幕間 ある王の顛末
夢にたゆたいまどろんでいるような、何とも言い表しようのない心地でした。
霧のようなとらえどころのない、白い空間。一見文字のようでいて、目をすがめると不自然な形に曲がりくねって読み取れなくなるいくつもの黒いあぶくが、泡のように上下して、私自身も流れに呑まれて回転しているかのような錯覚に包まれています。
眼前に、人影がありました。長いフードをかぶり、顔は見えません。でも、私はその人物を知っている気がしました。
遠い昔に写真で見かけたみたいにおぼろげで、会った事があるようで、ない。近いようで、果てしない。さながら潮の満ち引きにも似た感覚。分かるのはそれだけで、名前も性別も面相も、一切がこの霧に紛れて虚ろでした。
「あなたは……誰?」
半分眠ったような状態のまま問うと、不意に頭の中に声が響きました。トーンからして男性のもののようでしたが、性格を判別できるような声音の癖やしゃべり方は不明瞭で、本当にただ、無機質な文字だけを脳の表面に書き込まれているかのような感じです。
――もうすぐだ。もうすぐ、会える。
「え……?」
――目覚める時が来る。長く待った。だが、終わる。お前の夢も、覚めるのだ。
「ゆ……め……?」
――抵抗は無駄だ。ただ受け入れろ。それだけが最後の仕事だ。
それまで、遠いのか近いのか、距離ですらあやふやだった私とその人物が急速に接近するように、ゆっくりと細長い腕がこちらへ伸ばされます。
――さあ、明け渡せ。お前の――。
その腕から噴出するように数え切れないほどのページが舞い散り、私を呑み込もうと迫ってきて。
金切るような自分の悲鳴で目が覚め、私は跳ね起きました。その拍子に座ったままの体勢から浮いた膝が机の裏へぶつけられ、うめきながら悶絶してしまいます。
「い、いたた……うぅ、なに……今の……変な夢?」
ひどく奇怪な夢を見ていた気がします。
思い出そうとしても、浮かぶのは無数のページと、何か――誰かから見られているような、得体の知れない気配。かといって悪夢なのかと言われるとなんとも形容しがたく、内容を手繰ろうと試みても肝心のところはぼやかされていて。
「……なんか、嫌な感じ。覚えてないのに、身体の神経とか、音とか……そういうリアリティはあったし」
でも、まあ、とどのつまりは夢です。ただの夢。それ以上でも以下でもありません。おおかたここのところ大変な体験ばかりしているせいで、神経が混乱しているだけでしょう。
「うー……汗もかいてるし。それに、今、何時だっけ……?」
腰掛けたまま身をひねって大時計を見上げると、針はちょうど正午を回るところでした。あまり空腹感はありませんが、というより、私はいつの間に司書机で寝入ってしまっていたのでしょう。眼鏡もかけたままで。
「何を……していたんだっけ。寝ぼけてるのかな、思い出せない……」
記憶があやふやでした。うっかり睡魔に負けて昼寝でもしていたのかもしれませんが、別にやりかけの仕事も残っていません。その時、あれ、と思いました。
額の汗を拭った左手はともかく、右手は強く握り込まれたまま。汗ばんで固くなったそれを何気なく開くと、ひらり、と一枚の紙切れが落ちました。
「教会へ、行く……? ……え、なにこれ」
筆跡からして、私の書いたメモみたいですけれど、こんなもの書いた覚えはありません。誰かのいたずらかな、とも考えましたが図書館は静かで、私の他に誰もいないです。
「夢遊病みたいに、落書きとかしちゃうようになっちゃったのかな……」
そもそも、どうして教会なのでしょう。教会なんて行く用事、ないはずなのに。
何だか頭が熱くて、痛い。この紙切れ――走り書きの内容でなく、ページそのものを眺めているだけで、いい知れない怖気が湧いてくるような。
「どうしちゃったんだろう、私……。――ロランさん、早く来ないかなあ」
不気味な紙切れを遠ざけるように机の引き出しにしまい、一息ついた矢先の事でした。がちゃ、と図書館の玄関が開かれ、エントランスに誰かが入ってくる足音がします。ロランさん達でしょうか。
自然と気分が舞い上がるまま顔を上げると、戸口に立っていたのは私の予想した人の誰でもなく、一人の男性でした。
肩口まで垂れた濃い茶色の髪は白が目立ち、しわだらけの頬は病的にこけ、目は落ちくぼみ、背筋は折り曲げられ杖をついています。にも関わらず気配からはどこか暗く鋭敏としたものを放ち、初老なのか老人なのか、年齢をこれと定めるのは難しいです。
やつれた風貌と比べて、服装は豪華なものでした。高級なビロードのマント、分厚くきめ細かな生地の胴衣、杖には金メッキが施され意匠も
「……あ、あの」
来館者の方でしょうか、と私が問いかける前に、男性は近くの読書用の机まで歩いていきます。視線を木目へ落とし、しゃがれた声で言いました。
「……ここに座っても、いいかね」
「あ……、はい、どうぞ」
男性は椅子を引き、音を立てずに腰かけます。歩き方一つにも品があるものの、ここまで歩いてくるのと座る前の仕草には片足をかばうような挙動があり、杖を持っている事も加味するとどうも足を悪くしているのかと察せます。
「あのう……お、お茶をお出ししましょうか? それか、本にご興味があるなら私が案内とか、紹介を……」
さる高貴な身分の方であれば粗相は許されません。私が緊張しながら尋ねると、男性はそこでようやく、頭を巡らせてこちらへ目を向けました。
「いや……本は必要ない」
「え……?」
「ずいぶんと、この図書館は静かだが……他に客は、来ないのか」
「えっと、そうですね……立地的にも、歩いて来るのは大変なので滅多に……」
「……そうか」
男性はしばし、沈黙します。何を考えているのか読めず、私もしきりに困窮して首を傾げてしまいました。すると。
「では、ここに――ジェシカという司書はいるかね」
ジェシカ。まさか自分の名前がこんな唐突に出るとは思わず、私は目を白黒させながらぼんやりした手つきで顔を指差しました。
「あの……ジェシカなら、私ですけど」
「君が……?」
「はい。今図書館にいるのは私一人なので」
説明していて、私は妙な感覚にかられました。図書館に来る客はいない。図書館にいる司書は私一人。なぜでしょう。そんなはずないのに、その間に、何か白紙めいた違和感が挟まっている気がして。
「聞いたとおりの容姿……まさか。いや、ならば、本当に……これは私への、
男性の方も一人で、全てを察したみたいに納得している風。何やらいい知れない、けれどもどこか神妙な空気になってきたところで、しわがれた声音で言葉を紡ぎます。
「聞いてもらいたい、話がある。伝えなければならないのだ……彼女との、約束だから」
「約束……ですか?」
「多少、長くはなるが……それでも。頼む」
まっすぐ見つめられました。来館者の方からの本についての相談や要望などは受け付けていますが、個人的なお話などは少なくとも仕事中には困ってしまいます。
ですがその双眸は真摯で、苦しげな自責と悲壮さすら感じて。私は少し悩んだ後、こくりと頷きました。
「……お願いします」
どういうわけなのかもろくに語られず置いてけぼりですが、今はそうするのが正しいと思えたのです。男性は安堵したように息を吐いて。
「では、聞いて欲しい……ある愚かな王の、
あるところに、二つの王国がありました。
知と教養豊かな西の王様に治められた国と、武と礼節を重んじる東の王様が率いる国。両国は国が興った時期も、文化も言語もよく似ていて、兄弟国と呼んでも差し支えありませんでした。
でも、お互いの関係はすこぶる不和なものでした。理由は少し北の方にある、広大で肥沃な平原をどちらが所有するか、長年揉め続けていたのです。
もとより発展の度合いはほとんど変わらないペースだったため、空白地帯である平原へ目をつけたのも同じタイミングでした。戦争が起きる事はありませんでしたが、商人や外交官などを除いて交流はなく、冷戦は続いていました。
ところが、平原へさらに北方から異民族が移住して来た事で、状況は一変します。せっかく手に入れる予定だった土地を奪われる形になった両国は焦り、異民族を追い出そうとします。この時初めて、西と東の王様は力を合わせて、北の平原へと攻め入ったのです。
自分達とは違う戦術や武器防具、奇跡のような不思議な力を持つ異民族との戦いは激しく、多くの犠牲を出してもなお決着はつかないまま、仕方なく彼らがとどまる事を認めるしかありませんでした。
西と東の王様は公的に異民族の王と停戦協定を交わし、土地から得られる利潤などを巡る戦いは外交の場へ持ち越されるかと、誰もが思いました。
しかし頃合いを見計らい、西の王様が意表を突いて平原へと攻め込みました。協定のため国境近くに訪れていた異民族の王を殺し、身重の王妃を召し捕り、敵兵達を虐殺し、その勢いで異民族を一掃して、空白地帯全土を手中に収めてしまったのです。あまりの横暴に立腹した東の王様の抗議もどこ吹く風で、西の国の一人勝ちとなってしまいました。
さて、いよいよ両国は険悪になり、いつ戦争が勃発してもおかしくない緊張状態になりましたが、それから数十年が経過してお互いに代替わりし、ある時西の王様からの提案がありました。娘を嫁がせ、お互いの国の和解を望む、との内容です。
その時、東の王様も新たに国王としての戴冠式を済ませたばかりで、正室も側室もいませんでした。初めての妻が西の国からの王妃となる。それはなんとも運命的で、人民に対しても受けのよい事の運びと言えるでしょう。
また、東の王様もいつまでも西の国との
厳重に守られた馬車の旅を経て、西の国の王女様は東の王の城へと到着しました。婚約した間柄ではありますが、すぐに婚姻が執り行われるわけではありません。両国の
少なくともそれまでの期間、王様は王女様と交流をはかろうとします。打算ではなく、敵国と呼ぶにも等しい地へたった一人連れて来られた王女様の身を慮っての心情でした。
王様は、王女様のためにあてがわれた貴賓室へと供も連れずに訪れ、うやうやしく挨拶します。ですが、王女様はうつむいたまま通り
弱り果てた王様は、王女様がじっと目を落としていた手の中にある、青い宝石のはめ込まれたペンダントに気がつきます。
「そのペンダントはもしや、王家に代々伝わる、持つ者の運命を変えるという伝説の秘宝……」
「……はい」
そこで王女様は、顔を傾けて王様の方を見やります。
「常日頃は父が身につけていたのですが、此度の婚約にあたって、私に幸運と安寧を、と」
「手渡された、というわけですか。逸話自体が真実であるかは定かではありませんが、あなたの父君はとても愛情深い方のようだ……」
王様は屈託なく微笑みかけますが、王女様の瞳には虚ろな影がありました。
「私の父は、数年前病にてこの世を去っています。今玉座に座り、ペンダントをくださったのは父の実弟であって、私はその養子に過ぎません……」
「……失言をしたようだ。もちろんその事は存じていましたが、無神経な事を」
いえ、と王女様は白く美しい髪を弱々しく振りますが、王様は目を逸らさずに続けます。
「ただ、私はあなたをもののように扱う気も、人質として利用する気も毛頭ない。両国の平和のため、人々の平穏のため、この婚約を受け入れた。私からは何も与える事はできないし、ひどく窮屈な思いをさせてしまうでしょうが……どうかそれだけは信じて欲しい」
向かい合うと、王女様ははじめ視線を逃がそうとして――けれど、迷うように、不安そうな儚い眼差しで王様を見返して、わずかに顎を上下させました。
「……はい」
それからというもの、王様は暇を見ては王女様の元へ出向き、誠実に接しました。足りないものはないか、怖がられていないか、細心の注意を払って王様は何度も会いに行き、王女様との相互理解に努めたのです。
自分の愛読書を薦めたり、年の近い侍女を紹介して友人を作ったり。中庭を散歩して外の空気と、職人達の手で工夫の凝らされた花壇や生け垣、池に果樹園といった庭園を楽しんだりもしました。
いつも物憂げな顔つきでペンダントを見つめていた王女様も献身的な王様の姿に徐々に心を開き、ふとした時に笑ったり、何気ない話で時間を潰せるようになりました。
慣れて来たと見るや、王様は彼女を城の外へ連れ出し、城下町を一緒にデート。たわいもなく談笑しながら往路で旅芸人のショーを観覧し、服屋を次々回って両腕一杯の服を買い、お腹が空いたら目についた料理亭で食事を楽しみ。
街の人達からも二人の仲むつまじさにからかったり祝福したり評判も至極良好で、彼らにとっても戸惑いとともに押しつけられたはずの婚約は、いつしか当然のものとして受け入れられるようになりました。
そんな折り、いよいよ正式な結婚式が近づいて来ます。王様は自分の部屋に王女様を呼び出すと、改まって告げました。
「いきなりですまないが……私は君に、謝らねばならない事がある」
「……その割には、すでに謝っておられるように見えますが」
「そ、そうか。――まあこれはこれとして、だ。突然君の部屋へ押しかけるわけにはいかないだろう」
「ふふ……私としては、それでも一向に構わないのですけれど」
「真面目な話なのだ、あまり茶化されては困る」
くすくす、と王女様は口元に手を当てて笑います。最近は本当に、よく笑ってくれるようになりました。王様も少しばかり頬を緩めてから、真剣に引き締めて。
「分かっているとは思うが、我々の結婚式の日は間近に迫っている。その事について、君には伝えておかねばならないのだ」
「なんでしょう……?」
「……私は当初、この結婚――
「……はい」
「だからその慰めのつもりで、色々と便宜を図らせてもらった……しかしそれは君にとっては身勝手な、ふざけた話だったろう。私はそれだけの、権利を踏みつける真似をした。そしてこれからも、その人生そのものを台無しにしようとしている……何様のつもりだ、と私を罵ってもいい。だが一つのけじめとして、私は君から……許しを得なければならないのだ」
一気に吐き出すように言って、王様は深く頭を垂れました。その罪人のようでもある、王とは思えぬ悄然とした格好を見て、王女様は沈黙し――目を伏せて、一言。
「謝るべきは、そこではないでしょう」
「なに……?」
「何を仰るかと思ったら、全然期待外れです。私の聞きたいお話では、ありません」
「な、なんだと……? 一体、何が気に入らないのだ。私にできる事なら何だってする。さすがに命をくれとの願いは、かなえられそうにないが……」
「……私が今、もっとも望む事は一つだけです。……それはあなたの口からしか、聞けない事ですわ」
王女様の澄んだ眼に見据えられて、王様ははっと息を呑み、顔を赤らめました。そうして、ごほんと咳払いし。
「……この期に及んでもこの失態。ゆえに、こんな不器用な私からは気の利いたセリフは言えそうにないが……それでもいいなら、伝えさせて欲しい。――君を愛している。結婚してくれ」
王女様は王様も初めて見る、満面の笑顔で応じました。まるでこの日のために取っておいたような美しさで、王様もかなわないな、という苦笑いで、そっと王女様を抱きしめて。
結婚式の日がやって来ました。国中から貴族、王族、将軍様、領主様、果ては友好関係にある他国の外交官や王様まで足を運び、口々に二人を讃え、高級な料理やワインを楽しみ笑い合います。
王女様の雪のように白い髪を引き立てる清楚なドレス姿は、見る者の目を離しません。王様と王女様の登場にテーブル席の貴族達、各国の要人達からは惜しみない拍手と喝采が送られ、幸せの絶頂にあるようでした。
永遠の祝福を与える神父様の到着まで、もう少し。二人はそれまで、皆との談笑に花を咲かせながら、その時を待っていました。
しかし、王女様の表情が優れません。登場した時――いえ、もっと前から思い詰めたみたいに、ぐっとあの、青いペンダントを握りしめているのです。話しかけられてもうわの空で、時が経てば経つほどに、病人かと見まがう蒼白な顔色になっていきました。
「大丈夫か? 具合が悪いのなら、一度控え室に……」
「いえ……私なら平気です。……ああ、でも……」
王様の目を見られないかのように、王女様はますますうなだれてしまいます。これではせっかくの式典も華がなくなってしまうでしょう。王様はなんとか元気づけてあげたいと考え、先日、西の国から受け取った名酒の事を思い出しました。
かの国の国王は今回の式に出席はしていないのですが、恐らくせめてものと気持ちと、滅多に手に入らない百年ものと、いくらかの宝石を贈って寄越して来たのです。
王様が家臣にそれを持って来るように頼み、ほどなくしてテーブルにお酒と、二人分のグラスが用意されました。すると王女様がふらりと顔を上げ、王様に言います。
「まあ、これは美味しそうなお酒。これはぜひ、新婦である私に注がせて下さいな」
「ああ……それは嬉しいが。無理はしなくていいぞ」
「ぜひ、私に注がせて下さいな」
王女様は話を聞いているのかいないのか、夢うつつのような目つきで手を伸ばし、それぞれのグラスへお酒を注ぎます。それからその一本を、にこやかに王様へ差し出しました。
「この結婚が両国の架け橋となるよう祈って、どうぞお受け取り下さい」
「ありがとう。ほら、皆が見ているぞ。ここは一つ、乾杯といこうじゃないか」
王女様も自分の分の杯を手に、からんと二人は乾杯します。そして口元へ持っていき、喉へと流し込みました。
瞬間。
「――駄目……!」
突如としてグラスを取り落とした王女様が、体当たりするように王様へ掴みかかり、飲みかけのグラスを平手で打って落とします。
二つのグラスがかちゃんと床で割れ、それまで
王様は椅子の上でよろめきましたが、目の前で倒れ込む王女様を目にして、慌ててその身体を抱きかかえます。
異様に身体が熱くて、なのに髪をかき上げた細面は、蒼白を通り越して色を失っていました。口元から一筋の血液が垂れているのを見つけて、すわ病気か、と王様は血相を変えましたが、ただちに違うと思い知らされました。
「……ご、ほっ」
王女様の頬に赤いものが降りかかりました。血です。誰の。自分の、と片手で唇を触り、そのぬめりと酸味で王様は理解しました。
あの酒。毒。二人とも。
「……ああ、あなた」
弱り切った、力のない声音で王女様が王様の名を呼びました。王様の頭からはそれまでの疑問が吹き飛び、王女様をかき抱きます。そんな事で身体を蝕む毒から守れるはずがないのに、そうせずにはいられませんでした。みるみる意識が薄れてきて、されども王女様を映す視界だけは鮮明で。
「大丈夫か、大丈夫かっ! すぐに医者を連れてくる、それまで何とか――!」
「ごめん……なさい」
かすかに震えていた王女様の腕が、ぱたりと落ちました。あまりにもあっけなくまぶたは閉じられ、一切の身動きが感じられません。全身の熱が凍てついていくようでした。王様は呆然と動きを止めて、そして、王女様の手から取り落とされた一つの物品に気がつきます。
「ペン……ダント?」
ペンダントの青い宝石。それが二つに割れ、中からとろりと液体がしみ出ていました。間違いありません。毒はこの液体です。
では、王女様はずっと待っていたというのでしょうか。結婚式というこの世で一番素晴らしい日に、王様を地獄へ突き落とすために、毒をいつ盛るべきか、そう考えて――。
「嘘だ……嘘だ嘘だ、嘘だ……ッ!」
血を吐きながら、王様は髪を振り乱して叫びました。
「なぜ! なぜ君なんだ! 私が憎いのなら、死んで欲しいのなら、死んでやったものを! なぜこんな残酷な……ああ! あああああああ!」
どちらにしても、もう戻りません。戻らないと、体温をなくしていく王女様を抱いていて、悟ってしまいました。真実も分かりません。何を話す事も、愛を囁く事も、何もできません。
その場で王様は
私の前で男性は口を閉ざし、どこともない虚空へ視線を泳がせています。その沈黙からようやく、全てが語り終えられたのだと理解した私は、ふと自分の頬を伝う冷たいものに気づき、指を這わせました。
「あれ……私……」
涙です。いつの間にか一筋、目じりから顎の下から落ちていきました。確かに心に響く悲劇の物語ではありましたが、まさか泣いてしまうほど感情移入していたとは。驚きとともに、心の奥底で何かが、声もなくむせぶ感覚がありました。
でも同時に、凝り固まっていた長年の疑問が優しく氷解されるような不思議と爽やかな気持ちにもなれ、どうしてだろうと思考するよりも先にぽつりと言葉が口をついて出ます。
「王女様は……幸せだったのでしょうか」
「……それは……分からない」
「二人にとって、共に過ごした日々だけは真実、幸せだった……そうであって欲しいと、なぜだか思います。――変ですね、お話の中の事なのに」
それでも、きっと、と、強く願わずにはいられませんでした。男性が腰を上げ、机に立てかけていた杖を掴みます。
「時間を取らせたな……話はこれで終わりだ。不愉快にさせてしまったなら済まない」
「そんな事ないです……とても悲しいけど、素敵なお話だったと思います。バッドエンドですけど、本にしたら売れるかも、なんて」
あはは、と重い空気を変えようと笑ってみますが、男性はずっと無表情で、おぼつかない足取りながらも扉の方へきびすを返します。
「約束を果たせた……これで少し、肩の荷が下りた気がする。私の罪は、こんなもので晴れはしないが……」
ドアが開き、外の光が縦に漏れます。戸口にはお迎えか護衛と思われる、二人の武装した兵士さんが待っていました。
そこで名も知らぬ男性は、一度だけ振り返り。
「君は――私のような
ドアが閉まり、足音が遠ざかっていき、静寂が図書館に戻ってきました。
名乗りもしなかった男性は日記帳のように正体が不明で、その日記帳も関わらなかったのに、物語みたいな不思議な一時でした。
それに……最後の言葉。あれは紛れもない、警告です。でも、何のために。心の中がざわざわします。
「なにか……おかしいな。大切な事を……見落としてる……ような」
日記帳を見つけてから以降、いろんな事がありました。大変で辛い時もありましたけど、考えようによっては楽しくて、図書館にいては味わえない体験ばかりで。
この日常がいつまでも続けばいい――そう思えるのに、それももう終わる。
わけもなくそんな寂しさめいたものが湧き上がって来て、身体を抱えるように身を縮めていました。
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