二話 虚ろなる迷宮 上
呆然と立ち尽くしてしまいます。違う、ここは図書館じゃない……それにさっきまであれほど巻き上がっていたページも、日記帳も、どこにもなくなっていました。
夢か幻でも見ているようですが、それにしては地面や壁の乾いた質感や、そこかしこにある積もった埃に赤黒い染みといった汚れ、寒々しく苦いものの混じった空気感などはいやにリアリティがあります。
「ここ……どこ」
脳がようやく、自分がどこか別の場所にいるのだと認識したためか、私の口からはそんな間の抜けた声が漏れました。でも、そんな事でも呟かないと永遠に立ち尽くしていたのではないというくらい、混乱しきっていたのです。
首から下の体温が急速に低下していくようで一歩も動けず、得体の知れない恐怖が膝から下を小さく震わせていました。
「ったく……なんなんだよ、今のは」
と、そこでやや後ろの方から、げんなりしたようなぼやきが聞こえました。私ははっとして振り返ります。
誰あろう、図書館で談笑していたロランさんでした。冷たいものに蝕まれ、苦しささえ感じられていた息が楽になり、私は声を上げます。
「ロランさん!」
「おう、びっくりしたな、ジェシー。しかしここはどこなんだ? 俺達、さっきまで図書館にいたはずだよな」
「わ、分からないです……日記を読んでたら、急に。もう何が何だか……」
うろたえるばかりの私と違い、ロランさんはこんな奇妙な現象にもすぐ順応したみたいで、原因を究明しようと思索しているようです。その姿が頼もしくもあり、ちょっとばかり羨ましくもあり。とにかく、私は湧き上がる安堵にほっとするばかりで、ロランさんの質問に答えるどころではありませんでした。
「……まあ何にせよ、お互い無事で良かったぜ」
な、とロランさんが笑いかけてくれるので、私は何度も頷きました。ロランさんがいてくれて本当に良かったです。こんなところに一人で残される羽目になったら、なんて想像したくもありません。
「こ、これからどうしましょう……私、司書の仕事があるのに……じゃなくて、何だかとても嫌な感じがするんです、ここ」
「そうだな……理由や方法はさっぱり不明だけど、俺達は図書館でない別の場所にいる。とりあえずそいつは確かだ。だったらとりあえず、脱出しようぜ。俺だってこんな気味の悪いとこにはいたくない」
その提案には一も二もなく賛成でした。私一人ならどうしたらいいのか途方に暮れていたかもしれませんが、ロランさんがこうして簡単に状況を纏めて方針を決めてくれるだけでも、やるべき事や希望が見えてくる気がします。しかし、そう言った直後、ロランさんは眉をひそめてあたりを見回しました。
「けど……俺、もしかするとこの場所、知ってるかも」
「え――本当ですか?」
「ぼんやり、とだけどな。以前、お宝を求めて入り込んだ迷宮と似てるんだ、通路の形とかが」
という事は、どういう事なのでしょう。まさか私達はその、ロランさんが探検したという迷宮に迷い込んだ、なんて状況なのでは。でも、そんなの荒唐無稽すぎます。
「いや、まだはっきりした事は言えないけど、一応な。そもそもここがその迷宮だったとして、現在位置も分からないんじゃ確かめようがないし。だから進みながらあたりを調べていきたいんだが、いいかな」
「あ……はい。ここがどこか分かれば、それに越した事はないですよね」
何か、おかしな事態に輪をかけて不穏な予感がします。私にはまったく見覚えがないのに、ロランさんは知っているかも、と告げている。これは何を意味しているのか、この時の私には理解しようもありませんでした。
最初の一歩を踏み出すのには大変な勇気がいりましたが、ロランさんがずんずん前へ進んでいくので、あまり逡巡もしていられません。こんな場所に一人置いていかれたら生きて脱出できる気がしないです。足手まといにならないよう、歩幅の広いロランさんに私も小走りでついていきます。
「……やっぱり似ているな。あの迷宮に……」
「そう、なんですか……?」
しばらく歩き続けていた私ですが、早くも息切れし始めています。でもロランさんの推理を邪魔したくなく、何でもない風に相づちだけを打ちました。
「もしそうだとしたら、気をつけてくれ。この迷宮は何層にも分かれて入り組んでいるし、そこかしこに危険な罠があるはずだ」
罠、と聞いて私は顔から血の気が引きました。わけもわからずこんなところに送られて、しかもはっきりとした身の危険があると知らされて、怖がらない人なんているのでしょうか。私は無理でした。傷つけられるかと思うと肩が震えて、ふらふらと歩調も乱れてしまいます。
「ど、どうしましょう……罠だなんて、そんな」
「どうもこうも、回避するしかない。罠の種類や位置は俺が覚えてるからいいとして、ジェシーもあんまり不用意にあちこち触ったりしないでくれよ。罠の起動スイッチがあるかもしれない」
ますます進みたくなくなりました。もしも歩き出す前にこんな情報を聞かされていたら、私ならすぐにうずくまってしまっていたでしょう。気をつけろと言われても、周囲は薄暗く、足下さえよく見えないのです。
そうこうするうちに、通路の先に階段を発見しました。上へ続くのぼり階段で、左右には火の付いた燭台が配置されています。やっと明かりと、ここから出られそうな階段を見つけられて、自然と私の心は浮き立ちました。
「これで上に行けますね……! こうやって階段を上がっていけば、きっと外に……っ」
「いや。俺達が探すのは下り階段だ」
その、浮かれそうになった私に冷や水を浴びせるような事を、ロランさんは言いました。あっけにとられて振り向き、難しい顔で階段を睨むロランさんを疑問を込めて見つめます。
「ど、どうしてですか? ここは窓もないですし、きっと地下にあると思うんです。だったら、上へ行くしかないと思うんですけど……」
「そうなんだが、途中には多くのトラップがある。俺一人ならともかく、ジェシーを連れてその中を抜けるのはかなり辛い。だから上のルートは通らない」
「上の、ルート……?」
ああ、とロランさんは階段から視線を外し、右手に続く通路へと目線を投げます。
「この迷宮の最下層には、一直線に外へ出られる脱出通路があるんだ。そこには罠もないし、一本道だから迷う事もない。出るならそっちだ。俺達は下を目指す」
「で、でも、この階段の先はすぐ出口かもしれないですよね……? ここが何階か分からないなら」
望みを込めて私は言いましたが、ロランさんはかぶりを振って。
「……いや。ここは迷宮の後半くらいだ。ちょうど最深部付近に俺達はいるんだよ。だから、このまま下へ潜っていった方が安全なんだ」
「ほ……本当なんですか?」
「ほぼ確信してる。このあたりは道に迷って何度も往復したからな」
私は目の前にある階段を上りたい欲求を抑えるのに、だいぶ苦労しました。多分何も知らなければ、喜んでこの段差を駆け上がっていったに違いありません。けれど、正直相当戸惑ったけれど、ロランさんの言葉を信じる事にしました。上は本当に危険なのでしょう。
「最深部までもうすぐのはずだ。行こう」
促されて、私は重い足取りを進めました。大好きな本もどこにもなく、抱えていた日記帳も見当たらず、罠にかかった小動物みたいに異世界へ迷い込んでしまったみたいで、悪夢なら早く覚めて欲しいです。
「――お、おい、ダメだ、そっちに行くな!」
「え……?」
突然大声を出したロランさんがダッシュで駆け寄ってくるのにきょとんとした声を漏らした私は、次いで足が何か段差のようなものを踏み抜いたのに気がつきました。
その直後、左奥の通路で地響きにも似た音が発されたかと思うと、強烈な振動を立てながら巨大な丸い岩が落下して来たのです。同時にがくりと足下の通路が斜めにへこみ、私は揺れに耐えられずへたりこんでしまいます。
「早く立つんだ、ジェシー!」
こちらへたどりついたロランさんが腕を伸ばし、掴み上げてきます。私は悲鳴を出す暇もなく、転がり始める岩に視線を吸い寄せられました。恐らくさっき踏んだのは罠のスイッチです。そしてあの岩は、標的を潰すべくどこまでも追いかけてくるのでしょう。身長の四倍近くもあるあんな巨岩に迫られたらひとたまりもありません。
ロランさんが私を引っ張るのに従って、走り始めました。私の手首は依然として痛いくらい握られていますが、その力強さはまだ自分が生きている実感を与えてくれます。斜めの坂になった通路は走りにくいし、背後から転がり落ちる岩に始終背筋が粟立っていましたが、ロランさんに連れられて通路の壁にできたくぼみに二人で入り込み、岩をやり過ごしたのです。
「……行ったか。危なかったな」
ふー、と息を吐くロランさんの顔を、私は見られませんでした。
「済みません……私が変なスイッチを踏んだばかりに、こんな事に……」
「気にするなって。実はあの岩、俺もうっかり起動させた事があってさ。今回もあらかじめ逃げ場を知っていたから、むしろ運が良かったくらいだ」
ロランさんが元気づけるように肩を叩いてくれます。命からがら生き延びて、その危険を呼び寄せたのは私自身。胸にしこりのような重いものが残っているけれど、見捨てないでくれるロランさんには感謝しかありません。
これから先も、あんな罠が待っているのかと思うと気分が悪くなりそうです。でもそれとは別に、ここまで来たらこの理不尽だらけの迷宮から絶対に脱出してやろうという気概も湧いてきていました。それはきっと、ロランさんが近くにいてくれるおかげでしょう。
その後も私達は幾度となくトラップに襲われました。吊り天井、落とし穴、穴から飛び出してくる矢。その度にロランさんに助けられ、救われ、私は首の皮一枚で生き延びていました。
相変わらず通路は薄暗く、どこか明るい施設に出るわけでもなく。罠の数は増え、その犠牲者達の亡骸も絶えず転がっていました。罠にかかり、息絶えた遺体。あるいは方角を見失い、迷った末に飢えて動けなくなった遺体。争った形跡のある遺体もありました。どれも白骨化していましたが、いつ彼らの仲間入りをするのではないかと、背中から押し潰されそうな重圧に生きた心地もなく、目の表面が乾ききって痛みを感じ、口の中も水分一つなくからからでした。
体力的にも精神的にも、私は限界でした。こうした逆境には慣れているロランさんと違い、私は単なる司書です。運動だってろくにしないし、スタミナもたかが知れています。何より、こんな異常な空間でいつまでも普通でいられるほど、神経は図太くありません。だから本当に不意に、私は膝を突いて腰を折り曲げ、その場にうずくまってしまいました。
「……ジェシー? どうした、大丈夫か?」
私の足音が聞こえなくなった事に気がついたのか、歩み寄ったロランさんがかがみ込んで呼び掛けて来ます。私はかぶりを振りました。
「大丈夫です……すぐ、立ちますから……うう」
うめきにも似た声が漏れ、脱力したように四肢へ力が入りません。嫌な汗が全身から噴き出し、控えめに言って最悪の心地でした。息は切れて、返答も途切れ途切れ。どうも私は、自覚していた以上に心身共に疲れ切っているようです。
「……いや、無理しなくていい。どこかで少し休もう。ほら、肩を貸すよ」
ロランさんの声調が深刻なものになり、私の答えを待たずに身を寄せ、肩を貸して来ます。意外と筋肉のついた腕に掴まるようにして、私は弱々しく立ち上がりました。
「――済みません、こんな……」
「俺の方こそ、ジェシーのペースを考えてやれなくてごめんな。やっぱ結構、動揺してたみたいだ」
見上げれば、ロランさんの表情には後悔の色が混じり、唇はへの字に曲がってしまっています。進むスピードは明らかに低下して、近くにあった小部屋へのドアを開けるまで、私達はそれきり一言も話しませんでした。
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