
……どうしましょう。何を言っているのか全然分かりません。レイトリスさんの中だけにあるねじ曲がった複雑な思考をぐいぐい押しつけられているかのような、揺らめく袋小路に迷い込んだみたいな気分です。
「つまり小説のネタ探しだろ。話の展開に詰まってるもんだから、要求自体がどうも要領を得ないのがその証拠だって。適当にそれらしいところを見せてやればいいんじゃねーの」
みっちゃんが鼻白んだように呟くと、レイトリスさんがかすかに眉を動かしました。もしかして図星だったのでしょうか。
い、いえいえ、レイトリスさんの事ですから、きっと私達みたいな素人には分からない、深い理由があって本を探しに来たのでしょう。だったら私は微力ながら少しでもその意を汲んで、レイトリスさんのお役に立てるよう頑張るべきなのです。
「レイトリスさんの満足されるような本なら……そうですね、地下書庫がいいと思います」
「地下書庫……初めて聞く場所だな。この図書館にあるのか?」
ロランさんの言に、私は首肯を返し。
「地下にあるんですけれど、普段は鍵をかけて閉鎖しているんです。そこに収められている本はここにあるものと比べて、万人向けとは言い難いものばかりで……私も必要がなければ、あまり入らない部屋ですね」
「……いいだろう。そこへ連れていけ」
レイトリスさんが承諾してくれたので、私は地下書庫への扉を開けるため、休憩室へ鍵を取りに行きました。さほど大仰な場所ではないのですが、司書としてはそこもしっかり管理しないといけません。鍵とランタンを手に、皆さんのところへ戻っていきました。
「――なあ、俺もついていっていい? 地下書庫なんて、何があるのかわくわくするしな」
「大丈夫ですけど……あんまり、見て楽しいものはないですよ?」
「私とハヅキも行くぞ。暇だしな、いいだろ?」
みっちゃんがぴょんと机から跳ねて、ふよふよと近づいて来ます。
「うーん。これだけ人数が多くなるとランタン一つではちょっと光源が心もとないですね。一応、地下書庫の入り口にも予備が一つ置いてあるんですが……」
「ふーん、明かりがあればいいのか?」
私のぼやきを聞いたみっちゃんはにわかに両手を組み、力を込めるように耳を立てて尻尾をぱたぱたさせると、やがてその全身から燐光のように明るい炎が立ち上り始めます。
「これなら暗くても安心だろ? 熱き血潮が炎になるってもんだ」
「わあ、すごいみっちゃん、キャンドルアートみたい……」
「芸達者な狐だなあ」
私やロランさんが感嘆の声を上げれば、その分みっちゃんは得意げです。これで暗闇の問題は解消されたので、私達は連れ立って図書館の奥にある通路へ入っていきました。
「しっかし、あのレイトリスって野郎、目つき悪いし口も悪いし、ろくな奴じゃねーよ」
「ああ。すかしてる上に俺達の事見下してるもんな。作家ってみんなあんな感じなのか」
レイトリスさんに聞こえるか聞こえないかくらいのひそひそ声で、ロランさんとみっちゃんがささやき合っています。さっきまではいがみあっていたのに、急に意気投合しているところは妙におかしく思えました。
「ジェシカもジェシカだ。薄々思ってたけど、本の事になると人が変わるな」
「レイトリスが来てから舞い上がってて、私達の事そっちのけだったもんな。さすが司書、三度の飯より本が好きってか」
「こらこら、二人とも。陰口を叩くような真似はよしなさい」
ハヅキさんが保護者のように叱ってくれたので良かったのですが、私も完全に我を忘れていた事を思い出してきて顔が熱いです。ロランさん達は後ろにいるので見られなかったのが幸いでした。
廊下の突き当たりにあるドアへ鍵を差し込み、開くと階下への階段が。直角に折れ曲がる段差を降りて行き、踊り場を抜けて、私達一同は光差さぬ広大な空間へとやって来たのです。
ランタンとみっちゃんの放つ光以外は薄暗く、肌寒い中を埃が舞っています。正面に伸びる通路の両脇にはどこまでも本棚が並んでいて、その数は一階分よりも多く、部屋のスペースも実際広々としているのですが、暗闇と本の醸し出す独特な閉塞感からそうは感じられません。
「ここが地下書庫か……すごいな」
圧倒されたみたいなロランさんの呟きに、ハヅキさんも頷きます。
「あちらこちらに本棚があって、迷ったら出られなさそうだよ」
私は何度も地上と往復しているので内部構造は把握できているのですが、それでも光源がないと色々不便な場所です。
「万が一迷っても、壁沿いに歩けばいずれ出られますから大丈夫ですよ……でも、ちゃんとついて来て下さいね」
「だってよ、ミツビ。けどひょっとしたら、白骨死体の一つや二つ、転がってたりしてな」
「な、なんでそれを私に言うんだよ……やめろよ、縁起でもねぇ」
「お、もしかしてびびってんのか? 意外とお化けとか怖がるタイプとは」
「そんなわけあるか! なんだって大妖怪の私がんなもんを怖がんなきゃならねーんだっ」
と、いちいちやり合ってくれるこの二人のおかげで、今にも何か襲って来そうな不気味な雰囲気や重苦しい静けさとは無縁なまま、私達は本を見て回っていきます。
地下書庫にあるのはいわゆる珍本奇書で、その大半が製作された目的も作者も不明だったり、地上のどのブロックにも属さない内容ばかりです。そのためまず日の目を見る事はなく混沌としているので、私は通称魔のスペースなんて呼んでいたりします。
「なになに、『クマを殺す千億の方法』……『白昼夢遊病患者の寝予言書』……『世界守護ロボ破壊設計図』? なんなんだよこれ、わけわかんない面白読本ばかりじゃねえか」
「いかにも秘密、といった感じの場所だから何が飛び出すかと思っていたけれど、存外愉快な書庫のようだ」
「あ、あはは……そんな警戒する事ないですよ。私もぶっちゃけ手に余ったり、置き場所に困ったものを雑多に詰め込んでいるだけで、法に触れちゃうような本は一冊もありませんから」
「やれやれ、呪いの本でも出てくるかと期待したのに拍子抜けだぜ。……おっ、この本なんかタイトルがうけるんだけど。『毒剣ダイドヴァッド―ポピルン惨死―』……? どれ、読んでみようか」
みっちゃんが本へ手を伸ばしますが、すかさずハヅキさんが尻尾を掴んで食い止めます。
「よさないか。今のお前が触ったら本が燃える」
「そう言うおめーの手が燃えてるだろ! いいから離せって!」
確かに何のためにあるのか分からない一発屋めいた本ばかりですけど、役に立たないわけではないです。技術書や古典といったメッセージ性が強く難解で格式張った書き方でなく、ある意味装飾抜きの実利的、実践性を追求した内容が多く、求める人や使いようによってはきっと使い道があるかなと、せっかく自分で集めたものだから弁護してみたり。
ともかく、危険なものはない事は保証できます。それこそ、あの日記帳とは違って……。
「……あれ? そういえば日記帳、どこにしまったっけ……」
考え事に沈む中、ふと思い返しかけて、私は話し声に意識を戻されました。地下書庫の奥。壁際にあるドアの前で、ロランさんとみっちゃんが何やらごそごそやっています。
「あれ、このドア開かないぞ? どうなってるんだ」
「ノブも回らねぇし……鍵がかかってんのかな。ジェシカの奴を呼んで――」
「――やめて下さいッ!」
はじめ、やおら発されたその声が自分のものだとは、私は気づけませんでした。ただロランさん達がそのドアを開けようとしている光景を目にした途端、全身から嫌な汗が噴き出すとともに絶叫が迸っていたのです。
「……ど、どうした、ジェシー……?」
ぎょっとしたように身をすくめたロランさんとみっちゃんが手を止めて、恐る恐る振り返ってきます。今の声は、我ながら尋常なものではありませんでした。でも、どうしてそんな風に叫んだのかは自分でも分かりません。ただ体内を逆流するかのように血が巡って、どくんどくんと鼓動が早鐘を打ち、過呼吸気味に息が乱れているのです。
「そ……そのドアは……開けないで、下さい。お願いします……」
汗は止まらず、がくがくと手の先が冷たく震えていて――それでも私は、何かに取り憑かれたみたいに目を見開きながら言いました。その言葉の意味も自分では測りかねていましたが、ロランさん達は視線を見合わせて、頷いてからドアから離れます。
「これでいいだろ? 一体どうしたんだよ、ジェシー……」
「この部屋ん中に何かあるのか? けどドアも厳重ってわけじゃないし、ただの一室みてーだけどさ」
「それ……は」
どうして。それは私の方が知りたいです。なぜこのドアを開けてはいけないのでしょう。というより、この部屋の事はすでに分かっているのです。単なる地下の物置。別に何かを隠しているとか、開けたら怪物が襲ってくるとか、そういうのは一切ないはず、です。
「ジェシー、落ち着いて。ひどい顔色だ、ゆっくり息を整えなさい」
ハヅキさんが近寄ってきて、私の背中をさすってくれました。
私は自分でもどうしようもない焦りや、実態の見えない恐怖に蝕まれて震えていましたが、ハヅキさんの温かい手の感触に集中していると、やがて収まってきます。
「ありがとうございます、ハヅキさん……ごめんなさい、さっきは驚かせてしまって」
いや、とハヅキさんが優しくかぶりを振った直後、横合いの通路から突然レイトリスさんが姿を現しました。
「何を騒いでいる……やかましいぞ、お前達」
「あ、レイトリスさん……」
私がドアの事で騒いでいる間に一人でどこかへ行ってしまっていたレイトリスさんですが、どうやら戻ってきてくれたみたいです。
私はどうごまかそうかとこわばった表情を無理矢理笑いに変えようとして――レイトリスさんが抱えている一冊の本を認めた瞬間、またしても硬直してしまいました。
「ところで、先ほど見つけたこの本だが妙に琴線に触れてな……表紙にあるジェシカという名前は、もしかしてお前の……」
「あーっ!」
「お、おいっ、それって……!」
私やロランさん達の声が見事にハモり、びしっと指差します。レイトリスさんは私達の剣幕に少々面食らいながらも、持っているその――赤と金のカバーの本を開こうとして。
「だ、駄目です――!」
隣のハヅキさんにランタンを押しつけ、私はまっしぐらにレイトリスさんへ突っ込むや否や、手を伸ばして日記帳を奪い取りました。
「良かった、間に合っ……」
……ってはいませんでした。ひったくるとともに本が開かれ、ページが縦横無尽に乱舞し始めます。
私の名をロランさん達が呼びますが、振り返る間にも視界は白で埋め尽くされて――。
――王国歴336年。10月3日。雨。
近頃、城下町がざわついているというか、浮き足立っている気がします。町の皆さんもぴりぴりしていて、通りを歩くだけでも息苦しいです。
それというのも、ダーム国が近く、フォレスに攻め寄せてくるのではないかなどという噂が飛び交っているせいです。確かにダームとフォレスは隣り合っているし、百年ほど前はずっと、北の空白地帯を争って冷戦状態にありました。
だけど、やっぱり信じられないです。だって、フォレス王フィレンデン陛下は、ダーム国と融和を図るためにフィオナ姫を嫁ぎに出されました。これで長きに渡る両国の確執はなくなり、お互いに平和な国交、文化交流の場も増える、と私達国民は喜んでいたのです。戦争なんて、誰も望んでいません。それはダームの人々も同じだと思っているのですが、違うのでしょうか。政治に疎い私には分かりません。
噂自体どこから流れてきたものか出所も判然としないし、根も葉もない憶測と切って捨てるのは簡単ですが、国王陛下はどうお思いなのでしょう。
病にお隠れになった前王陛下、実兄であるフォシル様より王位を継いで以来、民を慈しみ国を富ませるため粉骨砕身してらっしゃる、賢知の王と名高いフィレンデン陛下。フィオナ様の事だって、きっと身を切るほどに心配していらっしゃるはずです。
たとえフィオナ姫が実の娘ではなかったとしても。それがダームに行ったきり不穏な風説が流布されているとなれば、その心労はいかほどのものでしょうか。
ああ、フィオナ様……私も安否を祈るばかりです。あの方は時折、この図書館を訪れては読書に勤しんでいました。始めは私も身分の違いから近寄りがたかったのですが、そのうちにふとしたきっかけで話すようになって、それから会うのが楽しみになっていました。 フィオナ様はお身体が弱く、病が重くなれば文通という形でお話をしたり、本を貸し合ったり……引っ込み思案な私にとっては恐れ多いけれど、とても親密な間柄でした。
ダーム国に嫁ぎに行く前日、夜中なのにお城の人の目を盗み、フィオナ様は私に会いに来て下さいました。お別れを告げられたのです。私は何も言えず、こらえきれずに泣き出してしまいました。本当に泣きたいのはフィオナ様なのに、あの方は黙って、私が泣き止むまで頭を撫でていてくれたのです。
人質になどひどい扱いをされていないでしょうか。ちゃんと温かいご飯は食べられているでしょうか。どうか、どうかご無事で。それだけが願いです。
だんだんと疎開する人が増えて、町には活力がありません。私の両親もすでに城を離れ、私に一度地方の別荘まで来る事を勧めていますが、私はここにいます。ここにある本は、どの一冊を取っても失いたくないからです。最後まで残って、守りたい。
この日記帳も毎日書き続けてページがなくなりそうですし、新しい日記が必要そうです。最初は豪華すぎるので使うのに気後れしたけれど、今はすっかりお気に入りになっちゃいました。
でも、結局何枚かページが欠けている理由は分からなかったなあ。どうしてページを破るなんて、ひどい事をする人がいるんだろう……。
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