六話 三本尻尾のミツビ様

――王国歴336年。5月22日。曇り。

最近、奇妙な感覚に襲われる事があります。何者かに日記の内容を見られているような、落ち着かない気分になるのです。

 こうして日記を書いている時も、近くて遠い誰か――まるで私でない私、もしくはもう一人の私とでも言うのでしょうか、別々の時間で内側と外側から一緒に日記を眺めているような。

でも、そんなはずはないです。日記帳はいつも机の引き出しにしまい込んで、ちゃんと鍵もかけているのに。私以外の誰かが覗いているなんて、そんな事はあるわけないんです。 おかしな事はそれだけではないです。うつらうつらしたり、眠っていたりと、ぼんやりしている時に限って、意識の中に人の影が見えるのです。

 そこは奇怪に曲がりくねった無数の文字とあぶくのようなもやがかかった白い空間で、現れる人影はいつも決まって二人。姿や顔は判然としませんが、多分男の人と女の人のようでした。

 私は……何度も何度もその二人を見て、なんだかずっと以前から知っていた人達のような気がしてきました。デジャヴというものなのでしょうか、顔も知らないのに、言葉を交わした記憶すらどこからか湧いてくるのです。

 どこかで出会ったのだろうかと、必死に思い出そうとして……女の人の名前が一瞬だけ脳裏をよぎりました。

 なにぶん夢にたゆとうような出来事なので、その大半は忘れてしまいましたが、最初の一文字だけは……確か、ハ……。

 ううん、気のせいです。仕事が多忙で神経が過敏になっているだけで何もかも気のせいでしょう。子供でもないのにこんな夢見がちな事まで書いて、ばかみたいに思えてきました。日記のネタを考えるのだって、もっとましな内容を書けたはずなのに。私ったら。

 とにかく、こうして書いているだけで滅入っていたものが晴れて来ました。あの変な夢も感覚も、そのうち消えるでしょう。明日も早いので、今日はこれくらいにします。次からはもっと本の事について書かなきゃ、せっかくの日記がもったいないです。




 誰かに肩を揺さぶられている気がして、私は重いまぶたをこじ開けました。


「お、やっと目を覚ましたか! ったく、手間かけさせやがって」


 目の前に、狐耳を生やした女の子が浮いています。私はぽけーっとその姿を見つめ、手を伸ばしながら吐息をつきながら一言。


「あれえ、狐さんがいます……」

「何寝ぼけてんだよ、さっさと起きろ、馬鹿!」


 女の子に手をがぶりと噛みつかれ、私は悲鳴を上げて跳ね起きました。


「い、いたっ。痛いです、ミツビさん……!」

「うるせー。なんならここで永遠に眠っていてもいいんだぞ」


 ひどいです、悪気はなかったのに容赦なさすぎです。そんな荒療治のせいかやっと脳がはっきりして来た私は、目元をこすりながらあたりを見回しました。


 砂色の岩や崖があり、少し先には生い茂る木立や勾配が見えます。私は屋外、それもどこか山中にいるようでした。

見上げれば雲一つない晴天で日差しが降り注ぎ、とても暑いです。道のど真ん中でへたり込んでいるだけでも体力を奪われ、額には汗がしみ出していました。


「ここは……図書館、じゃないですよね……?」

「見りゃ分かるだろ」


 素っ気ないミツビさんの返答に、私は頭を抱えたくなりました。

 またみたいです。あの日記帳が関わっているのはほぼ間違いないとして、私はどこか見知らぬ場所へ飛ばされてしまったのです。それもこんな山の中で、登山にはどう見ても適さない着の身着のまま、手ぶらです。日記帳も手元にはありません。


「どうしてこんな事に……」

「知るかよ」


 冷たい言いぐさに私は憮然としてミツビさんを見やりました。ミツビさんがあんなにしつこく日記帳を読もうとしなければ、こんな目には遭わなかったのです。

 そこを責めても状況は変わりませんが、恨み言の一つも言いたいです。――と、そこでもう一つ気がつきました。


「あれ……ハヅキさん、は……いないんですか?」

「ああ。ここには私とお前だけだった。他に気配は感じない」


 ま、やろうと思えば気配ぐらいあいつは消せるけどな、とミツビさんが肩をすくめます。

 どういう事でしょう。あの日記帳を開いて迷宮に来た時はロランさんがいたのに、今はミツビさんだけです。これは偶然なのか、それとも何か法則性があるのでしょうか。


 おい、とミツビさんが思案にふける私のこめかみを小突きます。


「……お前、こうなった状況に覚えがあるみたいだな。知ってる事を教えろよ」


 脅されているみたいで釈然としませんが、黙っているわけにはいきません。私が昨日の出来事と日記帳の関連性について語ると、ミツビさんは腕組みをしてうなりました。


「あの日記帳にそんな謎があったとはな……そうと知ってたら、あんなの触りもしなかったのに」

「ミツビさんが勝手に持ち出すから、こんな事になったんじゃ……」

「お前だってちゃんと管理できてなかったろーが! 鍵もかけず放置してるなんて持ってってくれって言ってるようなもんだぞ!」


 それに関しては何も言い返せません。むしろ誰かが持っていってくれた方が、こんな風に悩む事も変な事態に巻き込まれる事もなかったのではないでしょうか。ないしは運悪く、あの日記帳をもてあました誰かが私に押しつけた格好になっただけなのかも。


 考えるほど良くない方向に思考が進む上に、こうしてミツビさんと言い争っていても余計疲れるだけです。私は視線を逸らして、ぽつりと漏らしました。


「……これからどうすれば……」

「決まってる。とっとと図書館に戻るんだよ。お前の話じゃ、迷宮の最深部とやらで日記帳を見つけたら戻って来れたんだろ? だったらこっちにも、どこかに日記帳があるかも知れない」

「それで帰れる、っていう保証はないですよね……?」

「あーうるせー! じゃあ他に手がかりなんてあるのかよ! 私は絶対戻るからな! やる気がないならここでいつまでもへたばってろってんだ」


 ぷいとそっぽを向くミツビさんに、私はまだ迷いながらも立ち上がり、呼び掛けます。


「ハヅキさんの事は、探さなくてもいいんですか……?」

「いいよ。どうせ向こうもこっちを探してるだろうし、適当にうろついてりゃそのうち落ち合えるさ。私もあいつも、そういう腐れ縁には恵まれてるからな」


 皮肉っぽく答えたミツビさんですが、その言葉にはハヅキさんへの信頼のようなものが見て取れて、私は少し頬が緩みました。


「えっと、それならどっちへ進みましょうか。この道、前後に分かれてるみたいですけど」

「あっち」


 と、ミツビさんが逡巡も見せずあっさりと前方を指差します。私が訝しくそちらへ首を傾けると、指を下ろしたミツビさんが言いました。


「お前がいつまでも起きないから、ある程度このへんを見回って来たんだよ」

「そんな、一人でなんて危ないですよ」

「お前に心配されるほど落ちぶれてねえっつの。だってここ、ドングリ山だし」


 ドングリ山、と私がおうむ返しにすると、ミツビさんは頷きます。


「どうも見覚えがあると思ってたら、間違いなかった。ドングリ山は私とハヅキの故郷の近くにある山だよ。なんでそんなところにまで飛ばされて来たかは分からんけどな」

「ミツビさんとハヅキさんの、故郷……」

「おう。だからとりあえず、私らの村――クヌギの里に行く。そこなら人がいるし、日記帳についての情報収集もできるだろうしな。事によっちゃ、ハヅキの奴もとうにそこを目指してるかもしれない……同じように飛ばされて来てたらの話だけど」


 私はうまく答えられませんでした。ここがミツビさん達の国の、しかも故郷近辺であるのももちろんですが、前回の時も、ロランさんは迷宮の事を知っていました。

 これは共通項にはならないでしょうか。その理由にはさっぱり見当がつきませんけれども。


「おい、いつまで黙りこくってんだよ。目的地も決まったし、ちゃっちゃと行くぞ」

「あ、は、はい、ミツビさん……っ」


 しかしそう言った瞬間、じろっとミツビさんに睨まれました。小さい身体なのにどうしてこう威圧感があるのでしょう、私はびくりと動きを止めます。


「……おい」

「は、はい……?」

「その、ミツビさんって呼び方、やめろよ」

「はあ……」


 生返事を寄越すしかありません。てっきりまたぞろ八つ当たり気味にすごまれるか、どんな恐ろしい要求でもされるかと身構えていただけに拍子抜けです。


「だ、ダメですか……? 他のにしないと」

「普通に呼び捨てでいいだろ。さっきから背中の辺りがくすぐったくてしょうがねえ」


 呼び捨て。でも私的に、見た目はちっちゃくて可愛いミツビさんを呼び捨てにするのは、ちょっぴり抵抗があります。

 ここは一つ、代替案を示す事にしました。


「えっと……それなら、みっちゃんとかでいいんじゃないでしょうか……」

「は? みっちゃん?」


 ミツビさんが目を剥きました。さすがにいくらなんでもこれは気安すぎるかなと、言った後で私も悟ります。

 もうダメでしょう。二秒後には機嫌を損ねたミツビさんに髪を引きちぎられるか、パンチの連打でも受けてノックアウトさせられてもおかしくありません。


 しかし、ミツビさんは少し目線を虚空に流し、考えるような素振りをして。


「みっちゃん……みっちゃん。……まあ及第点かな」


 え。ま、まさかのオーケーでしょうか、これは。意外な展開に今度は私が目を丸くしていました。


「じゃあこれからはそう言えよ。今度さん付けしたら許さないからな」

「ええ……もしかして、気に入っちゃったんですか……?」

「お前の提案だろ、なんでちょっと疑わしげなんだよ!」


 逆切れされました。これ以上の問答はやめておいた方が良さそうと私は黙ります。ミツビさん――みっちゃんの心境はこちらで察するしかないみたいでした。


 ともかく、私とみっちゃんの珍道中が始まります。炎天下といっても過言ではない熱さにあぶられ、私は早くも息を切らせながら山道を進んでいました。

 急な坂道やでこぼこした地面に足をとられ、体力がどんどん削られていきます。しかもこの場には私の身を慮ってくれるような優しい人はおらず。


「おら、何立ち止まってんだよ、さっさと歩きやがれ!」


 鬼軍曹もかくやというみっちゃんに罵声を飛ばされ、後ろから背中を蹴られ、休む事すら許されません。全身はたちどころに汗だくで筋肉が痛み、足取りがおぼつかないために何度も石やくぼみに引っかけた靴はぼろぼろです。

 それでもここでみっちゃんに見限られて置いていかれでもしたなら、人里までたどり着く事もなく行き倒れてしまうでしょう。だから私はほとんど気力だけで歩き続けました。

 悪意ある罠こそ見当たりませんが、道のりの過酷さだけなら、この前の迷宮をも上回っています。王立図書館までの坂道が可愛く感じるほどでした。


 一方のみっちゃんは涼しい顔で前の方を飛んでいます。空を飛べるというのは素晴らしいです。歩かなくていいんですから。熱さと憔悴のあまり思考能力の低下した私はそんな事を思いつつ、なんとなく浮かんだ質問を口にしました。


「クヌギの里って、どんなところなんですか?」

「大陸の方に比べたらなんにもない、ただの村だよ」


 無駄話をするなと突き放されるかと思いましたが、意外にもみっちゃんは答えてくれます。こちらには顔も振り向けてくれませんが。


「村の奴らも基本閉鎖的だし、観光には向かねえな。ただ裏山を上がっていったところには温泉とか神社とかある」

「温泉ですかぁ……本で見た事はあるんですけれど、ぜひ行ってみたいですねぇ」


 たっぷりとしたお湯で汗を流せる桃源郷がクヌギの里にあると分かり、気持ち足が速まります。すると、みっちゃんは独り言のように呟きました。


「……懐かしいな。あれから十年か、少しは変わってるかな」

「十年……? もしかして、ハヅキさんと里を出て経過した時間、とかですか?」


 まあな、とみっちゃんは私を一瞥して頷きます。


「教えておいてやるけど、ドングリ山の周りにはクヌギの里だけじゃなく、似たような集落がいくつも存在してるんだ。だからお前が一人で迷っても、運が良ければどこかで拾ってもらえるさ」

「う……その前に餓死しちゃいますよ。怖い事言わないで下さい」


 けれど他にも集落があると聞き、私は興味が湧いて来ました。


「良かったら、この地方についてもっと聞かせてくれませんか? 大陸から海を隔てた異国の事は本を読んでも中々知れないので……」

「あー……まあ暇つぶしだし、歩きながらでいいならな」


 かくいうみっちゃんはそもそも歩いていませんが、細かい事は構いません。


「……その里の長同士は互いの里を守るために協力しててさ、年に何回か集まって集会をする。議題はもっぱら作物の収穫量や災害に備えての工事、後は野盗や妖怪への対策とか」

「妖怪、ですか」

「そうそう、ハヅキも言ってたろ」


 そこでみっちゃんは空中で停止し、前方へ顎をしゃくります。


「ほら、ああいうの」

「え……?」


 私も足を止め、みっちゃんの示す方向へ視線を送りました。すると向こう側にある木々や茂み、岩山の蔭で何かが蠢くのを見て取り、身体がこわばります。


 岩山の蔭からこちらを窺うようにしていたのは、みっちゃんほどではないですが小柄な、黒ずんだ肌色を持つ小人が、数人。しかも頭部には小ぶりな角のような突起物がついていて、顔には大きな目玉が一つだけあり、口は頬まで裂けています。

 そちらの深い茂みには最初、捨てられた傘が立てかけられているのかと思ったら、突然動きだし、がさがさとあたりを往復しています。子供が遊んでいるのではありません。傘の握りにあたる部分には細い人間の足が一本つながっていて、ひとりでに飛び跳ねていたのです。

 太陽の光を通さない奥の木立の間には青白い火が複数、みっちゃんと同じように浮きながら弧を描いて不気味に動き回っています。火の中心部分には人の顔めいた穴が開いていて、私の方を見つめて笑うようにしていました。


「あ、あれ、あれは、わわわ……」

「一つ目子鬼、唐傘お化け、鬼火だな。ま、大したこたねえよ、あんな小物連中」


 そう言われても、どの妖怪もどう見てもまともな生物には思えない身体の作りばかりで、私は腰が抜けそうになるのと、這い上ってくる震えをこらえるので精一杯でした。

 けれどみっちゃんは臆すでもなく近場にいた一つ目子鬼達の方へ向かうと。


「おら、見せもんじゃねーぞ! 群れねぇと何もできねぇ雑魚どもがよ! ぶちのめされたくなけりゃあっちへ行きやがれ!」


 ぶんぶんっ、と高速で腕を振り回せば一つ目子鬼達は甲高い叫びを上げて後退し、そのまま岩山の後ろへ行ってしまいます。そのままみっちゃんは返す刀で茂みへ突っ込み。


「てめーも紛らわしいんだよ、その傘ぶち破って穴だらけにしちまうぞ!」


 なんと傘お化けの足を引っつかみ、ぐるぐるとスイングして遠くへ投げ飛ばしてしまいました。それから最後に鬼火へと向き直り。


「お前らも昼間っから出て来てんじゃねえ、鬼火は鬼火らしく墓場で冴えなくたむろってりゃいいんだ、それができねぇなら……!」


 着物の袖を上げて腕まくりをすると、ぐるぐる回しながら鬼火へと急接近。鬼火達は怯えたように炎をしぼませ、みっちゃんにしばらく追い回されてからふっと消えてしまいました。


「けっ。相変わらずしょうもねぇ奴ら。なのに数だけはいやがるし……あの野郎ちゃんと仕事してんだろうな……?」


 面白くもなさそうにみっちゃんが戻って来ます。先ほどの大立ち回りに、私は半ばあっけにとられながら話しかけました。


「す、すごいですね、みっちゃん……あんな簡単に追い払えるなんて」

「てか私も妖怪の一種だし、まあ、昔から慣れてるからな」


 ただ、とみっちゃんは少し声音を低めて。


「中には力の強い大物もいる。大体そういうのが相手だったな、私とハヅキは」

「そう……なんですか?」

「ああ。ハヅキは術者で、妖怪から里を守るのが仕事だった。今は人間相手に、流れの用心棒みたいな事やってるけどな」


 里を守る。先ほどのみっちゃんのやり方や口ぶり、ハヅキさんの醸し出す強者の風格を思い返せば、それはつまり誰にでもできるわけじゃない、重要な役目なのでしょう。

 なのに、どうしてその仕事をやめて出て来たのでしょうか。みっちゃんに問いかける事も可能でしたが、やはりそれ以上はハヅキさんのいないところで尋ねるのははばかられます。


「って、気づいたらそろそろ日が暮れるじゃねーか! おい、野宿したくないならペースを上げるぞ!」

「えー! ま、待って下さい、今だってもういっぱいいっぱいで……!」

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