十九話 暗黒魔道士、デミデラック

 気がつくと、私はしゃがみこんでいました。空気の冷たさと、床の硬質な感触。

 図書館でない場所にいるらしいのはそれだけの情報で確信しました。もう慣れっこです。

 腕の中に、日記帳を抱え込んでいました。直前に流れ出ていたページからの流血はなくなり、元の綺麗な状態に戻っています。

 表紙には、私の名前。今までと違って、私は最初から自分の名前が表記された日記帳を持っていました。


「ようやく、会えたな……」

「……え?」


 男の声がかかります。そこでやっと、私は顔を上げてあたりを見回す事にしました。そして、ここがどこかで見て――そして訪れた場所である事に気がつきます。

 何もない、正方形の広場。中心にある、床からせり上がった祭壇のような白い台座。そこには太陽もないのに上方から白い光が柱のように射しています。

 忘れるわけもありません。一番初めに日記帳を通してロランさんとやって来た、あの迷宮の最奥。

 でも前回と比べ、いくつかの変化が起きていました。まず、台座の上から光の降り注ぐ天井付近では、風もないのに鳥が羽ばたくかのように無数のページが円を描き舞っています。何とも奇妙な光景でした。

 それからもう一つ。台座の上――これも以前来た時には、なぜか日記帳が置いてあった地点。人影が佇んでいます。黒いローブを羽織り、目深なフードで顔を隠していて、何者かは分かりません。

 この人が、私に声をかけた人物でしょう。一体誰なのか見当もつかないのに、どうしてか私はずっと前から、その人の事を知っていたような気がして。


「あなた……は?」


 ゆっくりと立ち上がり、恐る恐る尋ねると、フードの男はくくく、と喉を震わせて含み笑いを漏らしました。およそ穏やかな笑い方には感じられません。


「そうだな。確かに俺とお前はこれが初対面だ。だが、思い出した今なら推理できるんじゃないか? あの図書館で、あの部屋で。お前自身の辿った結末を目撃した後なら、な」

「私……の……」


 前触れなく降って湧いたような激しいめまいと嘔吐感にかられて、ぐらりと体勢を傾がせます。夢中で日記帳を抱きしめ、あわや倒れ込みそうになるのをこらえました。

 そうです。思い出したんです。私はあの日、あの部屋へ逃げ込んで……!


「あなたは……あなたは誰なんですか! 答えて……っ!」


 思考が答えを導けば、きっと耐えられない――そう焦るあまり、悲鳴じみた調子で男へ訴えかけます。そんな私をさも面白がるように、男はくつくつと笑い肩を上下させ。


「いいだろう。教えてやるよ」


 男がフードに手をかけ、ばっと後ろへ下げました。中から、その素顔が明らかになります。

 やはり見覚えはありませんが、左頬からこめかみまで浮いた痛々しいアザが、特徴として一際目を引きました。そして腕を広げ、高らかに宣言します。


「俺はデミデラック。――暗黒魔道士、デミデラック様だ……!」

「魔道、士……?」

「そう。お前のそれと、俺の持つこれ――魔道書ヴェルショナルの、製作者だよ!」


 ははは、と愉快げな笑い声を響かせ、デミデラックはローブの袖口から、一冊の本を取り出します。

 その手にあるものを見て、息を呑みました。青の表紙と銀の刺繍。色こそ違いますが、サイズや細工から何から、それはまるで。


「私の、日記帳と同じ……?」


 うり二つと言ってもいいです。デミデラックが本を開き、ページをぱらぱらとめくってみせますが、そこに羅列されている文字がどれも人名のように見えるだけで、レイアウトや細かな意匠も、中身はまったく同じでした。


「こいつは魂を奪う魔道書さ。お前が日記帳として後生大事に抱えてるそいつも、同じヴェルショナル――まあ、細部は少し違うがな。外見でなくて、所有者の違いという意味で」

「ヴェルショナル……? 所有者……? どういう事、何を言ってるんですか……!」


 日記帳そっくりの書物がもう一つ出て来た事で、デミデラックの言葉がうまく頭に入って来ません。 

 でも直感的に思いました。多分この人は、全てを知っている。私に何が起こっているのか、日記帳とは何なのか。そして……彼が持つそのヴェルショナルからは、肌を冷たく刺すような底知れないまがまがしさが感じられました。


「事の起こりは約百年前。お前が産まれるずっと昔から、計画は始まっていたのさ」

「計……画」


 指先で本の表紙をなぞりつつ、デミデラックが話し始めます。私はともすれば湧き上がる悪寒を伴った身震いを懸命に抑えながら、相手の出方を聞き逃すまいと耳を傾けました。


「当時、フォレスとダームはお互いに反目し合っていた。理由は北の平原、空白地帯。領地を広げたいものの隣の国が邪魔で表立って手は出せず、不毛な牽制合戦を繰り広げていたんだ。だが、平原に異民族がやって来てから状況が変わる。フォレス王は権謀術数を巡らせてうまいことダームを出し抜き、異民族を追い出し、見事に平原を手に入れた。その際に異民族の王は死んで、王妃は領内にある辺境の塔へと幽閉された……」


 この、話。私は知っています。フォレスの歴史に、そのような小競り合いが起こっていたとも。それにごく直近で、国名は秘されていたものの、似た話を聞いたような。


「ただし、王妃は子供を身ごもっていた。塔での孤独な貧しい暮らしに耐えながら、無事出産。だがそれで体力を使い果たし、余命いくばくもない――そして、その産まれた子供が、この俺。デミデラック様だったってわけだ」

「あなたが……異民族の血を、引いている……?」

「そうそう、その通り。死に行く母は、俺にフォレスへ復讐するよう懇願した。知っている限りの知識を教え込み、強靱な意志を支える憎悪を植え付けた。俺が五歳くらいになる頃には母は死んで、俺自身は塔からやっとこさ出され、教会へ移される、と」

「そんな……ひどい」


 デミデラックは軽い口調で語っていますが、王妃の気持ちを考える私の胸中には、何とも言えない憐憫れんびんとどす黒い怖気が並行して走りました。

 一族を殺され、拐かされ閉じ込められ、それでも命を削って産んだ子供にまで報復を託すのですから、その恨みは何世代にも続きかねない、恐ろしく計り知れないものでしょう。


「まあフォレス側も、俺の処遇には悩んだんだろうな。殺しておくのが手っ取り早いが、そもそもは異民族の報復を恐れ、人質として王妃を誘拐したんだ。だから子供である俺においそれと手をかけられないが、かといって国内に置いておく事も難しい……だから中立な立場で、必要とあれば仲介も行える教会に押しつける形になったわけだ」

「教会、に……」


 教会。強く決意した上で向かう予定だったのに、二度もその存在を忘れていました。なのに今は、いつ、どのタイミングで忘れてしまったという事そのものまで鮮明に思い出せています。この記憶の不自然な変遷は、よもや日記帳と何か関係があるのでしょうか。


「が、いつまでも教会にいては復讐が果たせない。そこで俺は、教会の伝習する秘儀を覚える傍ら、母から受け継いだ術を磨き上げ、隙を見て脱走を図った。――人を慈しむ心だの、神への信仰だの、偉そうにご高説を垂れてくれた神官や司祭を軒並みぶっ殺してやったから、すぐさま俺は破門、指名手配されたよ」


 そう言われて、私は確信しました。

 デミデラックは悪人です。こんなに楽しそうに人を殺めた事を喋れる人間が、善良であるはずありません。彼は真実、破戒僧なのです。


「教会から脱出した俺は、追っ手をまきながら地下に拠点を作った……そう、ここの事だよ。何十年くらい前までは単なる洞穴だったが、改修を繰り返してそれは完璧な迷宮に仕立て上げたのさ。俺の作った罠の数々、堪能してくれただろ?」


 私は無言で睨み返しました。確かに苦労はしましたけれども、この人の吐く下らない冗談に興味はありません。今はとにかく、真相が知りたいのです。


「その頃に俺は持てる知識と技術を総動員して、このヴェルショナルを作り出した。こいつさえあれば、復讐もたやすい。だから何もかもうまくいっているように思われた――あの女が現れるまではな」


 それまでへらへらと、武勇伝でも語るようにしていたデミデラックが顔をしかめ、不快そうに舌打ちします。あの女、と私が反芻はんすうすると、デミデラックは吐き捨てました。


「ラック・ハット……伝説の冒険家か何だか知らんが、あいつがいきなり最深部まで入り込んできて、ヴェルショナルを見るなりよこせだのなんだの……! ああ、くそ! 今思い出しても忌々しい!」

「ラック・ハット……ロランさんの、おばあさん……」


 そこでその名が出て来た事にも面食らいますが、デミデラックのロランさんとの意外なつながりにも私は瞠目していました。


「しかもあの女、ぶち殺そうにもやたら強くて、逆に俺の方が撲殺されてしまった……あの屈辱を忘れまいと、今でもこのアザは残してある」


 と、デミデラックが左頬のアザを撫でます。そうしていると昂ぶった気持ちが落ち着くようで、仇のように足下の床を睨めつけつつも、徐々に平静を取り戻していきました。


「討伐されて……なのにあなたは、どうして生きているの?」

「間一髪で、俺は自分の魂をヴェルショナルへ移す事に成功したのさ。ラック・ハットの奴は俺が死んだと思い込み、ヴェルショナルの危険性も把握して、この迷宮に封印する事にしたようだがな」

「封印……あ、もしかして」


 ロランさんは言っていました。生前、ラック・ハットが残した手帳に迷宮の事があり、けれども立ち入るなと但し書きがしてあった、と。あれはもしかして、そのヴェルショナルが封じられているから、誰も入らせたくなかった、のでは。


「手痛い敗北を喫した俺はラック・ハットにリベンジを誓ったものの、いかんせん奴に迷宮内の設備をほとんど破壊され、加えて失われた力を回復するのにも何十年とかかった。だから、ページを使って脱出する事にした」

「ページ……?」

「そうだ。ヴェルショナルのページ一枚一枚には、人を操る力がある。たとえば紙切れに命令を書いて適当な人間に渡せば、意思を奪ってその通りに動かせるようになるわけだ」


 私は絶句しました。魂や魔道書とかのメカニズムはまだよく分からないけれど、そんな恐ろしい作用を持つ道具があるなんて。

 まさか、私の持つこの日記帳――デミデラックはヴェルショナルと呼んでいますが――にも、同じ力があるなんて、事は。


「俺はフォレスへの復讐の機を窺うため、あらかじめページを破り、至るところの地域にばらまいておいた。情報収集や資金調達、戦力の見繕い、といった具合にな。有事の際に備え、救援を呼ぶ手はずも整っていた。実際、身体はなくなったもののページの効果はまだ有効で、何とか助けは来た」


 だが、とデミデラックの表情はまたも硬いものになります。


「ページの枚数には限りがある。それに余白が足りなければ命令そのものが書けない上、命令にしてもそれほど複雑なものは使えない。敵と戦え、倒せ、のような単純な内容なら通るが、殺さずに手加減しろ捕らえろ必要なら手当てしろ、と長々とした回りくどいものになるともう無理だ。長年、このあたりを改善しようとはしているんだがな……」


 愚痴っぽく呟いていますが要するにそのせいで、またしても想定外の事態に巻き込まれてしまったというのでしょうか。デミデラックは頭は切れる印象があるのに、妙に運に見放されているところがある気がします。


「ページを渡しておいた奴――有象無象の盗賊崩れなんだが、迷宮を出て別の安全地帯へ移動する時に、よりによってご同業の連中に出くわしてな……。ろくな抵抗もできず殺された上、ヴェルショナルは奪われた。速いペースで幾人もの手から手へ渡り、最後に――」


 デミデラックが視線を上げ、私を一瞥しました。そこまで言われて、私もはっとします。


「それで、たまたまフォレスに来ていた商人の方から買い取った、のが……私……?」


 おぼろげだったものが、霧が晴れるようにはっきりしていきました。私は間違いなく、この日記帳を買い取ったのです。司書として図書館へ出勤する前日。何ともなしに落ち着かず散歩していたら、たまたま露天で目に止まって。

 後は見た目の装飾が気に入ったからとか、いい匂いがするとか、特筆するまでもない理由でした。あれだけ気に入っていたのに、どうして今の今まで忘れていたのでしょう。ロランさんと一緒に見つけた時も、初めて目にしたみたいに。


「偶然。それ以外に言い表せないな。お前は偶然、ヴェルショナルを所持したんだ」

「そんな……で、でも! 私の日記帳の色は赤、で……っ」


 本当にそうだったでしょうか。この日記帳は赤。でも、手に入れた時の、日記帳は――。


「お前は手にした本が魔道書などと知るよしもないし、俺も無知な小娘にヴェルショナルが渡り、これなら動くのはたやすいと喜んだが、それもつかの間だった。ページを使ってヴェルショナルを回収させようにも、王立図書館は警備が厳しい。おまけに教会の神官どもも万一の事がないよう目を光らせている。ヴェルショナルを教会に持って行かれれば一発アウト。そうでなくても無理に押し入り、それで強奪が失敗しても、連中はお前の日記帳にたどり着いたろう。ようやく長い彷徨ほうこうから解放されたと思ったら、とんだ袋小路だったってわけだ」


 やれやれ、とデミデラックがため息をつきますが、私はこの日記帳が本当にヴェルショナルなのかと、正直半信半疑でした。ずっと生活をともにしていたものの中に、悪の魂が封じられていたなんて。


「弱り切った俺は、やむなく遠回りの道を選ぶ事にした。真正面からの力押しはやめて、策謀に頼る方針に切り替えたのさ」

「策謀……?」

「フォレスを中心として大陸各地に散ったページの宿主と俺は、視界や聴覚といった五感がリンクしている。そんな風に網を張りながら調査を続け、ある人物に目をつけた。そいつはフォレス王家に連なる人間の一人――名前はフィレンデン。先王、フォシルの実弟さ」

「フィレンデン……国王陛下? そ、そんな……っ」


 あらゆる悪事を聞かせられても、まだどこか一枚膜がかって聞こえていたデミデラックの行動が、急に実感を伴います。

 フィレンデンとは、現フォレス国王陛下。それがまさか、デミデラックの毒牙にかかっていたなんて。


「陛下に何をしたんです! あの方は、身を挺してフォレスを守って下さる立派な……っ」

「落ち着けよ。お前にとっちゃまだまだ過去の話なんだ。それにこの時点では、フィレンデンは王になっていない……」


 デミデラックは思い起こすように視線をやや上へ傾けて、にやりと不気味に笑みます。


「しかも、本当にフィレンデンは、フォレスのためになる事をしていたか? そりゃあ、表向きは奥ゆかしい、素晴らしい賢王だったさ……だが内実はどうかな」

「ど、どういう事ですか……!」

「何なら見せてやるよ。俺とあいつの、密談の内容そのままをな」


 その瞬間、上空ではためいていたページの一つが急速に落下し、私へ張り付くように近づいて来ます。

 慌てて身を引きましたが、みるみるうちに視界いっぱい、ページとその文字が大きくなってきて――。

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