十四話 鏡面逆転世界

 目を開けると、薄暗い室内のようなところに私は立っていました。どうやら今回も、また図書館の外へ飛ばされてしまったみたいです。


「ううう……私の馬鹿! なんでまたこんな事にっ」


 昨日、ロランさんと教会の事を話した後、私は滅多に来ないからと地下書庫に日記帳を置いて来たのです。なのにそれをすっかり忘れ、こうも簡単にレイトリスさんに見つかってしまい、この三度目に……。

 己の迂闊さに嫌気が差して頭を抱えていると、すぐ側で気配がしました。


「なんだ……何が起こった」


 振り返ると、そこにはレイトリスさんが不審げに付近を見回しています。きまり悪そうにしている私と目が合えば、憮然とした表情で睨めつけて来ました。


「これは一体なんなんだ」

「あ、あの……それはですね」


 完璧に気分を害してます。それはそうでしょう。私だってわけも分からず変な場所に連れて来られれば頭にきますし、下手人と思われる人物を問い詰めたくもなります。

 観念して洗いざらい白状するしかなく、私はこれまでのいきさつや、日記帳にまつわる様々な出来事を話しました。当初は私を見据えたまま眉をひそめていたレイトリスさんですが、日記帳によって色々な場所へ飛ばされる下りになると、視線を和らげて興味深そうに耳を傾けていました。


「……つまり、あの日記帳を見つけられれば図書館へ戻れると」

「はい……多分」

「どこにある」

「わ、分かりません……日記帳があるところはいつも違いますし、近いのか遠いのかも」


 レイトリスさんは肩をすくめて、あたりへ目線を流します。


「あの、二人と一匹の姿はないようだな。俺とお前だけが運悪く、日記帳に選ばれたというわけだ」


 そうなのでしょうか。こう何度も巻き込まれていると、やはり日記帳の引き起こす事態にはどことなく規則性があるように思えます。ルールと言い換えてもいいかもしれません。


「ロランさん、ハヅキさんの時は、二人とも飛ばされたところに見覚えがあるみたいでした。レイトリスさんも、ここに何か、訪れた記憶はありませんか……?」

「と言われても、こんな建物の中にいてはな。外へ出てみよう」

「そ、そうですね……」


 気が急くあまり、レイトリスさんにたしなめられてしまいます。私が頑張らなきゃいけないのに引っ張られるような状態で、果たして今回もお役に立てるのでしょうか。

 私達のいる場所は妙に丸みのある部屋で、壁や天井が赤いです。それと、何だか甘い匂いがするような。

 空気は沈みきっていて音はせず、人の住む民家かそうでないのかすら判然としません。とりあえず前方に外部へ続くアーチ状の出口があるので、連れ立って向かう事にします。


 ――この数日間、私は奇想天外な冒険をして来ました。だから今度も何が来ようとも、とある程度腹はくくっていたのに、待ち受けていた光景は想像をはるかに絶していたのです。


「な、なに……これ……?」


 灰色がかった光が照らし出していたのは、どこかの町並み。少なくともフォレスの城下町でない事は請け合えますが、問題はそこではありません。もっと根本的な部分が、私から驚愕する以外の反応を奪い去っていたのです。

 まず鼻についたのは、甘ったるい香り。そして見渡す限りの白い道。靴が道に半分くらい埋まって、跡を作っています。そして色とりどりの建造物――おもちゃ箱にあるような積み木やブリキでできたブロックの家が、どこまでも立ち並んでいたのです。

 屋根は星形や三角形、動物を模り、壁はチョコで窓は氷砂糖。建築様式とかそういうのを丸ごと無視したみたいなデザインです。空には鳥の形をした風船がふわふわ浮かび、クッキーで作られた煙突に引っかかったりしていました。

 という事は……この白い道はもしかして、と私が屈んで表面を指でこそぎ取り、ぺろりと舐めるとやっぱり甘い。土の代わりにクリームが敷き詰められているようです。

 この、美味しそうな――ではなくおとぎ話にも出て来そうな、たとえるなら子供がクレヨンで描いたような町は、何なのでしょうか。立っているだけで現実感が遠のきかけます。


 もはや異世界と呼んでも過言ではないような場所で、レイトリスさんだって知っているか問いかけられても困るでしょう。そう思って隣へ視線を移すと、レイトリスさんはどうしてか上の方を見上げていました。


「……空を見てみろ」

「空……ですか? ……あっ……!」


 言われるままに首を振り上げた私は、さらに度肝を抜かれました。空に、もう一つ町が浮いています。目の前のおかしな町とは違い少し透けてはいるものの、まともな民家、建物、道路などがあるのですが、よく見たらおかしいです。……だって、その町は逆さまに、私達の方を向いているのですから。


「ま、町が……空に? ど、どうしましょう、落ちて来たら潰されちゃいます!」

「その心配はない。あれは見えているだけで、空の上にあるわけではないからな」


 レイトリスさんは動じず、けれど仏頂面のまま、一言告げました。


「ここは……鏡面世界だ」

「鏡面……世界?」


 ああ、とレイトリスさんは頷きます。本当に町が落ちてこないか身をすくめている私を横目で見やり、淡々と話し始めました。


「俺達が過ごしている現実世界……そこから限りなく遠く、しかし近い世界。普通は認識できないが、そんな場所が鏡のすぐ向こうにあったら。そんな設定からできあがった……ここはそれとよく似ている。作者の思い描いたイメージそのものと言っていい」

「え? どういう事……でしょうか」

「俺達は認識の裏側へと放り込まれた。今見えているこの光景はさながら心の内側。だが、本当にそう断言していいものだろうか。この菓子と玩具で積み上がった町並みこそが、真実我々の求め、そして還ろうとしている心象そのものなのかもしれないとしたら……?」


 したら……? って聞かれても、意味分からないです。

 けど、難解だからとか意味不明とかだからといってここで意思疎通を諦めては先に進めないでしょう。私も自分の感受性をフル回転させ、レイトリスさんのポエムめいた解説をなんとか噛み砕いて整理していくと、こういう事でしょうか。


「この場所は、レイトリスさんの作品に出てくる物語の舞台……という事ですか? 空の町とこの町は同じものだけど鏡の力によって、魔法みたいに様相が変わってる、みたいな」

「そういう解釈も、まあ当たらずとも遠からずだ」


 ……そういうわけらしいです。言われてみれば、上と下の町は鏡あわせのようにところどころの施設や作りに面影が似ているような気が。

 とはいえこれまでの経緯からいっても、他人の作った架空の世界に送り込まれるのは初めてで、正直まだ私は受け入れきれていませんでした。


「でも、すごく時間とお金はかかりますけど、やろうと思えば現実にあるものだけでこの町は作れちゃうのでは」

「なら、上のあれはどう再現する」


 それは、と口ごもります。振り仰げば空にも町。それも逆さまで……作り物とか、模型を使うとしても空へ浮かせる方法まではちょっと思いつきません。


「れ、レイトリスさんは本当に信じているんですか……? その、ここが物語の中だって」

「というより信じざるを得ない。俺の頭にある情景がそのまま、ここにあるのだ。作家としては夢のような場所だし、現実でないと否定されれば、逆にそれを否定し返すだろうな」


 そういう、ものでしょうか。いずれにしてもこの世界がレイトリスさんの熟知している場所なら、少なくとも迷う事はなさそうですが、気になるのは日記帳のありかです。


「こんなところで……日記帳が見つかるのかなあ」


 足下がふわふわしているようで現実味がなくさっそく不安になって来ましたが、いくらか通りを隔てた先で、大きな建物がそびえているのを発見しました。しかも他と違い、空の町のようにお菓子や玩具でない、まともな建造物みたいです。


「なんでしょう……あれ」

「分からん……あんな建物は作っていない」


 遠くてまだどういうところか分からないですが、レイトリスさんも知らないとなると怪しさ満点です。そもそも仮に、物語の中というこの状況からして奇天烈なので、調べられるならとことん調べてみるべきでしょう。


「と、とにかく動いてみませんか? 日記帳を見つけないと、帰れませんし……多分」


 賛成だ、とレイトリスさんも同意してくれたので、私達は建物のある方向へ移動を開始しました。だんだん、自分が物語の中にいるという実感が湧いて来ます。文章から想像を広げるのみならず、我が目で見て回れるというのは、読者としても喜ぶべき事態なのではないでしょうか。悲観していても仕方ないですし、こうなったら楽しんでいきましょう。

 眺めれば水色のシャーベットの川がきらきらしながら伸びていて、近くにはあめ玉がいっぱい落ちています。民家を覗けば可愛らしいぬいぐるみや人形がたくさん。


「これも全部、空にある町が変換されたもの、なんですよね……レイトリスさんの言い分だと」

「その通りだ」

「どうして人がいないんでしょう。妙にぬいぐるみや人形が目につきはしますけど……」

「さあな」

「あ! 町がお菓子な玩具なら、他の場所はどうでしょう。草原とか森とか、山や海。もしかしてもっと突飛なものに変わってたりして」

「ふうん」

「え、ええと……レイトリスさんの作風って、重厚で硬派、シリアスな世界観のものが多いですけど、こういうファンシーな世界も作れるんですね」

「……まあな」

「空の町って、どういう都市なんでしょう。モチーフとか、あったりしますか?」

「そこまで決められていない」


 道すがら、私なりに工夫して興味の引きそうな話題を投げかけてはみましたが、大体気のない生返事。せっかくあこがれの人にインタビューしたり、作品の話で盛り上がれるものと期待していたのに、蓋を開ければこのざまです。

 無愛想で、口数が少ない。浮世離れした雰囲気は感じるのですが、何だか思っていた人と違うというか。あんな素晴らしい物語を書く人なのだから、もっと柔和でウィットに富んだ方なのかと。

 そうだ。レイトリスさんは今、どう感じているのでしょう。自分の作り上げた世界を訪れるというのは、喜ばしいのか嬉しいのか、それとも困惑してしまうのか。私はふと気になった質問を口に出していました。


「レイトリスさんにとってこの町はいわば、理想の世界みたいなもの……ですよね」

「そうだな……そういう見方もある」

「こんな事言うのも変ですけど、ここから出たくなかったりしないですか。ほら、誰でも一度は考えるじゃないですか。自分だけの世界にいたい、そこでずっと過ごしたいって」


 沈黙が落ちました。それまではまるで他人事のように受け答えしていたレイトリスさんですが、かすかに視線が動き、歯がみをしたように見受けられました。


「ご、ごめんなさい、ほんと変ですよね……私なんかが。ただレイトリスさんを見ていたら、急にそんな風に感じて……」


 私は恐縮しつつ、話題を変えようと近くに立つ民家の一つへ歩いていきました。


「あの、さっき道を舐めてみたんですけど、すごく甘くて、クリームみたいでした! だからこの家もきっと美味しいと思いますよ、壁はプリンで屋根はゼリーですし」


 そう言って手を伸ばそうとした矢先、レイトリスさんが目線を寄越し。


「ここは鏡面世界で上の町と連動している。その壁を削れば向こうの家の壁も同じようにえぐられてしまうぞ」


 青ざめて手を引っ込めます。レイトリスさんが言うなら、恐らくそうなのでしょう。私だって好きこのんで町を破壊したくはないですが、ここまで歩いて来たクリームロードには点々と私達の足跡が穿たれています。


「……あれは仕方ないだろう」

「そ、そうですね……」


 私もレイトリスさんも、見て見ぬ振りをしました。そのままトンネルのようになったレアチーズバームクーヘンを抜けると、一気に目的の建物が目前へ現れます。

 三階建てほどの、茶色を基調とした長方形の建造物でした。部屋が等間隔にいくつも並んでいて、正面口には大きめの玄関があり、手前にはクリームまみれですが広々とした庭と、折り紙で作られた花壇が据えられてあります。


「これはまさか、アカデミーか?」

「アカデミー……ですか?」


 私が反芻すると、レイトリスさんはいつになく呆けたように建物を見上げ、頷きます。


「……俺の祖国では、芸術家を養成する機関に力が注がれている。このアカデミーも、画家や音楽家といった様々なジャンルで活躍できる生徒を多く受け入れていて、俺もかつてはその生徒の一人だった……」

「じゃあ、この建物は、レイトリスさんの学校……?」

「ああ。よく覚えている……外観もそっくりそのままだ。俺は自分の力を試したいが為に、勇気を奮ってこの学舎へ入学したのだ」

「あれ、でも、以前レイトリスさんがコラムに書いていた昔語りコーナーでは、家が貧しいから奨学金目当てに作家を目指した、って……」


 そう言うと、レイトリスさんは露骨にそっぽを向き、ごほんと咳払いをしました。

 あれ、今もしかして、私見栄を張られちゃったりしました?


「ふっ……しかし懐かしいものだ。誰もが俺の才覚について来れず、常に孤高を保っていたあの日々もまた良き思い出……」


 ただ友達がいないだけだったのでは、と私はついツッコみたい衝動をこらえます。


「だが、そんな俺にも一人の友が存在した。名はグラヴヒルト……お前も知っているのではないか?」

「あ……グラヴヒルト、って、あの……」


 著名な作家として真っ先に挙げられるレイトリスさんと、そしてもう一人。レイトリスさんと対を成す天才の名をほしいままにする人物。その人こそがグラヴヒルトなのです。

 読者との接触は出版社を介すのみでほぼ覆面作家にも等しいレイトリスさんとは違い、グラヴヒルトさんは自費を投じて講座を開いたり、貴族の社交パーティーに出て人脈を広げたりと、スター的な扱われ方をしていました。なのにも執筆ペースはレイトリスさんに負けず劣らずで、ファンは二人のどちらが優れているか、日夜熱い論争を繰り広げているほどです。まさに作家界に燦然と煌めく二つの新星といっていいでしょう。


「つまり……レイトリスさんとグラヴヒルトさんは、同じ出身、学校の出なんですか?」

「その通り。グラヴヒルトは同郷同輩……同じ道を夢見て、共に歩んだ同志なのだ」


 それはさすがに、熱狂的ファンを自負する私ですら知り得ない情報でした。

 二人の天才が同じ屋根の下で机を並べて、競い合っていた――運命的なものを感じます。


「俺の世界をわかちあえたのは奴だけだった。同様に、奴の荒唐無稽な夢をも包含できたのは俺一人。最大の理解者でありながら最強の好敵手――すでにその時点で、俺達の関係は定められていたようなものだった」


 恐らく奴も同じように思っていたろう、と続けるレイトリスさんは饒舌です。自分、いえ自分以上に嬉しい事のように語り、かと思うとだしぬけに口を閉ざして。


「だのに……なぜ、奴は……」

「レイトリスさん……?」


 瞳が翳り、うめくような呟きが聞こえた直後の事でした。正面にあるアカデミーの上方から、高らかな笑い声が響いて来たのです。


「な、なにっ……?」

「……この、声は……!」


 うろたえる私達の前に、声の主と思われる人影が飛び降りて来ます。屋上と思われるほどの上階から飛び降りた衝撃で地面のクリームが噴水みたいに舞い上がり、一拍置いてどさどさと降り注ぎました。


「噂をすればなんとやら! 出て来てやったぞ!」


 そしてそこに現れたのは、一人の若い赤い髪の男性でした。かなりの高度からジャンプして、下がクリームである事を差し置いても無傷なのは驚きですが、服装もカラフルかつ目に痛い原色ばかりと、恐ろしく奇抜なものでした。


「……貴様は……グラヴヒルト!」

「え……そ、そうなんですか……っ?」

「間違いない……見間違えるはずがない!」

「ははは、ふふふ、レイトリス。久しぶりだなあ」


 レイトリスさんが断言したその男性――グラヴヒルトさんはおどけた調子で両手を上げました。著作や人づての噂からどんな人物か想像を膨らませていましたが、本人を見たのはこれが初めてです。もう一人のスーパースターがいるのに、まだ動揺が抑えきれません。


「なぜここにいる! まさか貴様も日記帳の力で飛ばされて来たのか!」

「日記帳? 何の事だ……そんなものはどうでもいい。せっかく再会できたんだ、旧交を温めようじゃないか」

「ふ、ふざけるな! 真面目に答えろ!」


 レイトリスさんが一喝します。今し方までの親しみすら感じた語り口から一転、その双眸には敵意にも似た強いものが込められていました。


「やれやれ、相変わらず短気な奴だ……まあ、そこまで言うなら話してやろう」


 いいか、とグラヴヒルトさんはにやにやしながら足の先でクリームをほじくり返します。


「ここはレイトリス、お前の心にある風景! お前の中にある心象が、一つの世界として実体化している!」

「心象世界……だと?」


 えっと……急な展開でついていくのが精いっぱいですが、つまりこの町も、空も、丸ごとレイトリスさんの作り上げた世界であり、心そのものというのでしょうか。

 人の手ではいよいよ再現不可能な、トリックという枠組みを乗り越えた魔法のような状況でにわかには信じがたいですが、レイトリスさんは反論もせず睨み付けたままです。


「そして俺の目的はただ一つ! レイトリス、お前とどちらが上か、雌雄を決する事だ! 俺達の競争に、そろそろ決着をつけようじゃないか!」

「俺と戦う……というのか? 貴様なんぞが」

「ふっ……それはお前も望むところだろう。小説の質、量、売り上げ、読者の数エトセトラ……どれもが俺達は実に均一、まったく同じと言って良かった! だからこそ、邪魔の入らないこの世界でお前を倒し、俺がナンバーワンである事を証明してやる!」


 レイトリスさんを指差した威勢そのままに、グラヴヒルトはいでよ、と両腕を振り上げ、頭を振り上げ目を剥いて叫びます。するとその傍らから突如として地面が山のように盛り上がり、クリームをかき分けて何か巨大なものが出現します。

 それは建物三階分はあるであろう体長の、全身がお菓子でできた巨人でした。胴体はカステラティラミスモンブランと三段重ねで、頭部は扁平気味の丸いアイスに二つのつぶらな目はマーブルチョコ、両腕はロールケーキで、先端には大福の拳がくっついています。


「スイーツ戦車、カシタンク! ザ・てんこ盛りバージョン! ふはははははー!」

「な、なんですかこれーッ!?」


 驚き泡を食う私を愉快そうに眺め、グラヴヒルトさんが哄笑します。カシタンクと名付けられた巨人は足下のパイでできた車輪を動かし、こちらへと近づいて来ました。


「言っただろう、ここはレイトリスの心象世界! その作品に登場するあらゆる物体を好き放題に作り出せるのだ! そしてこのカシタンクは我が忠実なる下僕、貴様を叩きつぶしてくれるわ!」


 と、カシタンクが腕を振り上げ、大きな大福を降り注がせて来ます。私とレイトリスさんは左右に分かれて飛び退き危うく躱しますが、着弾点に加えられた衝撃でクリームが陥没し、飛び散るとともに星でも墜落したようなクレーターができてしまいました。


「だ、駄目ですよ、お友達同士で争いだなんて! 考え直して下さい、グラヴヒルトさん!」


 ぞっとした私は矢も楯もたまらず訴えますが、グラヴヒルトさんははっと一笑に付して。


「部外者は黙っていろ、これはいわば頂上決戦にして聖戦、俺とレイトリスの宿命の対決なのだ! ここまで長かったが、ついに終止符を打つのだ!」

「そんなのって……!」


 熱の籠もった言い分に、私は身に迫る恐怖を一時忘れて唇を噛みました。小説家同士で戦うなんて、間違っています。どちらにも優れた点があり、ファンから見れば得難い存在なのです。それに対決するにしても、もうちょっと知的というか、芸術性で勝負するようなものかなと思ったのに、文字通り暴力に任せてだったなんて。


「ど、どうしましょう……このままじゃ潰されちゃいますよ……!」


 私は手近な花壇の裏へ逃げ込み、少し離れた位置でクリームの固まりの後ろへ隠れているレイトリスさんへ呼び掛けます。私達にあのカシタンクへ対抗できる手段はなく、すぐにも逃げるべき、と提案するつもりだったのですが……。


「……奴は言った。この作品に登場するあらゆる物体を作り出せる、と。ならば俺にも、同じ事ができるのではないか」

「え……ま、まさか……!」


 カシタンクは私達を捜して車輪の跡を残しながら動き回っています。グラヴヒルトさんは腕を組んで仁王立ちしていますが、こちらが見つかるのは時間の問題でしょう。


「このまま逃げれば俺は誇りを失う……奴にだけは負けられんのだ。だから、勝てる方法があるなら危険でも、それに賭けてみたい」

「レイトリスさん……」


 レイトリスさんはこれだけ窮地に追い込まれても、立ち向かう心づもりのようです。誇りのため、そしてグラヴヒルトに応えるため――私は初めて、レイトリスさんの本心に触れたような気がしました。


「……でも、それだとグラヴヒルトさんみたいに、あのポーズを取らないといけないんですよね」


 レイトリスさんが数拍、硬直しました。でもすぐに。


「い、いや、あれは単なるパフォーマンスで、必ずしも同じ事をする必要は……」

「けど、試すにしてもより確実性を増すためには……」

「くっ……」


 レイトリスさんは捨て鉢のように頭を振ると、一気に駆け出してカシタンクの前へ飛び出しました。そして先ほどのグラヴヒルトさんの真似をするみたいに、頭を上げて目を剥き、両腕を振り回して。


「い……いでよ、子連れドラゴン!」


 ……しーん、と静まりかえりました。うわあ、と私は見てはいけないものを目にしてしまった気がして、ついと視線を逸らします。カシタンクでさえ動きを止めていました。


「はっはっはー! 面白い事をするじゃないかぁ、レイトリス!」


 ただ一人、グラヴヒルトさんだけはノリノリですが、レイトリスさんが慰められた様子はありません。


「く、くそ、これだけやって失敗とは――」


 レイトリスさんが忌々しげに吐き捨てた、その直後でした。アカデミーの閉ざされていた正面口のドアが開かれ、強烈な突風とともに無数のページが吹き付けて来ます。


「こ、このページ……もしかして!」


 息を呑む私達の目前で、ページは一カ所へ寄り集まり、竜巻のように回転し始めます。数秒後にその回転は収まり、四方へとページが舞い散っていった後には。

 カシタンクにも負けず劣らずの巨躯が一つ、佇んでいたのでした。


「成功……したのか?」


 レイトリスさんの唖然としたような呟き。私もまだ信じられず、まさに物語の登場人物にでもなったような気分でした。でも、きっとそうです。あれは間違いなく、私もレイトリスさんの作品で読み、姿を夢想した覚えのある存在なのですから。


 ずしん、と重量感のある尻尾。ずんぐりむっくりとした体格で首と足は短いですが、腕は太く長く、そして爪はとにかく大きく。

 そこにいたのは緑の鱗を持つ、巨大なドラゴンでした。右手には何メートルとある大きな鉈が握られていて、左手にはこれまた人が何人も入れそうな丈夫な黄色いバッグが吊り下げられ、その中からはもう一匹、小さなドラゴンが顔を出しています。


「こ、子連れドラゴン! 第千百十六巻のドグマの章、一万千五十三話の三百十六ページの四行目にして人を食べる竜、子連れドラゴンが第1話開始から三年目にしてようやく登場するや否や展開を一変させたその勇姿に、読者達を大いに湧かせたあの……うわぁ、本物だ!」


 挿絵を穴が開くほど目に焼き付けた姿です。それが見上げるばかりの立体を伴って目の前に君臨しているのですから、それはもう私はハイになるあまり、カシタンクの脅威も忘れて語ってしまいます。大きなドラゴンの方は頭から背中まででこぼこしたオレンジのとさかがあり、体型的には怪獣ぽいのも原作再現度が高いです。感動です。


「よ、よし、いいぞアバンナ! その気持ち悪い菓子もどきをぶちのめせ!」


 レイトリスさんが号令すると、たるんだ顔立ちに糸目というやる気のない大きなドラゴン、アバンナが、バッグと鉈を置いてのろのろと前進し始めます。ちゃんと言う事を聞いてくれて、これでまだ希望はありそうだと私もごくりと生唾を飲みました。


「くっ……ぬかるなよカシタンク! 見ろ、相手はまったくやる気がなさそうでしかも素手だ、敵じゃあないぞ!」

「ふ……甘いなグラヴヒルト。アバンナの持つ鉈は武器ではない……」


 レイトリスさんが不敵に唇を歪めると、バッグの中にいる子ドラゴンがおもむろに腕を伸ばし、鉈を持ち上げて引き込むと、その刃の部分をがじがじと噛み始めます。


「あの鉈は子ドラゴンちゃんの遊び道具なんです。戦いには一切使われないんですよ」

「なんだと! くそ! まぎらわしい! 騙された!」


 その間にもアバンナはカシタンクへと距離を詰めますが、カシタンクは迎撃すべく拳を突き出し、大福の内部に詰め込まれた大量の金平糖を弾丸のように浴びせかけます。

 しかしそれは下手な合金よりも堅牢なアバンナの鱗にことごとく弾かれ、ならばとばかりに腕を引き、カシタンクが殴りかかるもののその一撃もあっさりといなされてしまいます。


「な、なんて頑強さだ! カシタンク、そいつを近づけるなーっ!」

「ははは、無駄だ無駄! やれい、アバンナァッ!」


 テンションの上がったレイトリスさんが命じると、アバンナは倒れかかるようにカシタンクへ掴みかかり、頭部であるアイスにかぶりつきました。カシタンクがわたわたと暴れるのを押しとどめつつ、口元を白く染めてむっしゃむっしゃと咀嚼しています。


「カシターンク!」


 グラヴヒルトさんの叫びもむなしく、力尽きたカシタンクは目玉から何からどろどろと溶けて、後方へ倒れ込んでいきます。そしてその位置にはちょうど、応援に駆けつけていたグラヴヒルトさんが立っていて。


「ぬ……ぬおうぇぇえええっ!」


 ……カシタンクもろとも、下敷きになってしまいました。もうその場にはお菓子の巨人の姿はなく、ただ広い溜まりだけが残っています。


「ぐ、グラヴヒルトさんが……」

「……これが奴の望んだ結末だ。やはり最後に立っていたのは俺だったがな」


 あまりに冷たすぎるレイトリスさんの言葉に何も言えないでいると、一方でアバンナはきびすを返し、元のようにそれぞれの手に鉈と子ドラゴンの入ったバッグを持つと、小さめサイズの翼をはためかせて飛び上がり、ふらふらと空へ消えていきました。


「行くぞ……元の世界に帰らなければならん」

「そ、そうですね……」


 見れば、奥のアカデミーの扉は開いたままです。私達の目的は、あの建物の探索。いつまでもここで突っ立っているわけには、いかないのですが。


「あの……さっきのグラヴヒルトさんって、もしかして……」


 彼の言動からある仮説を思いついていた私は、ためらいがちに濁しますが――レイトリスさんはすぐに先を続けました。


「心象風景の一部……と、言いたいのか。奴自身の語った通り」


 はい、と私は先を歩くレイトリスさんに頷きます。


「日記帳を通して来たのは私達二人だけ……グラヴヒルトさんは日記帳の事を知らないようでした。だったら他にあの人がいた理由は……」

「そうだとしても不思議ではない。つまるところ幻影のようなものだ。あんな幻に、俺の行く道を阻ませはしない」


 だからレイトリスさんは躊躇なく、グラヴヒルトさんを打ち倒してしまったのでしょうか。唯一と言っていい友人が、たとえ偽物だったとしても。

 そうまで割り切れるくらい、小説家として生きる自分に迷いを抱いていないのでしょうか。私はまた、レイトリスさんの事が分からなくなっていました。

 建物の扉をくぐり、屋内へ踏み込んだ瞬間、ぶわっとはためくような風と白い閃光が私達を包み込みました。

 まぶしさに顔を覆い、恐る恐る目を開けると、そこには――。

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