三話 虚ろなる迷宮 下

「ここは……倉庫みたいだな。罠もないし、休憩できそうだ」


 ロランさんは私から離れて、部屋の中にある燭台の明かりを頼りに内部を確認し、息をつきます。私もおずおずと、足を踏み入れました。

 小部屋には蜘蛛の巣が張り巡らされ、壁にはヒビが入り、壊れた樽や欠けた木箱、ぼろぼろになった布などが無造作に散乱していましたが、ロランさんがそれらを押しのけ、床に一人分は座れそうなスペースを作ってくれました。そのスペースに、私は壁へもたれかかり崩れ落ちるように座り込みます。


「……ほんと私、助けられてばかりですよね。何の役にも立てていない、お荷物です……」


 ああ、また後ろ向きな事を言ってしまっています。弱音を吐いたところでどうなるわけでもないのに、これではロランさんに甘えているようでほとほと自分が嫌になります。


「そんな事ないさ。ジェシーはよく頑張ってる。充分根性ある方だぜ」

「でも……助けだって来てくれませんし、本当に出られるかどうか。こんな事なら、ロランさんだけでも先に行って、私なんか置いていった方が」


 思考がネガティヴな方へシフトして思いつくままに並べ立てる私を、ロランさんがじっと見下ろしました。


「――なあ、ジェシー。ラック・ハットって知ってるか」

「え……?」


 私はぽかんとしました。ラック・ハット。とても有名な名前です。女性だてらに世界中の不思議を解き明かしたと言われ、冒険家達には勇者の如く慕われ敬意を払われ、一国の国王にさえ一目置かれるほどの名声を得たという、伝説的な冒険家の事でしょう。

 彼女の執筆した冒険譚の数々は限りなくフィクションに近いノンフィクションとして著名で、幾度も書き写されて大陸各地に広まり、もちろん王立図書館にも保存、保管してあるほどです。

 凄い人なのは知っているのですが、どうしてその冒険家の名前を。怪訝そうに見返す私の視線を受けて、ロランさんはちょっとばかり照れくさそうに鼻の下を指でこすりました。


「実はさ……そのラック・ハットって、俺のばあちゃんなんだよね」

「え……ええっ! 本当ですか!?」

「うん、まあ。証明できるような品は持ってないけど、俺もばあちゃんにあこがれて、冒険家になったクチなんだ。……五十年前に作り上げられたラック・ハットの伝説。今の冒険家達はそんな風にばあちゃんの後を追いかけて躍起になってる」


 驚きの告白に、私は疲れも忘れて目を白黒させます。という事はロランさんは、あのラック・ハットの血を引いているわけで、それだけでももうびっくりでした。冒険家と出会えた事だけでも大変なのに、絵空事にも近かった本の中の人物が飛び出してきたみたいな衝撃を受けています。


「ラック・ハット……その人の著書も、私全巻持ってます。読んでいるとこう、私自身もラックさんと一緒に冒険をしているみたいで、嫌な事を忘れて心が躍って……今も愛読書の一つなんですよ」

「そう言われるとまたこっぱずかしいな。あの人が聞いたら喜びそうだけど。……けど、そのばあちゃんも数年前に死んじまった。あんだけ不死身に思えたのに、逝く時はほんとぽっくりなんだな、って思ったよ」

「そう……なんですか」


 新しい島や大陸の発見、戦争や災害によって滅んだ国から発掘した貴重な遺物、辺境に棲まう危険な生物の対処と、彼女がやり遂げた偉業は数知れず、ここ数十年音沙汰がなくなっても、いつか必ず戻って来る――他の冒険家の方が手がけた書物には必ずそのように記されていましたが、ラックさんはすでにこの世の人ではなかったのです。伝説は本当に、遠い思い出になってしまっていました。


「けどさ……俺はばあちゃんが見た景色を見たくて、足跡を辿りたくて……いつか追い越したい。簡単な話じゃないのは分かってるけど、その一心で家を出たんだ。出た後で、身一つだったのはさすがに後悔したけどな。まず生きていくのすらしんどかったし」


 私では到底できないような無茶な事を語っているのに、ロランさんの瞳は、どこまでも清々しく輝いてします。偉大な祖母を持っているがゆえの苦悩やプレッシャー、なんていうのとは無縁そうで、むしろ覇気や活力を感じるほどです。在りし日のラックさんも、こんな目をしていたのでしょうか。もしそうなら、いずれ彼女を追い越そうと奮起する冒険家によって、新たな伝説が生まれ来るのかも知れません。


「……それでさ。俺が一番心に残ってる、ばあちゃんの言葉があるんだ」

「言葉……ですか?」

「どんな困難に陥ろうとも、自分の夢だけは見失っちゃいけない。夢を、進むべき道さえ見えていれば、何度だって力が湧いてくるから――そう言われて、なんていうかぐってきてさ。心に火が付いたっていうか、冒険家になろうと決意したのはその時なんだよな」


 困難であろうと、夢を見失うな――聞きようによっては陳腐ですらあるそんなセリフを、私はぽかんとして聞いていました。


「あれだけいろんな事をやり遂げた人がさ、生きるための基本みたいな事言うもんだから、俺にもできるんじゃないか、って。夢さえ胸に留めていれば、いつかきっと。だから俺が最初に得られた宝物ってのは、ばあちゃんの言葉なんだって、今は思えるんだ」

「そう……そうかもしれない、ですね。……冒険に必要なのは、夢……」

「まあやばい目に遭っても、それで絶対助かるって確約してるわけじゃないのがあの人らしい無責任さっていうか」


 はは、とロランさんが軽やかに笑って、私に手を差し伸べました。


「だから、まずは立ち上がる意思を持ってくれないか。ジェシーにだって夢はあるだろ。司書をやるっていう夢が。俺だってここで死ぬわけにはいかない……二人で立ち向かおうぜ。夢が二人分合わされば意思も力も二倍ってもんだ」


 私はいつしか、あれだけ感じていた恐怖がぬぐい去られているのに気づきました。いえ、これから先の事を思えば暗澹たるものがにじんでくるのですが、少なくとも今この瞬間だけは、伝説の冒険家ラック・ハットの魂が宿ったみたいに、それがごく当然のように、腕を伸ばしてロランさんの手に掴まっていたのです。


「もう一踏ん張りだ。行こうぜ」

「……はい!」


 私は強く頷きました。ロランさんは不思議な人です。二度と立ち上がりたくないとすら考えていた私に、こんな風に勇気を与えられるのですから。もしかしたら本当に、私は生きて帰れるのかも知れません――ううん、絶対帰りたいです。あの図書館で忙しくも、ささやかに楽しい毎日を過ごすのが、私の夢なのですから。


 二人揃って、小部屋から出ました。肉体的な疲労は抜けきっていませんが、私は文句一つ言いません。身体の奥に暖かいものがあって、これが消えない内に先へ進みたかったのです。

 ある程度ペースは戻り、下へ下へと潜っていく私達でしたが、その快進撃も長くは続きませんでした。罠に進行を阻まれるのはもちろんでしたが、より奥へ行くにつれて、新たな脅威が待ち受けていたのです。


「……止まれ」


 足を止めたロランさんが左腕を伸ばして背後の私を制し、右手に握ったたいまつを前方へかざします。


「ど、どうかしましたか……?」

「何かいる」


 え、と私もロランさんのかざす明かりを頼りに、目を凝らします。このたいまつは先ほど休息を取った小部屋で手頃な棒に布を巻き付け、燭台の火を灯して急造したもので、私達の視界を広げる光源の役割を果たしていました。

 罠や通路の発見に役立ってくれていたたいまつですが、ロランさんに言われても闇の中に何がいるのか認められず、かえって薄気味の悪さを醸し出してしまっています。


「足音が聞こえるんだ。耳を澄ませてみろ」


 ロランさんが腕を下ろすのと同時に私は口を閉ざし、荒くなる呼吸音をなだめながら静寂に耳を傾けます。私達の足音以外には一切の沈黙のみが支配していた空間に、空気を震わせるような音が入り交じり始め、そしてゆっくりとそれは大きくなっていました。


「き、聞こえます……! もしかして、私達の他に誰かいるんでしょうか……?」

「……この場合、誰か、じゃなくて、何か、だな」

「え……?」


 ロランさんの言葉の意味が分からず、首を傾げた時です。近づいてきていた足音の主が、やがて暗がりの中から現れたのでした。

 重厚な、金属音。たいまつの光を反射して鈍く光る、灰色。右手に把持した、無骨な槍。そこにいたのは、全身を重厚な鎧で固めた兵士、のようでした。

 さながら城や砦を守る出で立ちで、ようやく生きた人間に出会えたというのに、物々しい格好のせいか私の胸には警戒心がよぎるだけで、安堵感が湧く事はありませんでした。


「あ、あの……私達」


 言いかけた私を遮るように、甲冑姿の兵士は歩みを寄せて来ます。まるでこちらの存在に気づいていないかのような無遠慮な歩き方で、声は尻すぼみになってしまいました。


「無駄だ、ジェシー。こいつ――こいつらに、話は通じない」

「こいつら……?」


 見れば、正面に立つ兵士の後ろから、次々と似たような全身鎧の兵士達が姿を見せていました。剣、槍、斧といった手には得物を持ち、一人目と同じようにただまっすぐ近づいて来るのです。彼らの動きからは一切の感情が見て取れないのに、そこにははっきり統一された剣呑な意思を感じて私は一歩、後ずさりました。


「こいつらもトラップの一種だ。迷宮を守る兵士達、ってところかな。見ての通り、集団で行動して敵を追い詰める。多勢に無勢だ、逃げるしかない」

「そ、そんな……っ」


 ロランさんは混乱する私の手を引いて身を翻しました。せっかく出会えた相手は、何か得体の知れない兵士達。ロランさんが対話すら試みようとしないという事は、それだけ危険なのでしょう。なのに私は一瞬の気の緩みから立ち直り切れておらず、よたよたと危なっかしい足取りでついていくのがやっとです。


「急げジェシー! 連中、足は遅いが数が多い! のろのろしてると囲い込まれるぜ!」


 足の遅い私へ振り返り、叱咤していたロランさんの真っ正面に、あの甲冑兵士達が接近していました。鋭利な刃を持つ剣を振り上げ、ロランさんの頭へと振り下ろしています。


「ま、待って下さいロランさん、前……!」


 その警告はどう考えても遅かったのですが、直前に変わった私の顔色で気づいてくれたのか、ロランさんは私の手を一旦振りほどいた直後に身をかがめて剣をかわし、逆に強烈な蹴りを兵士の胴体へとぶち込んでいました。

 どしん、がらがら、と金属がかき鳴らす耳障りな音が反響し、兵士の一人が倒れます。その様子をこわごわと見た私は凍り付きました。ロランさんの反撃によって、防具が外れていたのです。ただ装備が外れただけなら、ここまでは驚かなかったでしょう。けれども遠くまでごろごろと転がっていった兜の下には、何もないのです。

 頭がない、腕も、足もない。鎧の中は空っぽなのに、防具と金具だけが散乱していて、ばらばら死体を連想させます。中身はどこへ行ったのでしょう。まさか、始めからこの鎧の中には肉体なんかなくて、甲冑だけが動いて、私達を襲って来たとでもいうのでしょうか。


「しっかりしろ! まだ追っ手がくるぞ!」


 血の気が引いて呆然としていた私を、ロランさんが揺さぶりました。そうです。こうしてぼんやり突っ立っている間にも、前から後ろから甲冑の兵士達が肉薄して来るのです。しかし、彼らもまたあの鎧の奥が空っぽだったりしたなら。そう考えてしまうと四肢がこわばり、冷や汗が止まらなくなりました。


 その修羅場から逃げ切れたのは、ひとえにロランさんのおかげでした。兵士達はひっきりなしに現れては追いかけて来ましたが、ロランさんは通路を縫うように逃げて、時にはたいまつを投げつけて時間を稼ぎ、道中にある罠も利用して兵士達を足止めし、そのまま階段を駆け下りて、踊り場でようやく振り切る事ができたのです。

 私はといえば膝に両手を突き、かがむようにして必死に呼吸を整えていました。いっそ座り込んでしまいたい衝動と戦いながら、あの甲冑の兵士達は何なのか、ロランさんに物問う視線を向けます。


「さっきの、人達は……一体何者なんですか?」

「分からねぇ。俺もぶっ倒した奴を一度調べてみたんだが、操り糸も、種も仕掛けも何も見つからなかった。妙な力で動いているのは確かなようだな。一応人の形をしてるくせに話は通じないし、どこまでも追っかけてくるし、罠の中でも最悪に厄介な部類だぜ」


 確かに、彼らの追跡は非常に執拗でした。どこに逃げ込んでもあの足音が聞こえてくるような気がして、私は身震いしながら上階や下階を覗き込みます。


「そんなに心配しなくても、ひとまずは大丈夫だ。走り通しで疲れたろうし、ここで休んでいこうぜ」


 その場で終わりの罠と違い人海戦術めいた手段の襲撃を受けたばかりなのに、ロランさんは自然体というか、床にあぐらをかいて小休止を取り始めます。私は神経が細いので、姑息な気はしますがいつでも逃げられるよう立ったままでいる事にしました。


「……この迷宮も、ばあちゃんの手帳を盗み見て知ったんだ」

「……そうなんですか?」


 うん、とロランさんは遠い目をして頷きます。


「手帳には、あんなところを旅した、こんなのを見つけた、みたいに冒険の途中で得た情報が記載されてて、冒険家なら喉から手が出るほどほしがるような宝の地図も同然なんだけどさ。なのにあるページにだけ、この迷宮には絶対入るな、って赤線つきであったから余計に気になっちゃってさ」

「それは……気にかかりますね」

「だろ? 他には大した事が書かれてなかったから、想像の余地はいくらでもあった。そこにはとんでもない財宝があるけど、独り占めしていたいからこんな風に警告してる、とか、そもそも過酷すぎて踏破できなかったから、他の冒険家にも警鐘を鳴らしてる、とか。……だったら、ばあちゃんでさえ恐れるような迷宮を制覇できたなら、俺も一人前になれるかも、って思って挑戦したんだ」


 ロランさんは意気揚々と語っていますが、ここまでくると私も半分呆れていました。こんなに危ない場所なのに、そんな子供みたいな思考で入ったのか、と。

 けれど、逆にそういう考え方ができる人物こそ、大物になれるのかもしれません。ロランさんがあらかじめ探索済みだったおかげで、私も無事でいられますし。


「えっと……それなら、伝説の冒険家がわざわざ印をつけるくらいですし、たとえば宝物とか、何か見つかったんですか?」


 いや、とそこでロランさんは表情を少し曇らせ、首を横に振りました。


「何も――何もなかったんだ。いざ入ってみたら、ジェシーも見てきたように罠と、盗掘者や遺跡荒らしの死体以外はもぬけの殻ってやつ。他の冒険家も何人かは入ったかもしれないけど、踏破したとか、宝物を見つけたとか、そういう話は一切なし」


 徒労ってやつ、とロランさんはおどけて自嘲します。


「どうして手帳にこの迷宮の事があったのか、なぜ入っちゃいけないのかも結局理由は分からないままだ。長い事少ない手がかりを求めてたどり着いたのに、とんだ間抜けだよな」

「それは……」


 でもさ、と地面に落とされていた視線が上を向き、独白のように続けられます。


「……冒険するって事は、要は自分が満足できるかどうかだ。俺は満足してる。どんな結果にせよ、ばあちゃんが見たものを俺も見たわけだからな。お宝がないのは残念だったけど、欲しいものはすでに手に入ってるんだよ」


 やっぱり、すごい人です、ロランさんは。何事にも前向きで、常に夢に向かって進み続けているのです。あるかどうか、たどり着けるかどうかも分からない夢があったとして、私は果たしていつまでそれを追い続けていられるでしょうか。


「……よしっ。そろそろ出発しようぜ。いい知らせがある。この階段の下が最下層。後は最深部にたどり着ければ、外まであっという間だ」


 ロランさんが弾みをつけて立ち上がります。思考の迷路に陥りかけていた私は、ほっと胸をなで下ろしました。謎や疑問は数あれど、やっとここから出られるのです。まだ早いですが終わりが見えた事で、気が楽になったのには間違いありません。


 それからも慎重に大胆に、重苦しい淀みで満ちる迷宮の中を渡り、私達は広間を前にした通路の角で待機しました。

 かすかに首を傾けて覗いた先の広間にはいくつもの柱が佇立し、四隅にはそれぞれの階層へつながる階段があり、中央には一筋の命綱のように長い石橋がかけられ、その周囲には底の見えない断崖が口を開けていました。

 橋の向こうには壁に沿って燭台が並び、奥には私の身長よりも一回り大きな鉄の扉があります。その扉をロランさんは指差しました。


「あの先が最深部だ。あそこまで抜けられれば、ここから出られるぜ」

「で、でも……」


 私は素直に喜べず、口ごもります。

 それもそのはず。吹き抜けになった断崖から噴き上がる不気味な風音に混じり、数え切れない硬質な足音が響いていました。広間にはあの、甲冑の兵士達が大量に巡回していたのです。いくら足が遅いといえど、あの中を突っ切るのは自殺行為と言えました。


「何か作戦が必要だな……あまり猶予はないが」


 そうですね、と頷きかけた私の肩を、何かが叩きました。ロランさんでしょうか。隣を見ると、通路の反対側から様子を窺っていたロランさんと目が合います。


「ろ、ロランさん、今私の肩、叩きました?」

「いや、そんな事してないぜ」


 では、気のせいでしょうか。目線を戻し、少しでもロランさんの役に立つべく懸命に頭を回転させていると、その思案をぶった切るようにまた叩かれます。しかも今度は、頭でした。


「ちょ、ちょっとロランさん、今はふざけてる時じゃ……っ」

「いや、違うって。俺、何もしてないよ」

「それなら、今の、は……」


 ちょっといらつきながら肩越しに振り返り、私の声は途切れ途切れになっていきました。


「なんだ、どうした?」


 ロランさんも軽い調子で後ろを見て――そこにずらりと雁首そろえていた甲冑の兵士達と向き合ってしまい、がくりと顎を落とします。考え事に夢中になっていたせいか、私達の二人とも、兵士達に気づきもしなかったのです。


「に……逃げろー!」


 ロランさんと私の声がだぶり、慌てふためきながら身を隠していた通路から飛び出しました。当然、後から兵士達も追いかけます。その上、巡回していた広間中の兵士達の注意も引き、騒音をかき鳴らしながらたちまち百人くらいの兵士達が迫って来てしまいました。


「橋だ、橋を渡れ! 扉まで強行突破だ!」

「無理ですよ、橋の上にも兵士がいっぱい……っ」

「俺がなんとかする!」


 叫び返したロランさんはさらにスピードを上げ、その勢いのままに橋の上で仁王立ちする兵士達へと体当たりしました。

 中身がなく、踏ん張りもできない兵士達ですが全身鎧の重量は相当のものです。にも関わらずロランさんは次々と兵士達を谷底へと突き落とし、あたるを幸い薙ぎ倒しまくっています。


「う……わああぁぁぁぁ!」


 その勇姿に鼓舞されたのか、見つかったからどうなってもいいという捨て鉢からか、とにかく私も大声を張り上げて橋を駆け抜け、手を伸ばしてくる兵士達の間をかいくぐりながら一目散に扉を目指します。


「あの扉は重い、二人で左右に分かれて引っ張るぞ!」


 と、あれだけの数の兵士と戦いながらも、ふと気づけば脇をロランさんが併走し、そんな事を言ってきます。腕力には自信はないですが、ここまできたらなるようになれです。私とロランさんは一緒に扉へ取りつき、両腕を突き出してそれぞれ扉のくぼみに指を引っかけ、力を込めて引きました。


「こ、の……開きやがれぇ――!」

「開いて、お願い……!」


 後方の兵士達はロランさんがかき回してくれましたが、捕まるのも時間の問題。どんな恐ろしい目にあうか、とぞっとした私は歯を食いしばり、腕ももげよとばかりに引っ張り続けました。くぼみにかかった指が白く折れそうに痛いですが、気にしてはいられません。

 わずかに手応えがあり、ずず、と扉に隙間ができました。奥には広大な空間があるようで、かすかに光が差し込んできます。二人で力を合わせ、人一人くらいが無理をすれば入り込めるだけの空隙をこじ開けると、ロランさんが叫びました。


「よし、先に行け、ジェシー!」

「ロランさんは……?」

「もちろん後に続く、ほら、急げ!」


 言いながら、私の身体を扉へ押しやります。私もその狭いスペースに肩口から押し込み、足をばたつかせるようにして芋虫のように入り込みました。上半身は何とか向こう側に出られましたが、まだ下半身が後ろに残ってしまっています。


「ひゃ、ロランさん、どこ触ってるんですかっ?」

「そんなの気にしてる場合じゃないだろ!」


 私の抗議の声を一喝したロランさんが背後から私の足を掴み、束ねた紙か何かのように押し入れて来ました。おかげで私は扉を抜けられたもののバランスを崩し、顔から床へべたりと落ちてしまいます。額をぶつけて視界に火花が散りました。


「そ、そうだ、ロランさん!」


 ただちに起き上がり、続いて来るだろうロランさんに手を貸すべく振り返りました。しかし、今しも兵士達に襲われんばかりだったロランさんは扉に手をかけたまま私を見つめ、にっと笑い。


「……脱出通路はすぐそこだ。うまく逃げろよ」

「え……ロランさん――ロランさんっ?」


 立ちすくむ私の前でロランさんは渾身の力を込め、たった今ぎりぎりで開いたはずの扉を、閉ざし始めてしまいます。我に返り進み出ましたが一歩遅く、私の伸ばした指の先で扉は重々しい音を立て、閉じてしまいました。


「そ、そんな、ロランさん、ここを開けて下さい! ロランさん……!」


 まさか、ロランさんは私を逃がすために、囮になって残ったのでは。叫びながら扉を叩いても、私一人の力ではもうびくともしません。さっきだって、ほとんどはロランさんが開けてくれたのです。扉の向こうからは依然として騒がしい物音が続いていました。私は信じたくなくて、ふるふると首を振りながら後ずさりました。


「ロランさん……嘘……ああ、私……っ」


 突然迷宮に送り込まれた以上のショックに、私は呆然とする他ありません。扉の向こうでは何が行われているのでしょう。ロランさんは無事なのでしょうか。もう私には、何も分かりませんでした。どうしてこんな事に。何がいけなかったのか。現実逃避のようにそもそもの原因を頭の隅で考えた私は――後退している踵が、何かに引っかかったのに気がつきました。


「え……これ……」


 見下ろすと、足下には何かが落ちていました。それは分厚い、本のように見えます。そういえば、ここはどのような場所なのでしょう。怯えたように周りを見回します。

 柱も燭台もなく、あの甲冑の兵士もいない、何もないシンプルな正方形の部屋でした。私の立っている場所は中央のあたりで、そこだけ白い床が段差のようにせり上がり、祭壇みたいになっています。見上げればどんな仕組みなのか、太陽の見えない天井から祭壇部分にだけ向けて、白い光が淡い木漏れ日のように射していました。


 改めて私はかがみ込みます。間違いありません。そこにあったのは、私の日記帳でした。

思えばこれを拾った時から、おかしな事が起こり始めたのです。でも、一点だけ今までとは違うところがありました。日記帳の表紙にある私の名前――それが、別の名前に書き換わっていたのでした。


「……こ、これ……」


 その名を見て、私は目を疑いました。何度かまばたきしても、その名は見間違いではありません。息が詰まるような動揺の中、私はその名前を口にしました。


「……ロラン・ハット……?」


 どうして、ロランさんが。いえ、そもそも、私の知っているあのロランさんのものなのでしょうか。ならこれは、私の日記帳によく似た別物という事? 

 何も考えられなくなり、震える手で本を開こうとしましたが――開いたのは、これだけ厚みのある本にも関わらず、はじめの方の数ページのみでした。



 ――ばあちゃんの手帳に導かれるようにして、俺はその迷宮を目指した。

 手がかりはフォレスという国の名前と、おおまかな地名と位置。地図もなければ、詳細を知っている知人の情報もない。ただ、行くな、という警告代わりにその部分だけが赤く塗られていて、がぜん俺の興味をそそったのだ。何としても、この迷宮の秘密を暴いてみせる。

 迷宮の発見には恐ろしく時間がかかった。浪費と言ってもいい。手帳にあった地方をまんべんなく探し尽くし、それでようやく入り口を見つけたのだ。迷宮は辺境の森林地帯にある洞窟の、さらに深奥。そして巧妙にカモフラージュされた隠し通路の地下にあった。 光届かぬ迷宮は一体どの程度の規模なのか、何が隠されているのか、まったく謎のまま。

 だが、だからこそいい。入り口を見つけただけで、俺の心は沸き立った。

 さっそく踏み込んでいったが、内部で待ち受けていたのは悪辣かつ陰険、そして大量に張り巡らされた罠の数々。犠牲者とおぼしき死体の山。これでもかという、侵入者を殺すためだけに作られたような迷路。この迷宮を作った奴は相当根性がねじくれているに違いない。探し出して、一度はお目にかかってやりたいぜ。

 けど、なるほど突破は困難を極めたが、ばあちゃんがこの迷宮を恐れる原因は掴めなかった。俺ならまだしも、ばあちゃんであればこの程度軽く抜けられると踏んでいたからだ。 要塞のように堅牢な古城やある時間帯でしか現れない幻のような遺跡、もはや人智の及ばない存在がうごめく秘境などは他にもある。冒険を完了するための手順である、情報収集、入口の発見、侵入、生還。それらが絶望的なまでに敷居の高い場所はここに限らない。

 なぜばあちゃんはこの迷宮を特別扱いしているのだろう。まだまだ駆けだしの俺でもどうにか最深部までたどり着けたくらいだから、ひょっとしたら若い頃苦労させられたとか、内実は大した事のない理由なのかも知れない。

 最深部には、拍子抜けするほど何もなかった。お宝も、気になるものも、一切ない。奥には地上まで直通の隠し通路があるものの、正直期待外れの感は否めなかった。ばあちゃんが何か隠したとか、そういう線も消えた。となると結局、この迷宮は何だったのか。残ったのは謎と、熱に冷や水をかけられるようななんとも言えないむなしさだけだ。



「……やっぱり、これ……ロランさんの」


 疑う余地はありません。この文章はロランさんがここを探検した時の模様です。私を連れず、かつて一人で来た時のもの。そして書いてある通り、この部屋にはそれらしい財宝もないです。あるのはこの、日記帳だけ。

 と、その時。日記を何度か目で追っていた私の前で、最後の行で途切れていた空白部分に、何やら黒いものが浮かび上がり始めました。私は小さく悲鳴を上げて、日記帳を取り落としかけてしまいます。

 その間にもにじむようにページへ浮かび上がって来たのは、なんと文字でした。何行にも渡る文字列が、まるで日記の続きであるかのように、ページの隅まで続いているのです。


「どういう、事なの……?」


 すでに私の理解を超えた事態ですが、本と見れば手に取らずにはいられない生来の気質ゆえか、自然と目はその部分へと向いていました。



 ――だけど、俺は思い直していた。その迷宮には何もなかったかも知れない。でも、俺が本当に求めていたものはそんなものじゃなかった。未知の場所を進む緊張と興奮、攻略をなし遂げた時の喜び。俺が冒険家を目指したのは、そういったものを感じたかったからだ。

 ジェシーと改めてこの迷宮を探検して、語らって、そんな初心を思い出す事ができた。宝は、最初から自分の心にあるんだ。あいつがそれを気づかせてくれた事には感謝してる。もしかなうならジェシーともっと、いろんな場所を冒険してみたい。そうしたら、きっととても楽しいだろう。

 ありがとな、ジェシー。



「え……私……?」


 唐突に出て来た自分の名前に、私はあっけにとられていました。たった今書き込まれたような内容ですが、筆跡は変わっていません。これも多分、ロランさんの日記なのです。

 困惑が収まらないうちに、再び異変は襲ってきました。完全に密閉されていたはずのこの空間に、突如として突風が吹き荒れ始めたのです。その風は私の手から日記帳をもぎ取ると、またもページを舞い散らかせ、周囲を包み込みます。


「もう、何が……どうなって……!」


 横殴りの強風にあおられた私は夢なら覚めてと願いながら目をつむり、身体を抱え込むようにして耐えしのぎます。

 いつしか風がやむと、心の準備をしてから大きく息を吐いて、そうっとまぶたを押し上げました。

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