第二章 五話 キツネ憑きの術者、ハヅキ



 翌日から、私は何事もなかったように仕事へ戻っていました。一日たっぷり休んで英気を養い、多少遅れがちになっていた業務をこなさなければいけません。


 机に座り、蔵書のリストを参照して落丁や乱丁がないか一ページずつ確認したり、本の汚れを丁寧に落としたり、新しく入った書籍についてアピールするための広告を作成したり。

 他にも依頼があれば写本の手伝いなどもしたりします。どれも要領よくやらなければ朝から始めても時間がいくらあっても足りず、図書館の休憩所に泊まり込んで一夜を明かした時も何度もありました。


 あらかた雑務が片付き、司書机の椅子に腰掛けた私は肩の荷が下りたようにのんびり息を吐きながら、ふとその存在を思い出してポケットから鍵を取り出しました。

 手元にある机の引き出しの鍵穴へ鍵を差し込んで回し、そっと開くと、そこには昨日見つけたあの赤い本――日記帳が収められています。


「結局一日待っても元の持ち主は現れなかったし、これ、どうしよう……」


 本を持ち上げ、表紙を眺めて呟きました。実は仕事を始める前にも、こうしてこの日記帳をぼんやり見つめています。なぜか気になるのです。

 誰かの忘れ物かも知れないのだから早く返した方がいいとか、何か事情があるのかとか、そういう客観的な話でなく、もっと内側に訴えかけるような非常に漠然とした感覚的なもので、私にもうまく説明できません。そもそも、昨日の迷宮での悪夢のような一件も、この本に関係があるのかないのか、いくら考えても腑に落ちない状況なのです。

 無意識にページへ手がかかり――その柔らかくも冷たい感触にすぐに指を引っ込めました。

 怖いです。開いた瞬間、また何か恐ろしい事態になってしまうのでは、と。


 そういえばロランさんに日記帳を開いてもらった時、中盤から後半の方のページはまだ固いままでびくともしませんでした。こうして閉じた状態で指先をその部分にかけても、石でも撫でるような感触が返るだけで開く気配はありません。この差は一体、何を意味しているのでしょうか。


「ロランさんが来たら、もう一度相談してみよう……」


 本さえ開かなければきっと何事も起きない、そんなに大事になるはずはない、とこの時の私はまだ割合楽観的で、ため息をついて日記帳を引き出しへ戻した直後の事でした。

 がちゃり、と玄関の扉が開く音がしました。


「え……あれ?」


 私は口を半開きにして、椅子から立ち上がります。誰かが入って来たのでしょうが扉は閉まったままで、来館者の姿も見えません。

 私のいる机から扉には遮蔽物がなく、ただ視線を移すだけでお客さんを確かめられる位置にあるのですが、見間違いや聞き間違いとばかりに、エントランスホールには誰の影も形もありませんでした。

 ひょっとすると、扉を開けたものの中に入る踏ん切りがつかず、やっぱりやめて出て行った、とかそんなところではないでしょうか。一人で来た小さな子供とか、老人の方にそういうのは多いです。

 確かに今いる司書は私だけで、図書館も慣れない人にとっては圧倒されるような佇まいですが、せっかくあの心臓破りの坂を越えてこんな辺鄙なところまで来て下さったのですから、わざわざ直前で引き返す事もないはずです。


「えっと、王立図書館にご用でしょうか? そこに誰か、いらっしゃる、でしょう……?」


 私の尻すぼみな声だけが図書館に反響しましたが、応答はありません。やっぱり気のせいでしょうか。なんだか一人芝居でもしているような気分で、何も見なかった事にして机へ戻りたくなりました。

 どうしましょう、と私が扉を見つめたままぽつねんと突っ立っていると、静けさに満ちていた図書館のどこからともなく、小馬鹿にするような笑い声が聞こえて来ました。途端びくっと背筋が伸びて、私はあたりを見渡します。


「え……えっ? ど、どなたですか? いたずらならやめて下さい……!」


 私の呼び掛けが聞こえているのかいないのか、笑い声は移動するかのように私の左右、上方のあちこちから響いて来て、私はすわ昨日の異常事態の続きかとすくみ上がってしまいます。誰かが図書館に入って来たのは間違いないようですが、その何者かの姿が見えないのです。


「え……わ、わわっ」


 すると私の髪が後ろから引っ張られるようにして、ふいとかぶっていた司書帽が宙へと浮き上がりました。唖然とする私の目の前で、帽子がふらふらと右へ左へ海月みたいに遊泳しています。


「な、なにこれっ、なにこれぇ……!」


 もはや平常心を保てるほどの精神的余裕はなくて、私は泡を食ったように帽子を取り戻すべく手を伸ばしました。けれど帽子は私の動きを完全に読み切っているみたいに、手が伸びた方向と反対へくいっ、また逆方向へくいっとかわし、まったく届きません。

 ただでさえどんくさい私の身体能力で、その意思でも持ったような帽子を捉える事は不可能でした。


「へへっ……まーぬーけー」

「え……えぇっ? や、やっぱり、誰かいるの……?」


 依然として浮いたままの帽子からだしぬけに、幼い子供が嘲るような声が発せられて、水中で溺れるように手足をばたつかせていた私は硬直しました。


 と、困惑も頂点へ達した時です。三度目になるでしょうか、図書館の扉が開いたのは。


「――そこまでにしておけ、ミツビ」


 振り向いた私が目にしたのは、今度はちゃんと姿のある来館者の方でした。ですがロランさんではなく、立っていたのは一人の女の方だったのです。

 背は私よりも頭一つ分高く、その明るい小麦色の髪から覗く凪のように澄んだ瞳と、中性的で整った細面は、一応は女の私が見ても見惚れるような美貌でした。

 服装は袖の広い異国の衣と、ゆったりした動きやすそうな袴を履いています。腰にはフォレスではあまり見られない、鍔のない反りかえった剣を差していました。


「いいだろ、これくらい? ちょっとしたいたずら心ってやつだよ」


 と、女性を見つめる私の頭にぽてんと帽子が落ちて、視界の端を何かが浮遊していきます。それは女性の傍らへ行くと、腰に両手を当てて笑いながらこっちを見やります。

 小さな女の子でした。子供の背丈という意味でなく、サイズが本当に小さいのです。

 私の手のひらくらいの大きさの、白と赤を基調とした袖の長い清楚な感じのする衣装を着ている、淡い赤黄色の長い髪を持った少女。

 それだけでも驚きなのに、その子の頭から狐のような耳が二つ伸びていて、腰の後ろには尻尾が生えていました。それも、三本も。ぱたぱた動く耳も尻尾も血が通っているようで、アクセサリーにしては精巧に思えます。


「連れが迷惑をかけたようだ、済まない」


 落ち着いた口調で、女性が話しかけてきます。少女の姿に気を取られていた私ははっとして、居住まいを正しました。


「あ、あの……いえ、その」

「私はハヅキ。そしてこれはミツビ。私の相棒だ。よろしく頼む」

「おい、これ呼ばわりはないだろ、このミツビ様によう!」


 余裕のある物腰の女性――ハヅキさんとは裏腹に、ミツビと紹介された少女の方は柄の悪い調子でハヅキさんの髪を引っ張りますが、まるで相手にされていません。


「ここには世界各地より集まった書物の数々があると聞いた。私もある本を探してやって来たのだが、よければ案内してくれないか?」

「あ……は、はい……! 私、ジェシカです! ここの司書です!」


 そうか、とハヅキさんは慌てる私へ好もしげな笑みを投げかけます。

 いつものように顔が紅潮して来ました。そうです。私はこの図書館の司書なのに、ハヅキさんが綺麗な人とはいえどうしてこうすぐペースを持っていかれちゃうというか、平常心を乱してしまうというか。


「おいおい、こいつ大丈夫か? さっきもこっそり見てたが、とっても役に立つとは思えないぜー?」

「失礼だろう、ミツビ。少し口を慎め」


 やーだよ、とミツビさんはぷいとそっぽを向きます。という事はやっぱり、最初に扉から入ってきて私の帽子を勝手に取り上げたり、笑ったりからかったりしていたのはこの子だったのです。私は半目になってミツビさんを見つめました。


「……おい、なんだよ。文句でもあるのかこのヤロー。喧嘩なら相手になっぞ?」


 ガンをつけられているのかと思ったのか、ミツビさんも中空で身を乗り出して睨み返してきます。私はすくみあがって、考えていた事をそのまま口に出してしまいました。


「あ、いえ、あの……ミツビさんって、一体何なんだろうなって」

「――何だとはなんだ!」


 びしっ、とミツビさんが私を指差し、思わずたじろいでしまいます。


「いいか良く聞け。私は鬼も悪魔も泣き出す大妖、三本尻尾のミツビ様だぞ! お前なんかに何なんだなんて言われる筋合いはないぜ、分かったかこのどんくさ眼鏡!」

「ど、どんくさ眼鏡……」


 私は固まってしまいました。無頓着な尋ね方だったかもしれませんが、それこそここまで暴言を吐かれるいわれはないはずです。

 話せば話すほどこのミツビさんにはひどい事を言われそうな気がして、私は助けを求めるようにハヅキさんへ目線を逃がします。


「済まないな。この通り少々言葉も気も荒いが、悪い奴ではないんだ。気にしないでやってくれ」


 はあ、と私が頷くと、ハヅキさんはなおも罵倒の嵐を吹きかけようとするミツビさんの口を後ろから指で塞ぎ。


「ミツビは私の使役する管狐だ。さっきから君が見ているこの耳も尻尾も本物。人ではなくあやかしのたぐいだよ」

「あやかし……ですか?」

「私の暮らしていた国に生息する一風変わった生き物、と取ってくれればいい。元々は狐の姿をしていたが、力を蓄える事で人に化ける事もできる。私が術者として活動するにあたって、なくてはならないパートナーなんだ」


 術者、と私が反芻すると、(呼吸困難からか)やっと大人しくなったミツビさんから手を離し、自分の故郷の戦士のような職業だ、とハヅキさんが首肯します。


「じゃあ、ハヅキさんはフォレスからずっと離れたところから来たんですね」

「ゆえあって、ね。大陸まで船で渡って、思えばずいぶん遠くまで来たものだ。……この図書館に来たのも、修行を積み見聞を広める一環だよ。何も剣を振るうだけが修練ではない。時には勉学に励み、造詣を深めるのも技を究めるための近道というわけだね」


 そこまで話されれば、私にもハヅキさんが何の本を求めて図書館へ来たのか、察せられる気がします。


「だったら、古今東西あらゆる武術書があるコーナーに案内させていただきますね。ハヅキさんにもきっと気に入っていただけると思います」

「それは楽しみだ。ぜひ見せて欲しい」

「へっ。つまらん本なら片っ端から破いてやるぜ」


 いつの間に復活したのか、しゅっしゅっとシャドーボクシングを始めるミツビさんをハヅキさんが流し目で一瞥して。


「……なら、破いた分その尻尾をちぎってやるとしよう」

「ば、おま、やめろよ! 三本しかないから三冊しか破れないだろうが!」

「そっちですかっ?」


 反射的にツッコむと、ハヅキさんがくすりと口角を上げました。私もつられて吹き出します。


「面白い人……人? ですよね、ミツビさんって」

「だろう? 長い二人旅だが、これで中々飽きが来ないんだ」

「くそっ、このままじゃ大妖怪である私の威厳が……」


 ミツビさんを中心に賑やかに三階まで上がり、私は本棚の通路の一つへハヅキさんを導きます。


「ほう……これは凄いな」


 並ぶ書物を見るなり、ハヅキさんが眉を上げて本を手にとっていきます。


「兵法者ラシアンの指南書、隻腕の勇者ガシュインの解体新書、蛮剣王ゼイル・ファリアの自叙伝……いずれも戦士として風雲を巻き起こし一時代を築いた名だたる強者じゃないか。伝説と謳われるにふさわしい人物の書籍がこんなにも。まるで宝の山だな」


 そう言われて、私は少し得意になりました。

 戦術書の内容はさっぱりですが偉人達の本を手に入れるのは苦労も苦労、長い努力の末にそろえられたものです。こうしてお客さんから褒めていただくと、辛さや頑張った甲斐が認められたようで嬉しいです。


「ハヅキさんこそ、それだけ多くの高名な戦士の事を知っているなんて、とても教養があるんですね」

「私なんてまだまださ。家族に一人、マニアとも呼べる奴がいて、そいつが毎度しつこく話すものだから耳にタコができるほど覚えてしまっただけだよ」


 私に応じながらも、その双眸は開いた本のページを追っているようです。ただ書物を読むだけの立ち姿なのに、それだけでも悠然とした美しい佇まいでした。


「やれやれ、私は興味ないから他のとこ見てくる。案内はいらねーぞ」


 そのうち退屈になったのか、ミツビさんはふらふらと下の階層へ飛んでいってしまいます。

 ……先ほどのいたずらの件もあり、気ままな彼女から目を離してはいけないと分かっていたはずなのに、けれども私は一枚の絵のように端麗なハヅキさんに見とれ、すっかり念頭から失っていたのです。


「……おい! おーい!」


 静かな館内にページだけがめくられる、私の理想とする空間。でもそれはいくらもたたず、ミツビさんの大声によってあえなく破られました。私がバルコニーまで行くと、吹き抜けからミツビさんが一冊の本を抱えて上がって来ます。


「おもしろそーな本を見つけたぞ! これ見てみろよ!」


 何だろう、と目をすがめ――心臓が跳ね上がりました。なんとミツビさんが持っているそれは、あの日記帳ではありませんか。


「あ、あの、それ、どうして……!」


 言いかけて、私はまたもはっとします。そうでした。少し前まで、私は日記帳を眺めていて、引き出しには閉まったものの鍵をかけ忘れています。ミツビさんにきっとそれを見られていて、好奇心半分で持って来てしまったのでしょう。


「お前の日記だろ、これ? 名前あるもんな。へへへ、他人の日記ほど読んでみて愉快なもんはないぜ、ここで朗読してやる!」


 やっぱりです。私はミツビさんを一人にしてしまった事を激しく後悔していました。ちょっと考えればこうなる事は予想できたはずなのに!


「返して! ダメなんです、それは! 返してくださーい!」

「だったら空でも飛んで取りに来いよ! ほらほら、早く!」


 けらけらと笑うミツビさんですが、私を弄ぶためでしょう、わざわざ三階の通路まで寄って来ます。とにかく一刻も早く日記帳を取り返さなければいけません。私は無理を承知でミツビさんへ飛びかかりました。


「あらよっと、遅い遅い!」

「うぐぐ、早い……!」


 今回は全力で追いかけているのに、ミツビさんはあっちこっちへ妖精みたいに軽やかに飛び回り、私はというとけつまずいて転んだり、本棚にぶつかって本をどさどさ落下させてしまったりと、ダメダメな事この上ないです。

 そもそも、図書館では走ったり大声を出したりしてはいけないのです。規則からして二人ともアウトでした。


「お願いです、その日記帳は読んではいけないんですぅ! 絶対ですよ、絶対読んじゃダメですよっ……?」

「それは振りと見たぜ! お望み通り、まずは最初のページから読んで――」


 ミツビさんのセリフが途切れ、ぎゃんと子犬みたいな悲鳴が響きました。いつの間にやら背後に回っていたハヅキさんが、ミツビさんのうなじへ手刀をかましていたのです。


「分からん奴だ……図書館では静かにしろと教わらなかったのか、お前は」


 叩き落とされた蚊の如く舞い落ちるミツビさんの手元から日記帳をすかさずキャッチ。良かったです。ハヅキさんのおかげで無事に取り戻せました。でも私もなんだかんだ騒いでしまったので、一緒に怒られたみたいでしゅんとしてしまいます。


「重ね重ね悪かったね、ジェシー。こいつは後で私が仕置きしておくから」

「あ、あはは……いいんです、取り戻せたなら一安心ですから……」


 何気にハヅキさんからも愛称で呼ばれて、ちょっと浮かれてしまいました。本が戻ったのもあり、油断していたのでしょう。ハヅキさんの手から受け取ろうと私も歩み寄った矢先の事です。


「――なーんてな! 隙ありぃ!」

「へ……きゃわっ!」


 気絶したと思われていたミツビさんが急激に飛び上がり、日記帳を握った私の手首へ頭突きを仕掛けて来ました。

 小さな身体から繰り出される威力とは思えない衝撃で腕が打ち上げられ、その拍子に日記帳が宙ヘ舞ってしまい――覚えのあるあの突風が、私達と日記帳をさらに激しく吹きあおりました。


「うお、なんだこの風!」

「ジェシー、私に掴まれ、バルコニーから落ちるぞ!」


 よろめく私をハヅキさんが掴まえ、腕の中へ抱え込みます。その近くでは仰天したミツビさんが周りを見ていますが――何をする間もなく日記帳から離れた大量のページが、私達を巻き込んでいきます。


「これは……なんだ? 奇妙な力を感じるが」

「分析してる場合かよ、早く脱出を――」


 言いかけたミツビさんの気配が突然消え、私の側にいてくれたハヅキさんの姿も気がつけばなくなっています。私はたった一人台風の目に閉ざされ、過ぎ去るのをひたすら祈るしかありませんでした。


(ああ……もう、ダメ……)


 またあの恐ろしい迷宮に迷い込んでしまうのではと、そんな恐怖が湧き上がり、意識が遠のいていきます。

 心の中でロランさんに助けを求めましたが、それが届く様子もなく、視野は紙の白から、闇の黒へと沈み込んでいきました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る